12歳で死がトラウマになった
死ぬことへの恐怖
きっかけは、金曜ロードショーでルパンの映画を見たときだった。
ルパン三世 ルパンVS複製人間
皆さんはこの作品をご存知だろうか。
詳しくはググって見てほしいのだが、ルパンの敵はクローン人間で1万年も自分を複製して生きている者だった。
最後のシーンは、敵の巨大な脳が宇宙へと飛び立っていくものだったのも鮮明に覚えている。
小学校6年生の僕には、とてつもなく衝撃的だった。
ここで齢12にして思った。
死んだらどうなるんだろう。
僕の答えは「無に帰る」だった。
無。何もない。何も見えない。何も聞こえない。感じない。ただ真っ暗闇の中。そこにある、のかすらわからない。
そこから先は考えても考えてもわからない問いの始まりだった。
当時、なんなら今でも死んだ先の世界がどんなものなのか知らない。
「死んだら天国へ行く、空の上から見守っていてくれる」なんて言ってたことを信じていたけど、それが担保されていることも全く知らない。
いずれは終わりがくるのだ、と思うととにかく怖くなった。不老不死について調べたこともある。
その当時は、友達と話しているとき、
「何歳まで生きたいと思う?」
って聞かれたら
「100歳まで生きたい!」
って答えていた。死にたくないから。一刻も長く、その当時考えられる範囲で生きていたかったから。
生きることへの恐怖
死ぬことがとにかく怖かった。だからそんなことを考えないようにしていた。
でもよくよく思った。
ずっと生きていたらどうなる?
これがまた僕の死のトラウマを助長させた。
現時点で不老不死になる薬なんてない、冷凍保存とか映画の世界の中の話、でもそれが実現したら。いつまでも生きられるとしたら。
それはそれで、何十、何百、何千、何万と過ぎる時間の中を生き続けなければならない。望もうが望まないが、この世界に縛り付けられて、生き続けなければならない。終わることを許されない。考えようもない、途方を生きなければならない。
ヒンドゥー教とか、キリスト教の本とか見て、輪廻転生だとか、救われるだとか、そんな言葉信じられなかった。
考えただけで気が狂いそうだった。いや、狂った。
それを考えるたびに、家で、教室で、道端で、発狂した。家族には本当に心配をかけてしまった。
もはや生を受けた時点で間違っているとも思った。生を受けなければこんな悩みを持つこともなかったのだと思うと。
そんなこんなで生きることにも死ぬことにも恐怖を覚えた。
もはやどうすればいいのかわからなかった。
「なんで生まれてきたんだろう」
そんなことを、中学生の時には考えてた。
こんな話、友達にも、家族にもできなかった。
言ったところで、気味が悪く思われることがわかっていたから。
それは今でも
今でも死について考えると発狂しそうになる。特に一人の時。
流石に大声出したり、暴れ出したりはしないけど、それでもyoutubeとかで人の声を聞かないと過呼吸に鳴りかけてしまう。
できる限り「死」について考えないように避けていたが、
結局「死」は誰しもに必ず訪れるものであり、むしろ「死」こそが救いなのではとも思えた。
生は死の一部でしかなく、対極ではなく同一のものの中にあり、死を意識すれば生が輝き、生を意識すれば死が輝く。
結局は共存していかなければ、とも思うけど、そう思うにはまだ精神が成熟しきっていない。いつかはこのトラウマを乗り越えねば、とも思ったけど、もはや乗り越えず、恐れていた方が健全に生きれるのではないかとも思えてきた。
今でも自分は、死ぬことが怖い。
でも死ぬからこそある「今」を生きてやろうと思えている。
死ぬからこそ、その終わりが来る瞬間までに、「生」を生き尽くしていたい、とも思う。
今の、自分にとって生き尽くすこととは、幸福を追求すること。
幸せに生きて、幸せに死にたいなと思う。
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「なりたい自分ポトレグラファー」の岩田さんと話す中で、久しく自分の死生観のルーツについて思い出せたので、遡るような形で自分の考える死生観について書きました。
まだ齢21のガキンチョですが、こんなこと考えてる大学生もいるんだな、程度で見てあげてください。
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