ルールが増える人生

人が『○○の場合、こうすべき』とルールを追加してくる。もちろん今後意識する所存ではあるが、単純に数が膨大すぎて現実的でない気がする。

私も当然、『それだけの事を逐一意識しながら日常を送り続けるのは不可能では』と意見する。

加えて、相手側にも問う。
そのルール、自身も破っていないだろうかと。べつに水掛け論や不問化を狙っての事ではない。どれだけ意識した上でこちらに指摘してるのか確認したいのだ。

更に加えて、私は問いつつ『誰もルールなんて厳密に守っていない』という事実を知っている。この辺の態度が鬱陶しいのかもしれない。

だが、強い言葉は必ず自分に返ってくる。

だから私は、人が攻撃してこない限り攻撃的な自分を形成しない。指摘もしないので、自由に振る舞えばいい。

人は、自分で間違いに気が付かなきゃいけないんだ。



私はかつて『もう感情を殺さなくていい』と言われた。他人の言葉に支配され、柔軟性や飛躍の可能性を失っていたようだ。

じゃあ生き返そうと決意した。
それは表現活動を通じて自覚が深まったりした。生き返りつつある私は、随分と口が悪いようだ。

本で読んだ様々を応用する事にもした。
しかし人間関係の改善に本の知識が役立っただろうか。

私が奔放になるほど、人は気に食わないらしい。奔放とは身勝手なイメージを与えるようだ。
しかし本能が奔放を望んでいる。しかし人の提示するルールを遂行するには、感情を再び殺す必要がある。

豊かな感情を保ったまま、数々のルールを守る。そんなことって。



不思議な事に、私に楽しい出来事が待ってる時、あるいは珍しく意欲が湧いた時。
そういう時に限って台無しになるんだ。当然だが、自然現象ではなく人為的なソレについて話している。



家の中が静かだ。

本来はこうだったんだ。

人が物事の解決を先送りにするから私たちに皺寄せがくるんだ。その過程で、更にルールが増える。たくさんの問題も起きる。

疲れたな。



節約の為、お湯で溶かすタイプのコーヒーに変えた。紙コップ自販機みたいで楽しい味だ。おうちでオフィスごっこも悪くない。

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