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待場京子評 エリー・ウィリアムズ『嘘つきのための辞書』(三辺律子訳、河出書房新社)

評者◆待場京子
なぜその辞書には虚構語がすべり込んだのか――言葉に取り憑かれた者たちの不器用で愛すべき日常
嘘つきのための辞書
エリー・ウィリアムズ 著、三辺律子 訳
河出書房新社
No.3602 ・ 2023年08月05日

■辞書を日常的に使うという人は少ないかもしれない。ましてやその辞書を作っている人びとのことはほとんど知られていない……とは、『舟を編む』の大ヒットで断言できなくなったものの、本作『嘘つきのための辞書』(エリー・ウィリアムズ著・三辺律子訳)は、いかにも英国らしいウィットがたっぷりで、ちょっぴりビターな味わいの一作だ。
 舞台はロンドン、セントジェームズパークの近くに建つ会館。この場所を舞台に、十九世紀と現代に起こったふたつの出来事が一章ごとに交互に語られる。この会館を当時も今も根城とするスワンズビー社は、一九三〇年、諸事情により未完成の「スワンズビー新百科辞書」を出版し、それきり版を重ねられないでいる。
 現在の会館のオーナーは七十代のデイヴィッド・スワンズビー。「スワンズビー新百科辞書」が世の耳目を集めるのは「未完成」であるということだけで、ブリタニカやオックスフォード英語辞典といった有名辞書の輝かしい名声にはとても及ばない。そこでデイヴィッドは「新百科辞書」の全項目を、現代の読者にむけてアップデートし、デジタル化しようと考えている。しかし、社の凋落ぶりは誰の目にも明らかで、資金不足により会館のスペースの大半をイベントなどに貸し出し、若いインターン女性のマロリーに三階のみすぼらしいオフィスで作業にあたらせている。
 デイヴィッドが新百科辞書の「結婚」の定義を、時代にあわせて「男女間の」から「二人の人間の」に改訂したことを機に、社には特定の人物からたびたび脅迫電話がかかってくるようになった。電話の対応に当たらざるをえないマロリーは、女性の恋人ピップがいるため、電話の主がホモフォビアからくる悪意を自分たちカップルに向けているのではと気が気でない。
 実はマロリーは厄介ごとをもうひとつ抱えていた。スワンズビー新百科辞書には実際には存在しない虚構の言葉がいくつも記載されているとデイヴィッド・スワンズビーに告白されたのだ。こうした語は「マウントウィーゼル」といい、辞書の丸写しを防ぐために出版社側が意図的に入れていることも実際にあるのだが、デイヴィッドが少し調べただけで、常識を超える数の虚構語が見つかったらしい。マロリーは全九巻の全項目を確かめ、その言葉を洗いざらい拾い出すようにと命じられる。
 時代は変わって十九世紀。会館の中心部にある広大な作業室では百名近い辞書編纂者たちが今日も作業にあたっている。そのなかにピーター・ウィンスワースの姿がある。子どもの頃から人付き合いが苦手なウィンスワースは、自衛のためか、舌たらずなしゃべり方を故意にするようになり、今ではそれが完ぺきに身についている。同僚たちの話の輪に加わろうとすることもあるが、そのほとんどが聞き流されてしまうほど存在感の薄い男性だ。
 さまざまな言葉をより分け、検討し、定義づけ、カードに清書する日々のなか、ウィンスワースは、言葉を自ら造りだして書きためることをひそかな楽しみとしていた。ある日、そんなウィンスワースに運命的な出会いが訪れる。そのひとは、ある退屈なパーティーで自分と同じく観葉植物の影に身を潜めていた。次に会ったときには、公園で異物を飲み込んだペリカンを救おうとその首をつかみ、単身、レスラーよろしく格闘していた。かくのごとく行動が突飛で、茶目っ気たっぷりな美しい女性ソフィアにウィンスワースは瞬時に心を奪われる。
 日々、マウントウィーゼルを探し続けるマロリーは、その虚構語の絶妙な語感や定義に唸り、言葉の後ろに透けて見える作者の人物像に好感とよべるほどの思いを馳せるまでになっていた。いっぽう、ソフィアの登場を機にウィンスワースの退屈だった日々には亀裂が入っていき……。
 辞書に収まるような言葉では、自分の気持ちは到底伝えられない。そう思うことが人にはある。そんな気持ちもたった一つの単語で表せたら、と考えるのは人間の業だろうか。宿命の恋に落ちてしまったウィンスワースにとっての、精一杯の愛の定義はこうだ。

Love(動)粉砂糖と、癒し効果のある紅茶の葉、もしくは、当たり障りのない小さな嘘を共有することで、虚空を満たすこと

 ウィンスワースがなぜこのような定義をするに至ったのか。そしてウィンスワースがひそかに書きためていた自作の言葉が、どういう経緯で辞書に掲載されることになってしまったのか。それは本書でぜひお確かめを。
(翻訳者)

「図書新聞」No.3602・ 2023年8月5日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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