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綾仁美評 岸本佐知子『わからない』(白水社)

人生のわからなさの先で、「明かり取りの窓」のような言葉に出会うエッセイ集――不思議で特別な瞬間が、この本の中には詰まっている

綾仁美
わからない
岸本佐知子
白水社

■本書は、ニコルソン・ベイカーやリディア・デイヴィスなど数々の作家の翻訳を手掛けるだけでなく、エッセイストとしても絶大な人気を誇る著者の最新エッセイ集である。
 これまで単行本に収録されていなかった二〇〇〇年代からつい最近までの文章が、ジャンル別にエッセイ・書評・日記の三章に分けて収録されている。
 これまでに手掛けた翻訳にまつわるエピソードが多数披露されているのにくわえ、著者がその時々で接してきた書籍・映画・演劇などのカルチャーやハマっているものにも触れられる内容となっており、著者の翻訳書やエッセイ集を愛読してきた読者は発売を心待ちにしていたことだろう。
そうした読者はもちろん、これまで著者の作品に触れたことがない人や、翻訳者のエッセイなんて自分には関係ないと思っている人にも、ぜひこの一冊を読んでみてほしいと思う。
忙しなく意味や成果が求められる日常から、ほんの少し自由になれるかもしれないからだ。
 この本に収録されている初期の文章から四半世紀近くが経ち、無駄を排除し、効率化や生産性の向上を求める風潮はどんどん強まっている。人と人とのコミュニケーションでさえ、一つの能力や技術として捉えられる場面が多い。
 様々なツールを使いこなし、生活も時間も上手くコントロールすることが当たり前のようになっているけれども、そもそも人間はそんなに上手く自分自身のことをコントロールできるものなのだろうか?
著者自身、その場の暗黙のルールがわからず、集団生活の中ではいつも「地球人のふりをしている宇宙人の気持ち」が付いて回ったそうだ(「カルピスのモロモロ」)。生きることは「何かわからないことが襲ってきて右往左往すること」(「私のこだわり① 人々がなすすべもなく右往左往する映画」)とも語っている。
 自分自身の身体の中で細胞が死んで新陳代謝しているのだって、実感としてはわからないし、自分がどんな時代にどんな風に生まれるのかも選択はできないし、記憶や夢や幻想と現実の境界線だって曖昧だ。
頭の中で思い描けば、ふとした日常生活の一コマから思わぬ方向にどんどん世界が広がってゆき、行ったことのない場所にだって行ける。日常生活はふとした違和感と不思議に満ちている。時間に追われて誰も気にとめなくなってしまっているようなことも、著者にとってはインスピレーションの源になる。
 そんな感覚を持ちながらエッセイや日記を書く著者だからこそ、まだ世界のルールに染まりきっていない子供の文章を愛するし、意味よりも語りのリズムが素晴らしい文章に惹かれるのだろう。
絵本『ことばあそびうた』(福音館書店)の書評での「言葉を発するということは、それじたいが音楽を奏でるようなもので、意味なんかなくたってただもう楽しいということだってあるのだ」という一節(「かっぱかっぱらった/かっぱらっぱかっぱらった」)には、意味から解放されて自由に自分の声を発してみたらどうなるだろう?とわくわくする。
 これさえやれば上手くいくと「○○する技術」や「○○な習慣」を解説する実用書に、それができれば苦労しないとばかりに書評で白旗をあげる姿には、思わず「そうだよね」と笑ってしまった。「そもそも前提条件からして無理」と、著者と同じような感情を抱いたことがある人は多いのではないだろうか。
 著者が中学一年生に向けて書いた「これから英語を勉強しなければならないみなさんへ」という文章の中でこんな風に語っている。
「英語は表面上は日本語とはまるでちがうけれど、その向こうには自分たちと同じ人間の、ふつうの暮らしや喜怒哀楽があると、それらの経験は教えてくれた。」
「たとえ見た目は日本人とはぜんぜんちがっていても、きっとあの人たちも『あー鼻がかゆい』とか『お腹すいた』とか『さびしいよう』とか言っているんだ。英語って、日本語なんだ。」
これは英語について書かれている文章だけれども、日本語でも同じことが言えるのではないだろうか。「感覚がわかる」というのは不思議なことだ。まったく違う人生を生きてきたし、同じ経験をした訳でもないのに、著者が文章で書いているこの感覚がわかる、自分の感覚と重なるなんて、わからないことばかりの人生のなかでも最上級に不思議なことだと思う。
 そんな不思議で特別な瞬間が、この本の中には詰まっている。日常生活の一コマから生み出されたはずなのに、不思議で思わず笑ってしまう文章の中に「あー、わかるな」と自分がそれまで言葉にできなかった感覚を見つけた時、ゆとりなく過ごす日常生活のなかでほっと一息つく「明かり取りの窓」(「オカルト」)のような存在に、この本はなってくれるはずだ。
 (翻訳者/ライター/車椅子ドレスモデル)

「図書新聞」No.3650・ 2024年8月3日号に掲載。https://toshoshimbun.com/
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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