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スナフキンのサンダルを捧げる(全8話 8,325文字)


ⅰ.プロローグ


「明日から廃部になります」

と突然上司に告げられた。川崎市の某社会人陸上部に所属していた僕は唖然となった。

しかし、会社は早期退職制度なるものを用意し、まだ3年目の僕に、退職金200万円を提示してきた。

さらに辞めてから1年間は、会社の寮に残ってもいいという。

まだ20歳だった僕は、迷わずその条件に飛びついた。世間知らずの田舎者で、当時は、あまりお金を使うことがなく、

「200万円もあれば、一生暮らせるんちゃうかな」

と、勘違いしているアホであった。1999年人類が滅亡するという、ノストラダムスの大予言を信じていた僕は、何も起きなかった事に安堵しながら、2001年を迎えようとしていた。

退職して2、3日後、先輩がいる鶴見寮へ遊びに行った。一緒に辞めた先輩の佐藤さんを訪ねて行ったのだが、同じ職場で働いていた同期の西畑君と出くわした。

彼は夜勤明けでたった今、寮に帰ってきたところだという。先輩の佐藤さんを誘い、

「ビール片手に風呂でも入ろう」

と朝から自動販売機で缶ビールを買った。この鶴見寮には温泉旅館のような大浴場があり、けっこう広い。

そこで湯船につかりながら、ビールを飲んでいると先輩が、

「海外に興味あんねんな〜、俺と一緒に行かへん?」

と僕に話しかけてきた。すると会社を辞めていない西畑君が興味をしめして

「僕も一緒に行きたいです」

と言い出した。先輩は少し困惑ぎみに

「1ヶ月ぐらい行くねんで」

と彼を牽制する。しかし西畑君は余程行きたいのか、

「ん〜、有休を全部使ってなんとかします」

と真剣に考えていた。その彼の横顔を見ていたら、海外旅行に少しだけ興味がわいてきて、

「とりあえず2週間ぐらいなら、行ってもいいっす」

と3人で行けば、絶対楽しい旅行になると、その場はおおいに盛り上がった。


ⅱ.微笑みの国タイ


時を同じくして、会社を辞めた2人は、しばしパスポートを取りに出かけた。先輩に、

「西畑君どうしてます?」

と聞けば、あの日以来、彼との連絡が取れないらしい。しかも会社を無断で休んでおり、会社の人間が西畑君を探し回っているという。

もしかして事件に巻き込まれたのでは、と心配になり、僕もすぐに電話をしたが、

「電源が入っていないか、故障しているためつながりません」

とアナウンスが流れるだけであった。ほんの数日前、

「一緒に海外へ行こう」

と目を輝かせていた彼はどこに行ってしまったのか。

それから先輩と向かった先は川崎駅前にある「HIS」の格安航空券を売っているお店で、僕らは、

「来週から10日間、どこでもいいからお得なチケットを下さい」

と東南アジアのタイ往復チケットを3万円で手に入れた。して、2001年冬、ついに日本から飛びたつ日がやってきた。

先輩の佐藤さんはスナフキンという、ムーミンのキャラクターが大好きらしい。

そのスナフキンになりたい願望が強すぎて、ドンゴロスの形をした大きな袋を肩に担いで現れた。

その袋にはポケットがなく、パスポートや財布が着替えや洗面道具と一緒に入っている。買い物の時など、袋の中身を何度も探しまわる、不便極まりないものであった。

僕は、初めての海外旅行で、何を準備していいのか分からず、川崎市の図書館で「地球の歩き方」という黄色い本を借りた。また、先輩からの助言で

「とにかく新しい服やカバンは、貧しい国では狙われるから、やめた方がいい」

と言われたが、この黄色の本にはそんなことは書いていなかった。しかし、僕もボロボロのリュックに、古いジャケットを着て旅に出ることにした。


ⅲ.カオサンロード


灼熱の太陽と蒸れるような湿気が、僕らを包み込んだ。2人は日本から飛び出し、東南アジアのタイ王国に降りたった。

日本から出るのが初めての2人は、旅行の知識どころか英語も全く喋れなかった。

ドムアン空港の売店でリンゴを買おうとしたが、どう言えばいいのかさえ分からない。そんな中、先輩は大きな声で、

「マイネーム イズ アップル」

キョトンとする店員に真顔でリンゴを指差し、お釣りを受け取る。ちゃんと買物を済ましてきた姿を見て人間力の凄さを学んだ。

ムッと込み上げてくる熱気に、僕らはジャケットを脱ぎ捨て、空港の外に出る。するとバイクタクシーやトゥクトゥクのドライバーらしき男たちに囲まれ、

「どこに行くんだ、俺の車に乗れ!」

と執拗に付きまとってきた。しかし、なんとかバンコク行きのバスを見つけて、恐る恐るだが乗ることが出来た。

当時は2001年冬である。その頃のタイはアジア通貨危機の影響でバーツが暴落しており、何を買っても安いイメージがあった。

僕らはバンコクのカオサン通りにある安宿に泊まった。そこはバックパッカーズと呼ばれる宿で、部屋に2段ベッドが4つ並んでいる。

この部屋には最大8人が寝ることになる。

到着した日、その部屋は佐藤さんと2人だけであったが1泊150円という衝撃的な値段に驚いた。

そして晩飯を食べようと外に出ると、色とりどりの屋台が通りいっぱいに並んでおり、僕らは

「焼きソバとビール2本」

とジェスチャーのみで注文した。その合計は、たったの100円。

しかし焼きソバの味は、めっちゃクソまずく、一気にビールで流しこんだ。まぁ、この値段で文句を言えるわけがない。


2人は初めての海外旅行でバンコクまでやってきて2日目の朝、先輩の佐藤さんが、

「マレー鉄道に乗って、行けるとこまで南へ、1人で行く」

と言いだした。僕はいきなり1人になることに戸惑っていたが、先輩は、

「9日後にドムアン空港で会おう!」

とドンゴロスを肩に担いで歩き去った。まるで、スナフキンが冬になると南へ旅立つように、風に吹かれていなくなった。


ⅳ.バンコクの洗礼


初めての海外旅行で2日目にして、僕は1人ぼっちになってしまう。

途方にくれながら、カオサン通りのカフェで「地球の歩き方」を読んでいた。すると突然、

「おまえー、日本人やんなー」

と謎の男に喋りかけられた。インドネシアのバリ島出身というその男は、怪しい日本語で、

「おまえ、どこ行こうとしとるんや?」

と問いかけてくる。僕はただ、悩んでいた。
先輩が南へ行ったのなら、北へ向かうか、、、はたまた東へ行くか、、、、

「行けるところまで東へ、カンボジアを目指そうと思う」

と咄嗟に出た言葉が、意外にいい考えに思えてきた。そしてバリの怪しい男は、

「おまえ、カンボジアはビザがい〜るぞ〜」

と変な日本語で教えてくれた。このカオサン通りには、旅行代理店がたくさん並んでおり、そこで申請すれば、3日後にビザが取れるそうだ。

まだまだ怪しい感覚は拭えないが、このバリの男を信用して、カフェの隣にある旅行代理店でカンボジアのビザを取ることにした。

初めての海外でバンコク2日目の朝である。旅行代理店がビザの申請手続きをしてくれるので、僕はパスポートを預けた。

しかし、タイの国では外国人旅行者がホテルやゲストハウスに泊まる際は、パスポートを提示しなければならない。

僕はその日の宿をまだ決めていないのに、ビザ申請で、パスポートが手元にないことに気付いた。

そしてその事をバリ人の男に伝えると

「おまえ、俺の部屋を使ったらえ〜よ」

と男は上を指した。このカフェの2階部分はゲストハウスになっていて、彼はそこに泊まっているという。

バリ人の部屋を見せてもらった。大きなベットが1つにトイレがあるだけのシンプルな部屋だが、充分な広さがあった。

とりあえずそこに荷物を置いて、2人で飲みに行くことにする。怪しいバリの男に連れられ、屋台が立ち並ぶ市場までやってきた。

「ここは海鮮が美味いんじゃ」

しかし、日本人には馴染まない味に、僕はかなり戸惑ったが、無理やりビールで流し込んでは、

「うまいねー」

とお世辞を言うと、バリの男は調子に乗って、どんどん皿を持ってきやがった。

その中にコイのような大きな魚を丸々1匹、塩焼きにした皿があった。見た目は旨そうだが、一口食べると

「な、なんじゃこりゃ〜」

と思わず、箸が止まる。塩焼きにされていたのは表面だけで、中まで火が通っておらず、半分ナマの状態であった。

しばし、やめようと思ったが、その食べかけの生臭い身を、目をつむってビールと一緒に飲みこんだ。

ひとしきり食べて飲んで、落ちついた頃、凄まじい吐き気が僕を襲ってきた。僕は屋台の裏に走り、込み上げてきた物を勢いよく、吐き出した。

さっきまで食べたすべての物を吐いてしまった気がする。その後も体の調子が悪く、部屋に戻って寝ることにした。


ⅴ.アユタヤエスケープ


初めての海外の地で、パスポートを旅行代理店に預け、手元に無い状況で、酒を飲み、体調は絶不調どころか意識が朦朧としていた。

どのくらい寝ていたであろうか、ズボンの上から誰かに触られている感覚で目が覚めた。横にあのバリ人が背を向けて寝ていた。

「何だ?気のせいか?」

僕はまだ頭がボーッとしていて、直ぐにまた眠りについた。

今度はジーパンのチャックを開けられ、明らかに俺の息子を触られている感覚で目が覚める。

僕は恐る恐るゆっくりと目を開いた。なんとあのバリの男が俺の息子を触っており、狙われていたのだ。

僕は飛び起きてトイレに駆け込んだ。

「やばい、犯される!!」

さっきまで二日酔いのボーッとした頭は、いっきに酔いが覚めた。僕は急いでトイレの鍵を閉めた。

そして篭ること1時間。夜が明けるのを待てずに部屋を飛び出した。

人生初の海外2日目の夜はバンコクの街を彷徨っていた。

タクシーやトゥクトゥクなど乗る気になれなかった。人が信用出来ず、とにかく歩いて、迷いながら、バンコク中央駅までたどり着いた。

人がまばらな駅のベンチに座り「地球の歩き方」を開く。アユタヤという町が、ここから2時間くらいで行けることが分かった。

その本には列車の値段が200円と書いてあったが、実際は80円程でキップを買えた。そうして列車に揺られタイの古都アユタヤに着いた。

しかし、ここで心配だったのが、ビザの申請の為に僕はパスポートを持っていないことであった。

駅前のホテルやゲストハウスを尋ねて、

「ノー パスポート、ステイOK?」

と小学生以下の英語で話しかける。

相手に伝わっているのか、すごく怪しかったが、何軒か尋ねていくと運良く泊めてくれるホテルが見つかった。

アユタヤの町は、とかく田舎でゆったりとした雰囲気が、僕の心を落ちつかせてくれた。

また、自転車を借りて名所を見て回ったりした。

このアユタヤには寺院や仏像など遺跡が沢山あるらしいが、当時の僕は残念ながら、それらに興味がなかった。
しかし、水上マーケットや、リヤカーで物を売っている光景を観ているのが楽しかった。

アユタヤのホテルで2泊して3日目の朝、僕は意を決してバンコクに戻ることにした。


ⅵ.カンボジア難民


初めての海外の地で、急遽ひとり旅になり、ハプニングの連続だが、まずはパスポートを取り戻さなければならない。

アユタヤからあの男がいるバンコクに戻って来た。バンコク中央駅からカオサン通りまではタクシーに乗る。

僕は例のカフェ少し手前でタクシーを降り、心臓の波打つ鼓動を抑えて、こっそり中を覗いた。

なんとヤツが、こっちを向いて座っているではないか。しかも、コーヒー片手に本を読んでおり、それを目にした時は、生きた心地がしなかった。

一旦離れて深呼吸し、今度はカフェ正面を迂回し、こっそりと隣の旅行代理店に入った。

「パ、パス、パスポート返して!」

バリの男に気付かれずに、何とかパスポートを手にした僕は、逃げるようにバンコク中央駅まで引き返した。

カンボジアには、この駅から国境の町まで行けるみたいだ。一刻も早くバンコクから離れたい気持ちで、列車に飛び乗った。

車窓が都会から、田園風景に変わっていくにつれ、心がようやく落ちついてきた。列車に揺られて約8時間、日が暮れて、アランヤプラテートという国境の町にたどり着いた。

事前に調べていたホテルに泊まり、翌朝カンボジアへの国境を陸路で越えることになる。カンボジアといえば、アンコールワットが有名で、その名前は知っていた。

川崎の図書館から持ってきた「地球の歩き方」はタイの特集なので、カンボジアの情報は、あまり書かれていない。明日から何の情報も無しに旅を続けることの不安と楽しさを感じながら、眠りについた。

翌朝、ホテルを出て国境のゲートまで5キロを歩いて行くことにした。しかし国境までの大通りに出た所で、信じられない光景が飛び込んできた。

「永遠と続く人々の列が国境に向けて延びている」

それらの人々は大きな荷物を抱え、ただ前を向いて行列を作っていた。

その長蛇の列の横をタクシーやトゥクトゥクが行き交っていた。僕は歩くのを諦め、トゥクトゥクを拾い、国境ゲートまで行くことにした。

この間、人間が成せる行列に度肝を抜かれ、恐怖を覚えた。更にこの行列は、ほとんど進んでおらず、永遠と思われる時間を並んでいるのだ。

後から聞いた話なのだが、あの行列はポルポト政権で迫害を受けたカンボジア難民が、帰国するために数日かけて待っているらしい。

Foreigner(外国人)と書かれたゲートには、1人も並んでおらず、軍服を着たおっさんが、暇そうに座っていた。

そして出国カードを書くように渡されたが、タイ語と英語のみで、名前と生年月日以外どう記入すればいいのか分からなかった。

「ジャパニーズ?」

と出国管理官の男が聞いてきた。

「イエス」

と答え、僕は次の質問を待っていた。しかし軍服のおっさんは、その名前と生年月日だけが書かれた出国カードとパスポートを見くらべて、

「オッケー」

とパスポートにスタンプを押した。カンボジア側の入国ゲートも同じような感じで通過でき、日本のパスポートが如何に信用のある物かを見せつけられた。因みにこれは2001年冬の話である。


ⅶ.ダンシングロード


会社を辞め、初めてのひとり旅で、ついにポイペトというカンボジア側の国境の町にやってきた。ここからシェムリアップまでは、ピックアップトラックに乗ることになる。

それはトラックの荷台に15人程の乗客が、すし詰めの状態で出発した。カンボジアの道はアスファルト舗装されておらず、至るところにクレーターという大きな穴があり、そこを通るたびに人もトラックも跳ねた。

乗客の半分は欧米人のバックパッカー。残りは現地の人達で、中にはニワトリの入った竹かごを抱えるお婆さんもいた。運転手は、

「女こどもは荷台の中に、男はトラックのあおりに座れ」

と舗装されていない悪路で、あおりに座っているのは、危ない気がしたが、意外と大丈夫であった。

途中で何度も現地の人を拾ったり、降ろしたり、時として荷台の中は混雑する。

あおりに座っている自分は体の半分を外に出しながら、落ちないことだけを考えていた。

吹き抜ける風がとても心地よかった。このピックアップトラックの運転手は荷台に人を乗せていることなど気にも掛けず、猛スピードで悪路をぶっ飛ばした。

踊るように飛び跳ねるこの道は

「ダンシングロード」

と呼ばれている。総距離160キロ、大阪〜名古屋くらいの距離であった。

信号機などある訳がなく、運転手の男はクラクションを鳴らしまくって、道を横切ろうとする人や牛を怯えさせた。

のどかな田園風景が永遠と続いていた。痩せ細った水牛が、同じく痩せ細った男に引かれて田を耕している。

たまに白いアヒルの親子が水田に浮かんでいるのを見つけて心がなごんだ。

ピックアップトラックの乱暴な運転にいくらか慣れてきた頃、突然その事故は起こった。

「ガッシャーン」

何かにぶつかった衝撃で車が止まった。自転車に乗った男が道端に倒れている。トラックの男はその倒れた男に向かって、

「馬鹿やろー、気をつけろ!」

と現地の言葉を浴びせ、何もなかったかのように車を動かし出した。すると僕の横に座っていたカナダ人の青年が、立ち上がり運転席の屋根を叩いて

「ストップ!ストッープ!!」

と車を止めさせた。さらに欧米人のバックパッカーが2、3人詰めより、運転手の男に謝ってくるように英語で諭した。

そのトラック野郎は苦々しい顔をし、倒れている自転車の男の所まで渋々歩いていった。そして、謝ると思ったが、なんと足で自転車を蹴飛ばし、何か罵声を浴びせ、最後にお金を倒れている男に投げつけて帰ってきた。

この衝撃の一部始終をトラックの荷台から見ていた僕は、平和な日本に生まれて良かったと心から思った。

シェムリアップの町に着いたのは夜だった。何とか宿を見つけて、その日はぐっすり眠ることができた。




ⅷ.残念なスナフキン(エピローグ)


初めての海外で先輩と分かれ、ひとり旅になり、タイとカンボジアを巡った。最後の夜は、バンコク中央駅近くのホテルに泊まった。明日は早く起きてドムアン空港へ行く。

果たして先輩はどんな旅をしてきたのか、会うのが楽しみになってきた。

「1人で南を目指す」

と僕を置いていったのが、まだ1週間前とは思えない程、いろんなことが起きた。佐藤さんならマレー鉄道に乗り、シンガポールまで行ったのでは、などと想いを巡らせながら眠りについた。

ドムアン空港で搭乗手続きを済ませ、ゲート前の待合場所で先輩を待っていた。そこへ明らかにズタボロの、誰も近づかない風貌で、先輩は現れた。

死にかけのスナフキン。

カンボジア難民でも、これ程ボロボロの男はいなかった。

「お、おつ、お疲れ様でーす」

と僕から声をかけた。

「ああぁ、タクか」

と先輩は僕に気付いて、にっこり笑った。僕はその笑顔に、少し違和感を感じたので、よく見ると前歯が2本抜けていた。

「どうしたんすか、その前歯は?」

スナフキン先輩は、またにっこり笑って

「これねー、海岸を歩いてたらコケちゃって、、、」

と照れるように笑って、前歯のない歯茎を見せた。

「それはそうと、搭乗手続きを急ぎましょう」

と僕は出発時間が迫っている事に、気を取り戻し、出国ゲートを抜けて帰国の飛行機にギリギリ間に合った。

機内の隣席に、ボロボロの破れたTシャツを羽織ったスナフキンがいる。足元は便所スリッパを履いていた。

「そのスリッパはタイで買ったんですか?」

と僕は何から喋っていいのか、分からない状況で、とりあえず聞いてみた。

「あ、ああぁ、これねー。最初はビーサンやったんだけど、かぶれちゃってね、、」

と先輩は目を落とした。足元をよく見ると親指と人差し指の間が赤くかぶれており、痛々しい傷の痕が見えた。

聞くところによると、スナフキン先輩はマレー鉄道に乗り、タイ南部にあるプーケットの近くまで行った。そこで、

「まだ開発されていない島がある」

と聞いて、そこから船でその島へ行ったらしい。

そうして彼は海岸線をひたすら歩いて、足がズルムケになってしまった。またスナフキン先輩は、靴擦れの痛さに耐えかね、その便所スリッパを購入したという。しかも、

「まだ開発されていない」

と言われたこの島は、工事現場がたくさんあって、今まさに開発中であったらしい。

残念なスナフキンを横に、今度は僕の話をした。本物のゲイに襲われそうになったこと。

アユタヤ、アランヤプラテート、シェムリアップ。先輩がいなくなってからのタイとカンボジアの旅を語った。

僕らは旅を終え、バンコクから成田空港に戻ってきた。入国審査官がズタボロのTシャツ姿の先輩を不審者と決めつけ、別室に連れて行こうとしたが、無事に川崎まで帰ってきた。

凍てつく寒さの中、真夏の格好をした2人は街で浮いた存在だったかもしれない。

この当時、ワイドショーでは、アメリカ軍の原子力潜水艦が愛媛県水産高校の練習船、えひめ丸に衝突し、沈没したニュースが頻繁に流れていた。

まだ、夜には少し早かったが、いつも行くバーのマスターを見つけ、店を開けてもらった。

旅のネタから、話の流れが西畑君にいった時、ふとマスターが、

「昨日、西畑君のお母さんから電話があって、実は彼、長崎の実家に帰ってたんだって。

でも、会社の人とは話したくないというから、会社から連絡があっても、ずっと隠してたって、、、

それでもう1か月も経ってしまって、どうしたらいい?」

と相談があったらしい。あのマジメで不器用な西畑君が失踪したと聞いたときは、ビックリした。

でも、実家にいると聞いて、なんだか安心した。

スナフキン先輩が持っていた、ビーチサンダルに

「マイペンライ」

とマジックで書いた。タイ語で大丈夫とか、何とかなるよという意味である。

そして当時、流行っていたチェキを使い、バーのマスターが僕ら2人の写真を撮った。

このスナフキンのサンダルと一緒に送るという。本当は西畑君と佐藤さんと3人で行くはずの旅はこんな形で終結した。






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