楠田純子評 アーネスト・ヘミングウェイ 著、今村楯夫 訳(今村楯夫訳、左右社)
評者◆楠田純子
老漁師と巨大カジキの闘い――新訳により与えられる視点
新訳 老人と海
アーネスト・ヘミングウェイ 著、今村楯夫 訳
左右社
No.3567 ・ 2022年11月19日
■一匹も釣れない日が長く続いた末に、老漁師が巨大カジキと対峙する――。『老人と海』はアーネスト・ヘミングウェイが生前最後に発表した小説だ。一九五二年に『ライフ』誌に掲載され、掲載号は瞬く間に完売したという。なお、ヘミングウェイは一九五四年にノーベル文学賞を受賞した。
舞台はキューバの漁村。作中に地名は書かれていないが、登場するテラス亭はコヒーマルに実在するレストランだ。物語は主人公である老漁師サンティアゴが一匹も釣れなくなった八四日目から始まる。帰港したサンティアゴはマノリンに誘われてテラス亭へ行く。
マノリンは五歳のときに初めてサンティアゴの舟に乗って以来、直接漁のてほどきを受けた人物で、このたびの不漁続きの四十日目までは一緒に漁に出ていたが、両親の言いつけにより冒頭時点では別の舟に乗っている。サンティアゴを尊敬し、身の回りのことを気遣い、世話もしている。
明けて八五日目、マノリンを起こしに行き港まで共に歩くが、ふたりは別の舟で海に出る。サンティアゴは沖に出て行き、正午頃にカジキが綱にかかったことを感じ取る。並みならぬ巨大なカジキだったためか、決着がついたのはそれから丸二日後、さらに帰港するまで丸一日を要している。帰宅後泥のように眠るサンティアゴを発見するのはマノリンだ。
あらすじ自体はシンプルでわかりやすい。だが、物語というのは単に出来事を追うためのものではない。読むごとに読者の心境や人生経験によって新たな発見や学び、考察を得るものだ。
サンティアゴが単に老人であるだけでなく、経験豊富で熟練した漁師であることは、刻一刻と変わる海上での状況に対し即座に対処していることから明白だが、特筆すべきはそれだけではない。
海を「ラ・マル」と常に女性名詞を使って呼び、「何かを与えてくれ、素晴らしい恩恵を施してくれる。荒れたり邪(よこしま)なことをしたりするのは、海の意志ではない。女性が月に左右されるように海も月に影響を受けるのだろう」ととらえている。また、漁の最中に飛んできた小鳥が疲れた様子で舟にとまれば「ゆっくり羽を休めるといい」(五十ページ)などと話しかけ、「いい道連れができた」(五一ページ)と思うなどしている。お互いに命懸けとなる闘いを繰り広げるカジキに対しても同様、またはそれ以上の眼差しを向けており、「あいつも兄弟だ」(五五ページ)、「お前ほど大きく、美しく、穏やかで、高貴なやつはいない」(八七ページ)などと心の中で声をかけている。老人にとって海は単なる職場ではなく、出会う動物はたとえ獲物として対峙する魚であっても単なる生活の糧を得るためのものではない。常に敬意を持って接している。と同時に、「でも殺さなければならない」(五五ページ)とカジキに対して思うように、獲物は獲物。サンティアゴは漁師であり、魚は魚だ。
「毎日新しい一日がやってくる。運に巡り合えればそれに越したことはないが、自分としては正確を期したい。運が向いてきたとき、備えがなければ無駄になる」(二九ページ)とあるように、サンティアゴは自分の持つ知識と技術、経験からくる知恵を総動員してできること、すべきことをすべて行い、あとは運の巡りを待つ。
マノリンがこのたびの漁に同行していないことは前述した通りだが、その存在感、またはサンティアゴにとってマノリンの存在が大きいことを感じさせられる。「あの若者がいてくれたら」と何度も口にする、あるいは思う描写が繰り返し出て来るからだ。マノリンについては年齢が明らかではなく、たびたび議論の的となるようだ。
本作はこれまで、文芸評論家であった福田恒存をはじめ、さまざまな翻訳者に翻訳されてきた。原著では「boy」と表記されるマノリンだが、福田訳では「少年」と訳され、口調もやや幼い印象を与える
ものとなっている。本書は現代アメリカ文学を専門とし、ヘミングウェイ研究の第一人者でもある今村楯夫による邦訳だが、こちらでは「若者」と訳され、口調もそれに応じたものとなっている。今村がマノリンを「若者」とした根拠については訳者解説で述べられているので一読されたい。冒頭と最後には姿を現し、漁の間は姿はなくともサンティアゴにとっての存在の大きさを感じさせるマノリンを少年と見るか若者と見るかは大きな違いだ。読者が頭の中で情景を描く際の画が変わることはもちろんだが、マノリンがとる言動の動機を考察したときに感じるもの、見えて来るものも大きく変わるのではないだろうか。
同じ物語も、読むごとに読者の心境や人生経験によって新たな発見や学び、考察を得るものだと前述した。異なる邦訳を読み比べることで、新たな解釈と出会い、さながら訳者と対話をするようなひとときを持つのもひとつの楽しみかもしれない。
(翻訳者)
「図書新聞」No.3567 ・ 2022年11月19日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?