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渡邊真里書評 ケイト・エリザベス・ラッセル『ダーク・ヴァネッサ』上・下(中谷友紀子訳、河出文庫) 

評者◆渡邊真里
教師から生徒へのグルーミング――性暴力は常にわかりやすい形で起きるわけではないという事実を、圧倒的なリアリティで描く
ダーク・ヴァネッサ 上・下
ケイト・エリザベス・ラッセル 著、中谷友紀子 訳
河出文庫
No.3558 ・ 2022年09月10日

■「十五歳のわたしが恋人だった先生は、十七年後、性的虐待で告発された」(本書帯より)。
 主人公ヴァネッサは、特待生として私立の寄宿学校に通っていた十五歳の頃、四十二歳の英語教師ストレインの”恋人”になった。親友との絶交や田舎の出身というコンプレックスもあり、孤立しがちなヴァネッサ。そんな彼女の詩を褒め、「われわれは似た者同士」だと語りかけ、距離を縮めるストレイン。二人は間もなく性的関係を結ぶようになる。十七年後、三十二歳になったヴァネッサはなおストレインとのことは恋愛だったと信じ込み、関係を完全には断ち切れずにいた。だがある日、ストレインは教え子五名から性的虐待で告発され、告発記事を書いた記者や被害者はヴァネッサにも連帯してほしいと訴える。「自分は違う」と頑なに応じようとしないヴァネッサだったが、過去の自分は本当に恋愛をしていたのか、それとも性的虐待を受けていたのかという混乱に陥ることになる。
 教師と生徒の恋愛はロマンティックな物語に昇華されることも多い。だが本書が描くのは教師から生徒へのグルーミングであり、自分を守るために加害を恋愛だと思い込もうとする女性の姿だ。グルーミングとは「一般的には動物の毛づくろいを意味するが、性犯罪の文脈では、大人が性的な目的で子供に近づき、手なずける行為を指す」。二〇二一年には、特にSNSを通したグルーミングの性被害が増加したことで、グルーミングに罰則規定を設けるかどうかの議論も始まっている。国外ではすでに罰則対象と定めた国もある。
 ストレインはヴァネッサに「なんでも話せて信頼できる」「君は特別」などと言って彼女の心に入り込む。「きみはどうしたい?」と彼女の意思を尊重する素振りを見せながら、ヴァネッサが自分の期待通りに答えなければ露骨に不機嫌な態度を取る。性的関係をもった経緯も、言葉巧みに「ヴァネッサが望んだから」だと誘導する。ヴァネッサは、ときにそうしたストレインの態度に違和感を覚え、そんなことは望んでいなかったと頭ではわかっていながら、関係性を支配しようとするストレインを受け入れてしまうのだ。ヴァネッサは「間違え」のないよう「完璧な答え」を出そうとし、ストレインの反応に一喜一憂する。たとえ言葉で何と愛を語ろうが、この二人の力関係は明らかであり、対等な関係は望めない。
 告発記事でストレインの行為が典型的なグルーミングだと知った後も、ヴァネッサは「グルーミングとは、愛情をかけられ、貴重で繊細なもののように扱われることだ」と彼を擁護する。確かにストレインはヴァネッサに対して慎重に接し、愛情や配慮も見せていた。だがこうした手なづけが徐々にエスカレートすることで、嫌だと言えない状況が生まれ、被害が矮小化されていたこともまた事実である。
 用意周到で自己保身に長け、思春期の女の子しか愛せないストレインの裏切りに遭ってもなお、ヴァネッサは彼の愛を求めようとする。あれはレイプだったのかという疑心から目を逸らし、十数年先の人生まですべてを捧げようとする。この執着とも言える心理の根底にあるものは「これはラブストーリーじゃないといけないの」「だって、そうじゃなかったら、なんだっていうの?」という悲痛な台詞に集約されている。
「完璧な被害者や、性的虐待への完璧な対応など存在しない」(本書帯より)とあるように、性的虐待は力づくや強迫など、常にわかりやすい形で起きるわけではない。ストレインは小児性愛者だが、正しくあろうと葛藤していた弱い人間としても描かれる。彼の中ではヴァネッサへの愛は本物で、本当に特別な存在だった可能性も示唆される。だからこそ、ヴァネッサは彼に何年も囚われたまま愛情と違和感の間で苦しむことになったのだ。だが、信頼や権力の乱用もまた虐待なのだと気付いたとき、ヴァネッサは前に進みだす。
 著者ケイト・エリザベス・ラッセルは、自身も「当初はヴァネッサと同じように大人の男性と少女の恋をロマンティックに捉えていたものの、博士課程中にさまざまな虐待被害やPTSDに関するリサーチを行い、性的虐待をテーマに据えて大幅に修正を加えた」という。被害者が加害者を擁護する心理や加害者の被害者意識など、権力関係のある間柄で陥りがちな心理描写が次々に語られる本作がフィクションであることにも驚かされる。
「愛の顔をした虐待という共通の経験」を持つロリータたちのために書かれた一冊。ストレインの立場にいながら、その権力を意識していない大人にも読んでほしい作品だ。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3558 ・ 2022年09月10日(土)に掲載。
http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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