癇癪物語 〜家族のかたち〜
秋の夜長を楽しんでもらおうと、家族をテーマにゆる〜いエッセイ書いてみた。鈴虫の声を聞きながら、たまに中秋の名月でも見上げて読んで頂ければありがたい。
1.ユニオンジャックの窓
夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、親父が癇癪を起こし、一方的に怒りつけ、それをオカンは
「ハイ、ハイ」
と聞き流す。そんな喧嘩というか、かなり激しめの癇癪は、日課のように起こっていた。
瞬間湯沸かし器のごとく、癇癪を繰り返す親父は、ご近所の名物でもあった。
子供の教育はビンタが基本。悪い事をしたら怒るよりも先に平手が顔や頭に飛んできた。しかし小学生の頃の僕は、
「それが当たり前だと思っていたので、つらいとか、しんどい」
と思う気持ちはなかった。
今から思えば、親が子供に体罰をしているのに、その子供が自分の弟に暴力をもって、教育するというのは、ごく自然であったと思う。
ある日、僕は何かをやらかした弟に鉄拳を用いて泣かしたのだろう。
親父の強烈なビンタが有無を言わせず飛んできて、僕は宙を舞い、頭で居間の窓ガラスが割れた。
ベランダに面したその窓は、次の日、ガムテープでイギリスの国旗みたいになっていた。
2.姉貴のファーストアルバム
二つ上に姉貴がいる。彼女が5年生の頃、家で算数の問題を教えてもらっていた。
姉貴は算数が苦手でテストの成績も悪かった。
そこに大工だから算数は得意という、訳の分からない解釈で、あの癇癪親父がやってきた。そして長らく姉貴を教えていた。
恐らく親父はその問題を分かっているが、教えることに関して素人なので
「なんでこんな問題も分からんのや」
と平手で頭を一発叩く。
泣きながら問題を解く姉貴を見て、
「絶対に自分は親父に教えてもらわない」
と心に誓った。
第一子の娘として生まれた姉貴は、それでも優しく育てられたと思う。
彼女が中学生になった頃、親父はCDラジカセのデッキを買ってきた。
そしてCDは前川清のアルバム1枚。「長崎は今日も雨だった」などの名曲が入っていた。
何故それを中学生の娘に聴かせたかったのか、はたまた自分が聴きたかっただけなのか。
二人でレコード屋に行き、一緒に選んできた物らしい。
ともかく、姉貴の1番最初に買ったアルバムは、前川清という事になる。
弱小剣道部の主将。姉貴は小学生で始めた剣道を高校3年で引退するまで続けた。
剣の道での成績は、いまいち残せなかったがチームの結束は強く、中学の部活仲間が大人になってからも、よく遊びに来ていたのを覚えている。
友情というか大切な仲間を残す事は出来たようだ。
3.穴があったら入りたい
清重そろばん塾という、姉貴をはじめ兄弟3人が通った塾があった。
確か週4回、月火木金曜の放課後に立ち寄って、そろばんを習っていた。
ここは主に女の先生が数多くの子供たちを1人で見ている。この塾では各自で問題集を解き、終わった者同士が、
「答え合わせしまーす」
と、互いに○×をつけて答え合わせをしていた。
先生は解らない問題や悩んでいる子には優しく教えてくれたが、ズルをする子供には厳しかった。
井本という、やんちゃな同級生がいる。
当時僕は小学5年くらいで周りの友達はドラゴンクエストのゲームに夢中で、
「誰が1番にクリアするか」
と競いあっていた。家にファミコンのない僕は、学校が終わるとソロバンではなく、井本の家に直行した。
そして2人でせっせとドラクエのレベル上げに没頭していた。しかしソロバンを休む訳にはいかず、突発的に編み出した技がある。
そもそも、清重ソロバン塾は性善説で、互いの答え合わせを信用していた。僕と井本は、答えの桁数だけ合わせて、適当な数字をサッと書き
「終わったので答え合わせしまーす」
と、しれっとした顔で、お互いの解答用紙に○をつけた。
「正解したので帰りまーす」
と通常は、1時間ほどかかる所をたったの5分で終わらせていた。
そしてダッシュでまた井本の家に戻り、ドラクエのゲームをする。これを繰り返した。
二週間くらいこの方法を続けていた。ある日、
「正解したので帰りまーす」
と2人が言うと、先生が
「ちょっと、拓ちゃんとのぶ君(井本)の解答を持って来なさい」
穴があったら入りたい。この時ほど、そう思ったことはない。みんなの前でめちゃくちゃ怒られた。
「何これ!!全然違うじゃない」
と、当然だが、僕らの解答は一問も正解では無かった。
そして怒るとヒステリックな先生は、白目をむいて甲高い声で僕らを叱ってくれた。
4.血だらけの少年
正月早々、左眼の上を6針縫った話を書こうと思う。
元旦は親父の実家近くに参拝してお墓参りするのが家族の恒例行事であった。
この神社は、境内に滑り台とシーソーが2台あり、その日はお参りの後に姉貴と僕、6歳になる弟と遊んでいた。
「シーソーであーそーぼ」
と姉貴と僕が遊んでいると、弟は隣のシーソー脇になんと立ち小便をやりだした。僕は
「こんな所で小便などするな」
と怒ってシーソーから飛び降りた。
して小便の痕を消す為、周りの土をかき集め掛けようと屈んだ瞬間、目から星が飛び散り、もの凄い衝撃を受けた。
「ドッカーン!」
よりによって僕が土を掛けていた、隣のシーソーに姉貴と弟が乗って遊ぶという惨事になる。
姉貴が勢いよく乗ったシーソーの反対側の角が僕の顔面に激突し、目の上を陥没させた。
「キャーーー」
と姉貴は僕の顔を見て絶叫する。
しかし、息子が眼の上を陥没させ顔面血だらけの状態でも、親父は全員を連れてまずはお墓参り。ここで彼は珍しく癇癪を起こさなかった。
さらに母方のお墓まで車で行き、お墓掃除と線香をあげて、ようやく僕の治療へと病院に連れて行った。お医者さんに
「だいぶ傷口が、乾いてきてますな」
と言われながら、左眼の上を6針縫って、血は治まった。
さぞご先祖様は正月にやってきた、血だらけで、お化けみたいな顔をした少年を憐れんでくれたことであろう。
5.オカンの手紙
少しでも歯の丈夫な子供に育てたい。オカンはこの願いが人一倍、強かったのであろう。
姉貴、僕、弟の3人が小学生の頃、国立大学歯学部の小児歯科で定期検診を受けて育った。
「拓ちゃーん、お母さんが来てるよー」
と数ヶ月に一度、オカンが自転車で学校まで迎えに来る。授業を途中で抜け出して、彼女のこぐ自転車にまたがり、10キロ先の大学病院まで通った。
雨の日や風の強い日でも、オカンは自転車で子供を荷台に乗せて走り続けた。
「お母さんは生まれつき歯が弱かったんよー」
という。僕の一番古い記憶でも彼女は既に入れ歯をしていた。
もしかすると、自分の歯の弱さが子供たちに遺伝しないかと心配して、大学病院の定期検診を受けさせていたのかもしれない。
これは祖母から聞いた話だが、オカンがまだお腹の中にいる頃、食べ物がなくて、ほんとうに困窮していた。身籠った当時の祖母は、
「おなかすいたなぁ、、、」
と家の白壁を崩し、それにかぶりついてカルシウムをとっていたのだと。
昭和25年徳島の田舎では、女手ひとつで子供3人を育てるのは、かなり厳しい環境であったと想像する。
それがオカンの歯の弱さに起因したのか、今となっては分からない。
施設に入所しているオカンの歯は無論1本もなく、流動食の様な柔らかい物しか食べていなかった。(コロナ禍で入れ歯は使わないルールの施設にいる)
電話の会話も数年前から声が聞き取れなくなった。面会はコロナ禍の頃よりはマシだが、明らかに顎の筋肉が退化している。そんなオカンが、
「新聞をな、ゆっくり読むんよー」
と唯一の楽しみがベットの上で新聞を読むことであった。2年程前から僕がこのnoteを書き、弟が印刷して手紙で送るという、兄弟の連携プレイが始まる。
たまにだが、弟宛にオカンから手紙が届くようになった。ミミズがはった様な字で解読困難であるが、それは何より嬉しい頼りである。
6.ホンダのトゥデイ
オカンが車の免許を取りに行く話をしたい。
僕が中学生の頃だったと思う。チェッカーズの解散で落ち込んでいた僕にオカンが、
「初ドライブに行くけん、付いてきて」
と死ぬほど恐ろしい目にあわされた記憶がある。おかげでくよくよしてる自分がバカらしく思えた。
話を戻そう。オカンは姉貴と新聞配達をして貯めたお金で、共に自動車教習所に通うことにした。
高校まで剣道で鍛え、18歳になったばかりの姉貴と、当時40代のオカンでは比べるまでもない。
反射神経というか運動能力がものをいう運転教習で、オカンはかなり苦戦した。
そして実地の教習を落とす度に、
「ほなけん、アンタはとろいんや」
と親父の激怒は止まらなかった。
家で嵐のように怒り狂う癇癪を見ながら、
「オカン頑張れ!」
と子供心に応援した。
そうして念願の運転免許を40代半ばにしてオカンは取得する。しかし、免許を取って数年はペーパードライバーの状態が続いた。
僕が高校を卒業し、更に4年後、弟も神戸の大学に進学する辺りから、オカンは中古の軽四を与えられた。祖父母の病院への送り迎えと親父の飲みに行く時の送迎が主だったようだ。
今思い出したのだが、姉貴がアメリカに行くので、要らなくなった軽四を20年近く使っていた気がする。
姉貴も高校を卒業して6年間乗っていたとしたら、それは四半世紀に渡り家族と共に過ごしたことになる。
7.加齢と共に丸くなる
小学生にとって4年の歳が違えば体力の差は歴然とある。それでも弟は僕の遊びについてきて、よく泣かされたといわれている。
ある日、そろばん塾からの帰り道に弟が友達と畑で遊んでいた。そこは数日前に僕らが遊んで、
「畑を子供らに荒らされた」
と学校にクレームが入り、先生から注意を受けていた場所であった。
僕はそろばんのカバンを振りかぶり、迷うことなく弟の頭をバシンと叩いた。
「ここで遊ぶな」
とそれだけを言って、友達の家に走って去った。
しばらくして、家に帰ると弟の頭が、なんと包帯でぐるぐる巻になっており、さらに親父の機嫌が悪かった。僕が、
「な、なんかあったん?」
とこっそりオカンに聞く。すると僕がカバンで叩いた後、弟は頭から血を流し、救急車で病院に運ばれたらしい。
僕は慌ててカバンの中を見ると、ソロバンと教科書の他に、細長い文鎮が入っていた。恐らくその文鎮の角が彼の頭に当たったのであろう。
そして弟はケガした部分をバリカンで刈られ、何針か縫ったという。
僕は親父からゲンコツをくらい
「人を叩くな、言って聞かせろ」
と怒られた。
今思えば、親が子供に体罰でしつけをしており、その子供が弟に暴力をもって教育するというのは、ごく自然な形だと思う。
膨大なエネルギーと時間を持て余し、常に一緒に居れば、喧嘩は絶えないだろう。
しかし僕が中学生になると兄弟喧嘩はぴたりと無くなった。
陸上競技と駅伝を本格的にはじめて、自分の持つエネルギーがそれらに注がれ、喧嘩などする暇がなくなったのだ。
またその頃になると、幾分か親父の癇癪の頻度も少なくなった。それは年齢のせいであろうが
「加齢と共に性格は丸くなる」
と世間で言われるように、親父は、オカンや子供たちへの態度も少しずつだが、穏やかになっていった様に思う。
8.ファミコンに夢中
弟は高校に入ってから、何故かファミコンを買って貰えた。
正確に言うなら、弟の貯めたお金で買ったので、ファミコンを買っても良いという許可を得た。
僕が小学生の頃、誕生日やクリスマス、正月やお盆など何度も親父に
「ファミコンを買っていい?」
と頼んだが
「そんな物は絶対に駄目だ」
と言われ続けた。姉貴もファミコンが欲しいと何度も頼んだが親父に断られた。
「我が家にファミコンは必要ない」
と親父は断固として許さなかった。
そんな子供たちがお小遣いを必死に貯めて、買いたいとお願いしても、頑固な親父はそれを受けつけなかった。
僕が高校を卒業し、川崎市で働き始めて、久々に帰省すると、弟がテレビに向かってファミコンをしていた。
「ファミコン、買ったんや」
と弟の背中に向かって声をかけると、後ろを振り返る事なく
「親父と一緒に買ってきた」
と彼はテレビの画面から目を逸らすことなく答えた。
僕は心の中で、
「もう高校生なんやから必要ないやろ」
と思ったが、長年の蓄積されたファミコン熱に無我夢中の姿態を見ると掛ける言葉はなかった。
9.アメリカへの旅立ち
姉貴は徳島県の鳴門市にあるリゾートホテルに就職してその社員寮に住んでいた。
もともと教員住宅に5人で暮らしていたのだが、新しい家に引っ越してすぐ、彼女は高校を卒業することになる。
「早く一人暮らしがしたい」
と、卒業と同時に就職してホテルの独身寮に入った。
僕の記憶が定かではないが、弟が高校に通っている頃に彼女は1年間、沖縄の系列ホテルで働いていたようだ。
それからまた、鳴門に戻ってからの姉貴の行動力は、なかなか凄いものがあり身近にいたオカンが一番よく知っているのではと思う。
「外国に住みたい」
とアメリカのユタ州にある、英語学校に留学する段取りを1人で考え、それに向けて行動に移していく。
今でこそスマホがあれば、何でも調べる事は簡単だが、彼女のバイタリティを想像だけだが、敬意を込めて書こうと思う。
まず、働いているホテルを親父の承諾を得て辞めなければならない。
そこに登場するのが沖縄で知り合ったハーフの同僚である。
わざわざ沖縄からその同僚を実家に連れてきて、親父に
「ホテルでは馬車馬のように使われてる」
と勤務状況がどれだけブラックであるかを酒を交えて説いた。
そして彼女がホテルを辞めるのに、引き留めにくるマネージャーに対して、親父を味方につけて、強引に退職届を出すという荒技をやってのけた。
安かったであろうホテルの給料を、少しずつでも貯蓄して、留学の費用に当てた。
姉貴の周りにアメリカへ移住した人間などいたのか分からないが、とにかく一人でビザを取り、入学と住む場所を決めて旅立った。
10.反面教師
偶然にも姉貴がアメリカに旅立つ頃、僕の働いていた会社の陸上部が無くなるという、降ってわいたようなチャンスが巡ってきた。
会社は早期退職制度を用意して、まだ3年目の僕に200万円の退職金を提示する。
しかも辞めてから1年間は、会社の寮に残ってもいいという。まだ20歳だった僕は、その条件に迷わず飛びついた。
そして一緒に辞めた先輩と向かった先は、川崎駅前の「HIS」という格安航空券の店で、
「来週から10日間、どこでもいいからお得なチケットを下さい」
と東南アジアのタイ往復チケットを3万円で手に入れた。そうして何の準備もなしに2人は旅立った。
「外国を見てくる」
日本から出るのが初めての2人は、旅行の知識どころか英語も全く喋れなかった。
タイの空港に降り立ち、売店でリンゴを買うのさえ、どう言えばいいのか分からない。
「マイネーム イズ アップル」
キョトンとする店員にリンゴを指差し、お釣りまで受け取ってきた先輩を見て人間力の凄さを学んだ。
旅の話はまた今度に書くとして、姉貴と僕は就職して安定していたのが、弟が高校を卒業する前に不安定な状況に陥っていた。
「これはファミコンをしている場合ではない」
と、反面教師であるが、国立大学に受かるために、猛勉強する弟のモチベーションになったのではと、勝手に思い書いてみた。
11.教員住宅からの引越し
最後に親父について書こうと思う。
自分で建てた持家に住む。これが彼の人生最大の目標であり、40を過ぎて、まさしく叶えた夢でもある。
「借家の大工だと馬鹿にされる!」
と親父がよく言っていた記憶がある。
僕が高校の頃に引越しをしたので、その家はもう四半世紀の月日が経ち、少し古びた感が拭えない。
通常は木造二階建てを造るのに3〜4ヶ月で出来るというが、彼は3年の月日を掛けて完成させた。
これには少々事情がある。僕が中学生の頃、親父は狭心症みたいな症状で一時期、家で寝たり起きたりの生活を送っていた。いろんな病院に診てもらったが、
「病名すら分からなかった」
という。恐らくバブル全盛の時代にひたすら働き続けた体が、悲鳴をあげたのだろう。
それは毎日寝たきりの状態ではなく、体調のいい日はリハビリを兼ね、1人でコツコツと自分の家を造作するという状況であった。それが3年もかかった理由である。
祖父も大工で、九つ上の伯父も大工だから
「必然的に自分も大工になった」
と酔っている親父から、何度か聞いた事がある。
「ワシは中学を卒業したらすぐに働いた」
これが彼の口癖だった。詳しくは働きながら夜間の定時制高校へ通っていたのだ。
千葉の伯母さん曰わく、
「勉強が出来なかったから定時制の高校しか受からなかった」
とのこと。中学の同級生であり当時は、農協の事務員をしていた母と出会い、結婚した。そのおかげで町立の教員住宅に入れることになる。
当時のことは両親からあまり聞いたことが無いが、一つだけ覚えている話がある。
「母の成績が良かったので、もし結婚したら、自分より頭のいい子供ができるはず。自分に似た頭の悪い子供を作りたくない」
そんな想いから結婚を申し込んだのだと。
そして住むことになる新居だが、この教員住宅は家賃が無茶苦茶安かった。確か月5,000円程だった気がする。
僕が小学生の頃は、
「友達よりもかなり貧乏な家だ」
と思っていたが、今から思えば破格の家賃で、こんな所に住めればラッキーと思う他ない。
両親が出会った頃にこの団地が造られた。当初は、
「町中から応募が殺到した」
というが、真実の程は定かではない。
また、教員住宅に
「なぜ農協の職員が入れるのか」
と、疑問に思うかもしれないが、役場に勤めている人や消防士の方もいたので、恐らく公務員であれば、誰でも入居できたのだと思う。
親父は職人であるが故に、同じ職人仲間のことをあまり良く思っていなかったようだ。また彼は、
「学校の先生や役場に勤めている人が、周りにいる環境で子供を育てたい」
と思っていたのかもしれない。
この話の大半は役場に勤めておられる木村さんという方が、親父とよく酒を飲んでおられ、そこで話していた内容を子供ごころに覚えたものである。
完
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