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「こんな音にしたい」という意志をどうやって持つか?(5)


driveとcontrol

「こんな音にしたい」という意志をどうやって持つか?―という題で書き続けているけれど、作曲家が音の選択を自然やアルゴリズムに委ねてしまう方法についてこれまで書いてきた。作品を創ることとは自分の外の世界に何らかの形で干渉することだとすれば、干渉の仕方はいろいろある。干渉するという言葉を言い換えると、コントロールする、とも言える。どこをコントロールしたいかは人によってさまざまで、例えばこれまでに挙げたように、音楽というよりは建築に近いものができあがることもある。

もっと普通の音楽でも、ジャズのようにある程度似た語彙を身に着けた人たちが即興的に互いに反応しながらその場で作ってゆく場合もあるし、ロックバンドなどでそれぞれがそれぞれの力量や趣味によって話し合いながら音を決めてゆく場合もある。音のコントロールのされ方もいろいろだ。ポップスの多くはプロデューサーも含めたチームで作ることが多いだろう。それぞれ場合でも、誰が一番コントロールできる力を持っているかは、時と場合によるだろう。伝統音楽では、誰が、というよりは、しきたりなどがコントロールする場合もあるだろう。

ひとりの音楽家がコンピュータなどで直に音を聴きながら選び、そうしてできた作品をほかの人々に聴いてもらう場合でも、全てがその音楽家によってコントロールできるわけではない。聴く人によってオーディオ環境が違うからだ。SoundCloudなどでそういったものを聴くときでも、ときおり「このトラックはヘッドホンで聴いてください」などと但し書きを見かけることがある。おそらくこれを創った人はヘッドホンでモニターしながら創り、聴く人にも同じように細部を聴いてほしいのだと思う。

作曲家がコントロールという行為についてどう考えているか、これも人さまざまだけれど、結構複雑だ。たとえばジョン・ケージのような、ときに音の選択を偶然に任せるような人がコントロールを放棄したかというとそうではない。彼はプリペアド・ピアノのために書くことをある時期やめてしまったけれど、それはプリペアドのための道具(ゴムとかコインとかネジとか)をいくら厳密に設定しても、二台として同じピアノがないのでいつも同じ結果を得ることができないからだった。また、八卦で音を選ぶというようなやり方は、実はコントロールを放棄したわけではない。放棄されたのは作曲家の意志、もっと言えばdrive(衝動)の方だった。controlだけがあって、driveがない(ここでは詳しくは触れないけれど、トータルセリエルのような考え方にも同じことが言えるかもしれない。歴史的には両者は対立していたということだったが)。

driveとdesire

精神分析学についてはよく知らない。今は脳に薬を与えるとか遺伝子をどうこうするというのが治療の主流だから精神分析は必要ないとか、あんなものは科学ではないとか、そういう議論についてもよくは知らない。ただ、ドゥルーズ/ガタリとかジジェクとかをパラパラと読んでみると精神分析由来の語彙によく当たる。そういう語彙が指し示すいろいろな概念については面白いと思う。そもそも「無意識」というような言葉はフロイト以前に哲学で使われていた言葉で、フロイトはそれを「自然科学(あるいは医学)」の語彙として使ったのだ。ジジェクは精神分析の概念をドイツ哲学に立ち戻って説明し、逆にドイツ哲学の概念を精神分析の文脈で説明する。

即興するにせよ、楽譜を書くにせよ、メロディを伸ばしたい、音を鳴らし続けたい、と感じるにはdriveが必要だ。楽譜を読んで演奏する人にもそれは必要だと思う。driveがあるから人は音楽をやろうと思うことができる。それが自然な音楽の始め方だろう。でも、世界はフクザツだし、個人もフクザツだ。

controlだけの音楽があるように、driveだけの音楽というのもあるだろう。前々回に紹介したジャンデクとか、わりとそんなところがある。ジョイ・ディビジョンみたいなバンドもそれに近いかな、と思う。driveだけに動かされる人は何か強迫観念にとりつかれたような感じがする。誤解しないでほしいのだけど、ここに挙げたミュージシャンたちがとりつかれていると言っているのではない。「とりつかれた人の様子や心理」の表現になっている、と言っているのだ。driveは強迫観念的で、反復的だ。その反復はミニマルミュージックやダンスミュージックのそれとも違う。driveは孤独である。

そしてdriveはdesire以前である。desireは建設的だ。何かを欲し、何かを変えようとするのがdesireだ。「欲望」というと、ネガティヴに捉える人たちがいると思うけれど、「欲望」することは健全だ。英語のdesireはよくポジティヴに使われる。たとえば映画監督のマイケル・ムーア(Michael Moore)はdesireという言葉をこう使う―

yes, you will feel awful. Not because of the (minimal) blood on the screen, but because deep down, you were cheering him on - and if you’re honest when that happens, you will thank this movie for connecting you to a new desire — not to run to the nearest exit to save your own ass but rather to stand and fight and focus your attention on the nonviolent power you hold in your hands every single day.

ムーアが自身のfacebookページに書きつけた、昨年話題になった映画『Joker』評から抜粋した。ムーアは言う―この映画はあなたを非暴力的な日々の戦い(よりよい社会を創るための)に立とうという新たな欲望に与えるだろうし、あなたはそのことに感謝するだろう。

スラヴォイ・ジジェクの『Joker』評

ジジェクは自身の『Joker』評で、前述のムーアの評を好意的に引用するが、主人公アーサー(この映画は彼が悪役ジョーカーになるまでの前日談である)にはdesireはなく、あるのはdriveだけだと指摘する。アーサーは無力で、彼の行きがかり上振るった暴力は彼の不能さの暴発であることにとどまっている(ジョーカーとなって後も、動機のわからない悪事を繰り返すことになる)。けれど映画が描くアーサーは袋小路なのか?―ジジェクによればアーサーの場所は、ムーアの言うようなdesireを得るために一度は通らなければならないゼロ地点だということになる。マレーヴィチの『黒の正方形』みたいなものだと。

この風景のための音楽

『Joker』の音楽を担当しているヒドゥル・グドナドッティル(Hildur Guðnadóttir, 1982)は、HBOの『チェルノブイリ』(『Chernobyl』―1986年のチェルノブイリ原発事故を描いたドラマ)も担当している。アンビエントノイズと自身が弾くチェロで効果的な音を作品に添える。『Joker』でホアキン・フェニックス演じるアーサーが公衆便所で踊るダンスは、フェニックスがグドナドッティルの音楽を聴きながら即興で踊ったものだ。

パフォーマーはdriveを知っている。そう感じる。

『チェルノブイリ』の音楽制作のために、グドナドッティルはフィールドレコーディングのエンジニアと共に、リトアニアで廃炉になった原発を訪れて、そこの音を録音してきたという。その音だけを聴いて「ああ、これはどこそこの原発の音だよね」なんて言える人はいないはずだ。でも、場所から受けるものというのは重要だろう。

さて、

ベランダに出て川を見れば、こちら側は桜。向こう側は菜の花。ジョギングする人。犬を連れ歩く人。釣り竿を持って自転車に乗る人。2011年の春を思い出す。美しい風景と目に見えない不安。放射性物質は目に見えない。ウイルスも目に見えない。あなたはこの風景にどんなBGMを付けるだろうか?


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