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三角明子評 ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『過去を売る男』(木下眞穂 訳、白水社)

評者◆三角明子
記憶を消す、記憶を選びとる――本書は、戦闘が終わっても終わらない苦しみに仕掛けたひとつの戦いである
過去を売る男
ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ 著、木下眞穂 訳
白水社
No.3597 ・ 2023年07月01日

■「お子さんたちにより良い過去を保証しませんか」。
 フェリックス・ヴェントゥーラの名刺には、名前とともにそんな謳い文句が印刷されている。「ぴかぴかの新品の過去」を求める新興ブルジョワジーのために、家系図を作ったり高貴な家柄の先祖の写真を用意するのが彼の仕事だ。
 現代アフリカ文学を代表する書き手のひとりジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザによる『過去を売る男』(原著二〇〇四年刊)は、大きな話題を呼んだ『忘却についての一般論』(木下眞穂訳、白水社。原著二〇一二年刊)に次ぐ、二冊目の邦訳である。
 本書の主な舞台は、アフリカ大陸の南部大西洋岸に位置するアンゴラの首都ルアンダ。一九六一年から七四年までのポルトガルからの独立戦争に続き、一九七五年の独立とともに勃発した内戦は、二〇〇二年にようやく終わった。戦時中に埋設された地雷の除去に途方もない時間がかかることを示唆しながらも、作中の登場人物のことばを借りれば、国は一種の「陶酔状態」にある。一九六〇年に生まれ、「物心ついたときから、戦争はつねに身近にあった」(『忘却についての一般論』訳者あとがきより)アグアルーザの物語世界に共通する、過去、悪、裏切りなどと並ぶテーマとしての〈記憶〉と〈夢〉が、さまざまな形で展開する。
 本書でアグアルーザがおもな語り手に定めたのは、フェリックスの屋敷に十五年ほど前から棲みついたヤモリだ。屋敷内を自在に這いまわり、家主の仕事ぶりや屋敷での出来事を観察し、読者に伝えるだけではない。人語を解するこのヤモリはある作家の生まれ変わりで、前世の回想やヤモリとして見た夢のなかで、ときに痛ましい過去を明らかにする。なかでも、二度登場する「もっとも重い罪は愛さないことである」ということばに重く縛られている。ある午後、ヤモリが笑い声をあげるところに居合わせたフェリックスは、「乾いてかさかさした」おのれの皮膚の質感を手がかりに、「ぼくたち、きっと同じ家系だな」と声をかけ、このヤモリを話し相手とし、やがて「唯一の友」と呼ぶようになった。
 ある日、外国人とおぼしき中年の男が大金を差しだし、「新しい名前、この国の正真正銘の書類、その人物を証明するもの」の作成を依頼してくる。この客は、戦争や飢餓などの惨事を撮る報道写真家であること以外、頑として身元を明かそうとはしなかった。「夢は作っても、捏造はしない」と、一度はこの依頼を断ったフェリックスは、結局、注文を受けることになる。
 ジョゼ・ブッフマンという新たな名と、家族を含めた過去を手に入れた男は、その後もフェリックスのもとを訪れ、作られた過去の隙間を埋めようとする。さらに異様なことに、作りものの〈故郷〉を訪れ、行方知れずの〈母〉を探しだそうとする……。「過去と虚無があまりに過剰で、魂が痛むのだ」と語る男は、救いを求めるあまり、事実と虚構の区別もつかない迷宮に入っていったのか。
 だが、事実とはなにか。過去とは、記憶とはなにか。アグアルーザの答えはフェリックスが繰りかえし聴いた「川へのララバイ」という曲の一節にすでに表れている。「何も過ぎゆくことなく 尽きることもない/過去とは/眠る川/そして 嘘が無数に形を変えて/作る記憶」。
 よりよい未来をと考え、過去を美しく飾ろうとする者がいる。痛みと苦しみに満ちた過去からすこしでも逃れようと、すべてを作りかえようとする者がいる。そもそも、なんの作為もなく、思いかえそうとするだけでもわたしたちは自分自身の過去を〈作り上げて〉いるのだ。この物語の行く末の一部が、ヤモリである「わたし」が見た夢を通して語られるのも、記憶のふしぎを反映している。嘘かもしれない。虚実をないまぜにして織りあげたものかもしれない。願望が夢のかたちをとったに過ぎないのかもしれない。
 アグアルーザは本書を、「記憶の罠」についての物語だと語ったという(訳者あとがきより)。「記憶は当てにならないし、説明がつかない」と(同)。だが、戦時中に埋められた大量の地雷の除去が完了する日が来ても、傷はどこかに必ず残る。まったく違う記憶に取ってかわられたとしてもそうだ。本書は、戦闘が終わっても終わらない苦しみに仕掛けたひとつの戦いである。
(大学教員・翻訳者)

「図書新聞」No.3597・ 2023年07月01日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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