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ギザギザハートの陸上部 〈全9話 7,900文字〉

1.プロローグ

かつて田舎の工業高校卒業生は「金の卵」と言われていた。

しかし、僕らはバブル崩壊後の入学で、これから深刻な就職氷河期が始まろうとしていた。進学する生徒が、就職する者を上回ったのも自分達の代からである。

もちろん自分は就職組に入っていた。高校2年になると、大体めぼしい会社が決まっており、授業はろくに受けなくてよかった。

ただ部活だけは真剣に取り組んだ。陸上競技の名門校で全員が長距離走である。

「レギュラー入りして都大路を走る」

この目標を掲げ青年時代を熾烈な競走に明け暮れていた。

一方、退屈な授業は朝練の疲れを癒すための睡眠時間だと思っており、クラスメイトも授業中に漫画を読んだり雑談したり、それで特に怒られることはなかった。

ある日の午後、ほとんどの生徒が机にうつ伏せて眠っており、静まり返った教室で、副校長先生が英語を教えていた。すると小さな声で

「チョ、チョットやめてくれ」

と言ったり、何やらせわしなく黒板の前を行ったり来たりしている。いつもの教室の風景に副校長のハゲた頭だけが眩しく光っていた。僕は、

「何か変だな」

と感じて、よーく見ると窓際に座っている和彦が差し込む光を手鏡で反射させ、先生の頭を狙って照らし続けていた。

恐らくだが、先生はそれに気づいている、しかし注意することなく、何故かその光から逃げまわっていた。

さっきも述べたが、ほとんどの生徒は寝ている。もしくは漫画に集中していて、僕だけがこの不思議な光景を見ていた。しかし、

「和彦やめたれよ」

とは言わない。これが日常であった。


またある日は、♪キーンコーンカーンコーンとチャイムがなり

「では、始めます」

と数学の授業が始まった。この校舎の隣には中学校があり、開始から5分程して♪ピンポンパンポン、ピンポンパンポンとなった。すると雅之はいきなり立ち上がって

「おい、チャイム鳴ったぞ!」

と大声で言った。黒板に数式を書いていた先生はその手を止め

「はい、では、、終わります、、、」

と早くも授業を終わらせてしまった。

その先生は黒板を消し、うなだれて職員室に帰るという一連のパターンが恒例のようにあった。

こんな高校時代のせつなく哀しい思い出を少しずつだが綴っていこうと思う。


2.赤点問題

僕は工業高校の情報技術科に入学した。この学校には、機械科や電気科など他にも6クラスある。

その中で情報技術科は

「1番優秀で頭が良いクラス」

と言われていた。


赤点問題

中学には無かった赤点が高校に有り、期末テストで40点未満は補講の対象となる。さらに学年末テストでの赤点はすなわち落第に繋がると言われていた。

建前上はそうであろう。1年の2学期で既にそれはただの脅しであって、授業を聞かなくても、

「赤点だろうが何とでもなる」

という事が分かってきた。

これは先輩からの情報であったり、実際に授業を受けて、ほんとに時間の無駄だと、身も蓋もない現実に直面する。

例えば、情報技術科には電気基礎という科目があった。教えるのは定年前のおじいさんで、やたら難しい公式を黒板に書いて、独り言のようにブツブツと張りのない声を出す。
昼飯を食べた後に彼の授業を受けて、寝ない人は見たことがなく、もしいるとしたら、

「その人は神」

である。本人も分かっているのだろう、この先生が寝ている生徒を注意することは一度もなかった。

しかし、この電気基礎の先生は、何を血迷ったのか、学年末試験にかなり難しいテストを出す。してなんと、

「クラスの平均点が12点」

と、ほぼ全員が赤点という事態に陥った。

僕も生まれて初めて8点という、衝撃の点数を取る。

そしてテスト後の授業では、全員にその解答用紙を返し、ブツブツ説明しながら、黒板に答えを全て書いた。さらに、

「今から再テストをやります」

と先生は、目の前に答えがあるにも関わらず、なんと同じテストをやるのである。

僕は、黒板の字がきたなくて読めない所があったが、再テストでは90点を獲得した。

しかし、この再テストでクラスの平均点が、70点であった。黒板に答えがあると言っているのに、あろうことかまた1桁の点数を取るバカが何人かいた。

そんな奴は落第になるかと思いきや、その先生は補講をするという。そしてその内容が、

「原稿用紙3枚に漢字を書いて提出しなさい」

と謎の宿題で許された。もはや電気基礎はどこへ行ったのか、漢字を原稿用紙に埋めれば進級できることを知る。

ちなみに雅之は400文字の原稿用紙に漢数字の「一」を全て埋めて

「なんか、田植えしてるみたいなやー」

と周りを笑わせた。


3.出席日数

今から25年程前の話である。高校卒業時に就職先が少なくなっており、大学への進路を選択した同級生は、

「4年したら、景気が良くなってるかも」

と甘い期待を抱いていた。しかし、4年後さらに厳しい状況に陥ったのは、歴史が証明している。

出席日数

前回は赤点のことを書いたが、今回は出席日数について書こうと思う。授業数の3分の2以上の出席が進級するには必要と言われていた。

ほぼ皆勤賞の自分にとっては関係ないことだが、バイトを頑張っている奴等にとっては際どい生徒もいた。

福田という僕の隣の中学からきた男がいた。彼はバイトを掛け持ちして、よく授業も休んでいた。

ある日、彼が真っ青な顔をして

「タク、なんぼならお金借してくれる?」

と聞いてきた。どういう状況なん??と彼の話を聞いてやった。

福田は家の近くに停めてあったバイクを盗んだ。長期間使って無かったので、バレないと思ったという。彼が、

「これカッコええやろ〜」

と学校に乗ってきて自慢していたあのバイクは盗難車だったのだ。

さらにそのバイクの持ち主が、実はヤクザだったらしく、福田は今、追い込みをかけられているという、、、

残念な友達を持った自分の運の悪さに、溜め息を吐きながら、

「ふぅー、2万なら、なんとかできる」

と、いつ返ってくるか分からない、なけなしの金をはたいた。さらに福田はありとあらゆる友達に声を掛けて金を借りまくった。

しかし、80万の弁償金には届かず、大阪へ出稼ぎに行くことになる。彼は西成のドヤ街のような所で長期間働いたらしい。

10月に出発して、帰ってきたのが2月であった。さすがにクラスの誰もが、

「福田は落第やな」

と口を揃えていった。10月になるまでもヤツは、結構サボって授業を飛ばしていた。

4月になり新学年の始まりである。新しい担任を迎え、教室も新しくなったが、なんと福田が隣に座っているではないか。

「おまえ、なんで進学できたん?」

と聞けば、よく分からない補講を1日だけやって、先生に大阪のお土産を配ったら許してくれたと言う。

これが2年の新学期の話である。秩序の崩壊は言うまでもなく、学校に行っても行かなくても進学出来ると、身も蓋もないことが証明された。


4.ギタヒショック

高校生活の部活について書こうと思う。約30名が陸上部に所属し、その全員が長距離走であった。

僕が1年の時、県駅伝にて16年連続で優勝という常勝軍団であり、中学校で1番速いと思っていた自分がこの時は、補欠にも選ばれなかった。

10人が正規メンバーとなり7区間で行われる高校駅伝について、まずは触れておこう。

毎年12月に京都で開催される全国高校駅伝は通称「都大路」と呼ばれる。1995年の第46回大会で5位入賞という快挙を成し遂げた。

これは四国勢初の入賞ということで地元の新聞やテレビが大きく取り上げてくれた。

先にも述べたが僕は補欠にも入らなかった。この大会で仙台育英高校のギタヒという黒人留学生の圧倒的な速さに世間は度肝を抜かれる。

それは各校エースが走る"花の1区"の10キロ区間で2位と2分以上の差を付けてタスキを渡した。後に使われる言葉だが、

「ギタヒショック」

現場ではもちろんのこと、テレビを見ていた人にとっても

「レベルが違いすぎる」

と感じたらしい。ちなみにギタヒは高校を卒業してすぐのシドニーオリンピックでケニア代表となり、1万メートル入賞をしている。

ギタヒだけでなく仙台育英には、何人かの留学生がケニアからやってきていた。先輩に聞いた話だが、

「あいつら年を誤魔化してるんやで」

という。その先輩はギタヒとは別の黒人留学生、ジョンと同じレースに出ていた。顔に油がのって明らかにオッサンに見えるジョンに先輩は、

「ハウ オールド アー ユー?」

と尋ねた。するとジョンは、

「メイビー 18(エイティーン)」

と答える。ちょっとメイビーって、と先輩は英語のできる生徒を連れてきて詳しく聞いた。

彼らには日本のような戸籍制度がなく、サバンナという広大な草原で暮らしている。そこは野生動物たちと同じように裸足で走って生活していた。

彼らは、ある程度の年齢で軍の学校に召集され、生年月日がそこで決まるらしい。なので誕生日はむろん年齢も適当なのだ。

そんなサバンナを走っていた彼らに日本人の高校生が勝てるわけがない。例えば、江戸時代に黒船がやってきたようなもので、太刀打ちのしようがなかった。

この話の続きは、また今度書くとして、最近YouTubeで当時の駅伝の動画を見た。若かれし頃のギタヒの走る姿は、サバンナで獲物を追いかけるチーターと重なって見えた。


5.東高アネックス

市内の生徒にとって工業高校は普通科に入れなかった落ちこぼれの学校という感覚がある。

一方、郡部から来る者の中には就職のためとか、実業に特化した勉強をする真面目な生徒が集まる学校でもあった。

前に述べたが、この学校の中では、1番優秀なクラスである。

僕が中学時代、英語のテストで100点など取ったことが無い。

これが高校に入って最初のテストで100点満点であった。まず、これについて説明しよう。


1問目、A B C D (  ) F G H
上の(  )の中を答えよ


高校に入って、マジでこの問題が出た。僕はタイムスリップをしてきたような感覚を憶えた。

しかし、これを間違えるヤツがいることを知る。答えに「ヨ」と書いてあったのだ。

さらに国語や数学といった基本的な勉強は中学では当たり前と思っていたが、ここ工業高校では必要とされていなかった。

身も蓋もない話だが、力だけが必要だと頑なに信じて、従うとは負けることと言い聞かすようになる。まるで尾崎豊の"卒業"の世界観であった。

西条というクラスメイトがいる。彼は常に3人の子分を従えて、喧嘩っぱやく、よく陸上部とも対立していた。

ある日、西条は大学生の彼女に車で迎えに来てもらっていた。野郎ばかりの工業高校では人の彼女であろうが、声をかけて友達になろうとする輩がいる。

また、それを見ようとやじ馬が彼女の周りを取り囲んだ。

「へぃ、かのじょー、オレと一緒に遊そばなーい?」

と一番乗りで駆けつけた雅之は、得意のナンパで車の彼女に声をかけていた。

後から西条の跳び蹴りをくらうのだが、吉本新喜劇を観ているように息がピッタリあっていた。

クラスの雅之をはじめ、西条たちは近くにある大学の学生寮にたむろするようになった。

始めは大目に見ていた大学側も、あまりに毎日来るので高校にクレームが入った。

しかし、先生から注意を受けて、やめるような奴らではない、むしろ逆効果である。今でもあるのか分からないが、

「東工生、出入り禁止」

の看板が出来た。そんな屁のつっぱりにもならない看板を尻目に彼らは大学の女子寮のことを

「アネックス」

と呼んでいた。

それは高校の別館という意味なのか分からないが、教室にいるよりも居心地が良く、屯するには最高の場所である。しかし女子大生にとっては迷惑だったと思う。

その中の何人か分からないが、西条をはじめ東工生と付き合うという謎の現象が起きた。男女の仲は分からないものである。


6.先輩のオカン

陸上部の夏合宿について書こうと思う。徳島の夏休みは蒸し暑く、走りこみをするには少し過酷すぎた。

そこで長野県の車山高原に2週間、鳥取県の大山に1週間、夏合宿をするのが陸上部の恒例行事であった。

真面目な話をまず書こう。この走りこみ合宿は、早朝6時、午前10時、午後4時の3部練習が行われる。基本的に全て自己申告で

「何キロお願いします」

と監督に自分が走りたい距離を伝えて陸上部のマイクロバスに乗り込む。

そのバスは20キロ地点まで走り、部員を降ろし始める。次は15キロ、10キロの順に申告した距離で部員を降ろす。

自分で申告した距離を走って旅館に帰る練習方法であった。

また、5キロ毎に給水があり、バスが見えれば、お茶やスポーツドリンクで水分補給が許された。

この合宿は、完全ノルマ制で毎日、合計50キロを走りこむ。これら数字だけ見ると過酷な感じがするが、実際は早朝と午前に20キロずつ走っておけば、夕方はゆっくり10キロでいい。

朝が苦手だったり、夕方の涼しい時間に距離を稼ぐ者もいる。

不思議に思うかも知れないが、人間はどんな状況にも慣れてくる。1年の時は余裕がなかったが、2年3年と自分はこの練習が合っていた。

1キロ4分を刻んで走る。ただひたすら機械の様に走ろうと思っていても、後から先輩や同期に並ばれると競走になっていく。

また、白樺湖や女神湖の周回コース、霧ケ峰クロスカントリーでの走りこみ練習もあった。合宿の最終日は陸上部の父兄が懇親会を兼ねて泊まりに来ていた。

ある時、たぶん大山合宿の最終日だったと思う。仲のいい先輩から声がかかった。

「タク、今日は大阪の女子大生がきとったで」

夕食を食べおわり、部屋でくつろいでいたが、先輩にけしかけられて女風呂を覗きに行った。

毎日50キロ走っていても、まだまだ元気である。僕は、

「なんかガラスが曇って、よく見えないっすね」

と旅館の垣根に隠れながら先輩と女風呂に近づいていく。ガラス張りの大浴場は旅館の庭が綺麗に見えるようになっていた。

これ以上近づくと、ヤバいと思った瞬間、知った顔と目があった。

「先輩のオカンっすね、、、」

と僕が声を掛けると先輩は下を向いて

「、、、オカンの裸を見てもうた」

女子大生が入っていると勇んでやってきた先輩は自分のオカンの裸を見て心が萎えてしまう。

車山合宿でも、先輩は女風呂を覗いて怒られた。そこは箱根駅伝の山梨学院と合同合宿をやっており、大学生が高校生を扇動したとして、一緒に女風呂を覗いた学生は怒られて丸坊主にされていた。

今でも山梨学院の1年生が坊主頭なのは、これが発端である。

7.木彫の熊

修学旅行の話を書きたい。徳島の田舎ヤンキーが♫ は〜るばるきたぜ 函館ー♪っと北海道に大挙した。

ニセコのスキー場に2泊して、札幌で1泊する行程であった。野郎ばかりの集団が200人超、さぞかし引率の先生は苦痛を伴ったであろう。

ニセコのホテルではビュッフェ形式で朝、昼、晩と食べ放題であった。ほぼ貸切り状態のそのホテルでは、周りに最低限の迷惑で抑える作戦が順調に進んでいた。

しかし最終日は、札幌である。徳島ではあり得ない大きな高層ホテルにやってきた。

そこで僕はホテルのエレベーターを待つ行列の中で強烈な便意に襲われていた。

トイレを探したが見つからない。もうすぐエレベーターで部屋に行けると並んでいたが、もう我慢の限界を向かえようとしていた。

俺は全身から脂汗が出てきて、血の気が引くのがわかった。ツインの同じ部屋に泊まるツレに鍵を渡し、

「ちょっ、クソしてくるわ」

と目をカッぴらいた状態で、ラウンジを振り返った。そこにはヤシの木や南国風の植物が植えられていた。俺はその中に入りズボンを下ろした。

ツレが俺を指差して、ゲラゲラと笑っている。正直、恥ずかしいというよりも助かった〜と感じた。

ニセコのホテルでビュッフェを腹いっぱいに食べて、バスに揺られ、ようやく着いた札幌のホテルで長蛇の列に並ばされていたのだ。

しかし、快便であった。ティッシュを持っていなかったので、その辺の葉っぱを使った。

俺のツレは使い捨てカメラで何枚も記念写真を撮ってくれていた。

この北国のホテルで南国風の植えこみにウンコする話、これは何十年たった今でも鉄板のネタである。

さて、札幌観光に話を戻そう。テンション爆上がりの野郎どもが自由行動を許される。

「夜の7時までにこのホテルへ戻ってくださいね」

と担任のおばはん先生が声をかけてきた。しかし、それは「今夜中に帰ればいい」と勝手に変換される。

とりあえず同じフロアに泊まるツレと8人くらいで外に出た。

夕方になって、気温もグッと下がってきた。野郎たちは、

「札幌と言えばパチンコやろ〜」

と訳の分からないテンションの5人が抜けた。僕ら3人でラーメンを食べにススキノを目指した。

田舎ヤンキー3人が、初めての地下鉄に乗って、すすきの駅まで何とかたどり着いた。誰かが調べた味噌ラーメンの店を探すのだが、街がデカすぎて迷ってしまった。

風俗や飲み屋のボーイに声をかけられ、びびった田舎者は、摩天楼のような繁華街で怪しい熊の木彫りを買わされて帰ったのであった。


9.日裏先輩、エピローグ

母校の陸上部員にとって部活動は高校生活の全てであり、すなわち駅伝が僕らにとっては全てであった。

前に書いたが、1年時の全国駅伝は5位入賞という県内の過去最高位を更新した。その翌年は14位であった。この14位のヒーローである日裏先輩について書きたい。

走りのセンスが抜群の先輩であった。3年で始めた3000メートル障害で、インターハイ入賞という快挙を成し遂げる。

しかし、精神面での弱さがあり、プレッシャーに滅法弱かった。前回が競技場で最後のトラック勝負になり、2人抜いて5位入賞であった。

この重圧を人並み以上に先輩は感じていた。

俄然注目の集まる全国駅伝で、今回は12位で襷がアンカーの日裏さんに託される。

先輩は必死の形相で師走の都大路をひた走り、西京極陸上競技場まで帰ってきた。

順位は12位のままであるが、後続に2人ランナーが迫っていた。

「ド、ドン、ド、ドーン」

大太鼓と歓声が鳴り響く会場に、テレビの実況放送が臨場感を掻き立てる。

ラスト300メートル、バックストレートにさしかかった所で1人抜かれて13位。

ラスト100メートル。大観衆が湧き上がるメインストレートで先輩の顔が歪んだ。

そして足がもつれた。テレビの実況は、

「徳島東の日裏、足がつった、大丈夫か」

と叫んでいる。会場がどよめいていた。約50メートル、四つん這いになってゴールした。

「執念のゴーーール!!」

と実況アナウンサーが絶叫したのが、瞬間最高視聴率MAXであっただろう。競技場で観ていた僕は、割れんばかりの歓声と拍手に感激で心が震えた。

京都の旅館に帰って次の日の朝、コンビニでスポーツ新聞を手に取った。裏の一面にデカデカと執念のゴールが載っていた。

スポニチなんかはカラーで大きく取り上げている。

それを買って旅館に戻ると、キャプテンは昨日の録画をロビーにある大きなテレビで何度も繰り返し観ていた。そう、日裏さんのゴール場面である。

僕はあまりチョけるのは、先輩に申し訳ないと思いつつ、キャプテンの悪ふざけに付き合っていた。すると後輩が日裏さんの驚くべき行動を報告してきた。

「コンビニでスポーツ新聞を全部買い占めて、ゴミ箱に捨ててました」

と旅館の周りに4店舗あるコンビニのスポーツ新聞を買い占めたらしい。スポーツ新聞に載っている所を仲間に見られたくなかったのか、謎の行動をしている日裏さんに

「冗談抜きでカッコよかったっス」

と僕は握手を求めた。昨日のショックを引きずった先輩は、凍える手をして震えていた。僕はその手を強く握り返し、

「マジでカッコよかったっす」

と今回のヒーローを讃えた。

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