上林香織評 ミシェル・ザウナー『Hマートで泣きながら』(雨海弘美訳、集英社クリエイティブ)
評者◆上林香織
お腹がぐーっと鳴る母娘の物語――オンマ(お母さん)への想いに溢れている
Hマートで泣きながら
ミシェル・ザウナー 著、雨海弘美 著
集英社クリエイティブ
No.3576 ・ 2023年01月28日
■本書は、白人の父と韓国人の母の間に生まれた著者ミシェル・ザウナーがオンマ(韓国語でお母さんの意味)を理解する過程を記した母と娘の物語である。読書家として著名なオバマ大統領が二〇二一年のお気に入りの一冊として選ぶなど、多くの媒体でベストブックに選ばれた。ミシェルは、十代の頃は母親に大いに反発するが、二十代に入って母親との距離を徐々に縮め、お互いが違う生き物であると認められるようになった。さぁ母と娘の美しい第二章が始まると思っていた矢先に、母は癌にかかり、あっけなく他界してしまう。残された娘は、遺品を整理しながら母を理解しようとする――このようなあらすじは、母と娘の物語として決して珍しいものではない。確かに十代のミシェルが抱えた悩みはミックスゆえのアイデンティティの問題があったかもしれないが、そのような悩みも、音楽との出会いで乗り越えていくという話も、まさに音楽のせいでさらに母親と確執が大きくなったことも含めて、アメリカのティーンならばありそうな話である。
では本書がここまで読者を惹きつける理由は何なのか。
ひとつは、本書を執筆している時はもちろん、おそらく今、この瞬間も、ミシェルがずっとオンマを想い続けていることが伝わってくるからだ。幼少期から母親がなくなる時まで、さまざまな母娘のエピソードが紹介されるが、どれを取っても、必ず「今」ミシェルが抱いているオンマへの想いに溢れている。どのエピソードも有機的につながっていて、ひとつも無駄なものがない。ひとつひとつすべてがオンマのために、オンマを理解し、その想いを今ここにはいないオンマに伝えるために書かれているのだ。例えば、オンマが病に倒れたと聞いてミシェルは故郷に駆け付ける。オンマの好きな韓国料理を作って看護に徹し、罪滅ぼしをしたいと考えたのだ。だが、オンマとの時間を取り戻そうとするミシェルの前には、オンマの旧友、ケイという強敵が現れる。料理も世話もすべて彼女に奪われ、いつの間にか「韓国人」のふたりからのけ者にされてしまう。ここでミシェルの筆は、ケイとのエピソードを単なる「ライバル」の話に終わらせず、死の直前にケイについて放ったオンマのひとことを記す。このひとことで、私たちはオンマがミシェルの「半分しか韓国人でない」ことの焦りも、ケイという人間の本質もすべてお見通しだったことがわかる。しかも、それと同時に、そのひとことを書いているミシェルが、「オンマ、あのひとことはマジで最高だった」と笑顔で話しかけている姿が見えてくるのだ。ありがちな母娘の悲しい物語だけでは終わらない、本書の痛快な魅力がここにある。
もうひとつ、私たち読者が、ミシェルの体験を通じて、たとえ誰かが亡くなっても、その人を深く知ることができるかもしれないという希望を抱けるところも魅力ではないだろうか。闘病を支え、葬儀や遺品の整理、母親の親族との交流を通じて、「専業主婦」で何が楽しいのかわからないと思っていた母親を、ひとりの人間としてとらえ直す過程を私たちは目にする。無意識かもしれないが、本書の前半、ミシェルは母親の名前を呼ばず、「ミシェルのママ」としての母親しか描いていない。亡くなってから初めてファーストネームが明らかになる。ミシェルは、オンマが韓国にいる実の妹を癌で亡くしてから絵画教室に通いはじめたことを知っていたが、遺品の中からスケッチブックを見つけ、オンマの上達振りと創造性に驚く。そして作品には韓国語の名前とアルファベットを合わせた署名を入れていたことに気づく。自分の創造性は母親譲りだったのではないか。オンマがもし別の人生を生きていたら、芸術を志したのではないかとも考えが及ぶ。
本書の魅力で忘れてはならないのは、生前からオンマとミシェルをもっとも強く結びつけていた韓国料理だ。オンマの死後、ミシェルは「Hマート」で食材のパッケージに書かれた韓国語を一つずつ読み解きながら、必要な材料を買って、キムチを仕込む。仕込みながら「キムチを嫌いな人に恋をしてはダメだ」と教えられたことを思い出したりする。韓国料理を作ることで死んだオンマとのつながりを強めていく。
オンマは「十%は自分のためにとっておくのよ」と繰り返しミシェルに諭していた。ミシェルは、本書の執筆以外に、音楽制作を通じてオンマの死と向き合い、ジャパニーズ・ブレックファストの名義でアルバム『サイコポンプ』を発表した。オンマへの想いが詰まったこのアルバムの成功で初めて「音楽だけで食べていける」ようになり、その次にリリースしたアルバム『ジュビリー』ではグラミー賞にノミネートされている。ミシェルは、オンマに教えられたとおり、本書の執筆や音楽制作を通じて、自分だけの十%にオンマの居場所をつくり、大切にして過ごしているのだと思う。
(翻訳者/ライター)
「図書新聞」No.3576 ・ 2023年1月28日(日)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。
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