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遠藤康子評 村上春樹『デヴィッド・ストーン・マーティンの素晴らしい世界』(文藝春秋)

村上春樹の脳内ジャズ談義とジャケットデザインが一挙に楽しめる熱いエッセイ――目でも耳でも楽しめるジャズ本

遠藤康子
デヴィッド・ストーン・マーティンの素晴らしい世界
村上春樹
文藝春秋

■村上春樹が、ジャズに対する深い造詣と愛情をこれでもかと言わんばかりにぶつけてくるエッセイだ。ものすごい熱量を感じるが、かといって押し付けがましくはなく、村上の脳内で繰り広げられるジャズ談義がそのまま文字になったような軽やかさもある。
 まず、タイトルにもあるデヴィッド・ストーン・マーティン(略してDSM)とは誰か。帯には「極上のジャズ・エッセイ」とあるのでジャズミュージシャンと思いきや、ジャズ黄金時代の一九四〇年代~五〇年代を中心にレコードジャケットを多数デザインしたアーティストだ。本書では、このDSMが描いたレコードジャケットを柱に、村上春樹がジャズに対する想いを語っている。
 まえがきによると、DSMが「デザインしたジャケットのレコードをとくに意識して集めていたわけではない」そうで、百枚を超えたあたりで初めて意識しだしたという。面白いのは、村上がレコード集めをゲームととらえているところだ。五千円(または五〇ドル)以上のものには手を出さないというルールを自らに課しているのだとか。
 冒頭に登場するミュージシャンは、ジャズに疎い人でも名前くらいは聞いたことがあるであろう、アルトサックス奏者のチャーリー・パーカーだ。村上はパーカーの経歴に少し触れてから、DSMが描いたパーカーのレコードジャケットの説明に移る。鳥がサックスを演奏している絵柄なのは、パーカーの愛称「バード」にちなんでいるという。ほかにも、黒目を剥いて横たわる鳥や沈思黙考する黒い鳥が描かれ、村上が独自の視点で考えや疑問を述べている。
しかし本番はここからで、ジャズの奥深い世界へと一気に突入していく。鳥が描かれたレコードのセッションについて村上は「当時のパーカーの天馬空を行くがごとき鮮烈なフレージングをたっぷり満喫することができる」と解説する。この一節を読んで、いったいどんな演奏なのだろうと思わない人はいないはずだ。
 最も高く評価しているジャズ・ヴォーカリストとして、村上はビリー・ホリデイを挙げている。麻薬で声が劣化したことに触れ、「そのぶん人間性の生(なま)の芯のようなものが、より露わになって……時として聴くものの心を締めつける」と書く。これを読んでから歌声を聴き、ジャケットを見ると、ホリデイの怒りや影の部分が際立ってくる。
村上はこのように、DSMがデザインしたジャケットの特徴、構成要素を、ミュージシャンの音楽的特徴や個性、ジャズを巡る当時の背景や事情と絡めて、熱く、ときにユーモアを交えて語っていく。
 本書を本格的に味わおうとすれば、膨大なエネルギーと時間を要することになる。デザインの解説を頼りにジャケットを隅から隅まで観察し、ユーチューブでジャズを聴き、各ミュージシャンの背景や人生をさらに掘り下げたくなってしまうのだ。ジョー・ウィリアムズの声が「糖蜜のように滑らか」とあれば、聴いて確かめずにはいられなくなる。ライオネル・ハンプトンの演奏について「からっとしたまま終わってしまったな」とあれば、その感覚を自分も味わってみたくなる。
 DSMのデザインがもつ魅力については、「手にとってながめているだけで、なんだか人生で少しばかり得をしたような気がしてくる」らしく、「なぞかけ的ディテイル」について「あれこれ考え始めるとキリがなくなってしまうのがDSMの絵の特色」だと語る。
その一方、ジャケットが好みでも収録されたセッションが気に入らないことがあり、音楽自体についてはときに辛口だ。「飽きてくる」「クサい」「個性がない」と容赦ない。
 本書は幅広い人が楽しめる一冊だ。ハルキストなら、村上春樹の脳内の声を聴くチャンスだし、ジャズ初心者には入門書になる。本気でジャズに浸りたいなら、解説を読みながら音楽を聴き、自分の好みを絞り込んでいける。ジャズマニアでも、読み込めば必ず何かを発見できるはずだ。DSMはブックカバーも多数手がけたそうなので、デザイン好きなら調べてみるのも面白い。まさに、目でも耳でも楽しめるジャズ本である。
 村上春樹はこつこつと古いレコードを探し回っているそうなので、ジャズやDSMに興味を抱いたなら、中古レコード店に足を運んでほしい。嬉々としてレコード探しのゲームに熱中する彼にばったり会えるかもしれない。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3641・ 2024年6月1日に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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