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ソングライティング・ワークブック 第142週:Violeta Parra(3)

録音機はある文化を記録することもでき、その文化を結果的に破壊する産業にもなる。ラジオは民謡を広めるけれど、それを同時に壊しもすることに、Violeta Parraは自覚的で、インタビューでそういう発言をしている。

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民謡を収集するということはどういうことか?

伝統は創られる

以前にも書いたかもしれない。1990年代のある夏、スキー場と温泉で知られている長野県の町に宿泊したことがある。ちょうど夜は盆踊りをやっていて、どこでもよく聴かれるような盆踊り‐『東京音頭』なんかとそう変わらないような‐の音楽が流れていて、人々は踊っていた。その後違う音楽が演奏されて、こちらの方はもっと古くからあるらしいもので、踊りに加わる人々もいくぶん入れ替わるような感じだった。拍子というか、何拍目で1周なのか、どこで1歩逆に歩くのか、ちょっとわかりにくい音楽で、面白かった。

新しい方の盆踊りは、ラジオ、レコード、あるいはテレビが生まれた後にできたもので、古く聞こえる方は、たぶん‐地元の人に訊いて確かめたわけではない‐、それより以前からあったものだ。そして、ラジオ、レコード、テレビが生まれてから、「日本の」盆踊りは生まれたのだろう。

ラジオ、レコード、テレビ‐録音して複製され広がる、あるいは電波を通じて広がる、そういう中でジャンルが生まれ、新たな「伝統」が生まれる。以前にも書いたけれど、「リズム&ブルース」というカテゴリーはその昔「race music」という名前だった。そうカテゴリー分けされてレコードが売られたことで、そういう種類の音楽になったと言える。音楽産業の発達とともにできたジャンルがある。「演歌」もそうだろう。

新しいテクノロジー、新しいビジネスモデルが、「これが私たちの心です」と言って伝統を創る。伝統はフィクションなのだ。人間の集団はそういうフィクションを必要とする。

ルーツ?

10数年前に、御神楽に「アフリカの音楽に想を得て」3度のハモりを導入した、というものを聞いたことがある。ある実際御神楽として演奏されたものの録音だった。あっけらかんとこういうことやるんだな、と思った。3度は日本古来の音楽には存在しなかったから使わない、というのではない。3度は西洋音楽の影響ではなくアフリカの音楽の影響であるというアレンジャーの説明。民謡は生き物で変化する。アレンジャーの「憧れ」がどこにあるのかうかがえる。

「そんなのは本物じゃない。本物はこれだ」と、ルーツを求めるときりがない。1990年前後、日本でもブルガリアン・ヴォイスがコマーシャルなどに使われ、ちょっと流行った。ブルガリアの作曲家Filip Kutev(フィリップ・クーテフ、1903-1987)の合唱団は日本にも来た(2002年ごろウィーンでその合唱団にいた、という人に会ったことがある)。芸能山城組による『AKIRA』の音楽など、たぶんその影響を受けていると思う。ああいう響きだ。

それはブルガリアの民謡とその発声法、Kutevの西洋音楽のハーモニーや合唱の構成などが合わさったものだ。すると、その後「本当のブルガリアンヴォイス」などと銘打って民謡を録音したCDがよく出たように記憶している。

ルーツを求めるというのは、厳密には難しい。人はときに、何か純粋な、穢れていないものに、あこがれる。だから、「これが日本の心です」「これが本当のブルースです」「これが先住民の伝統です」「これが中世の楽器による演奏です」と銘打たれて差し出されたものを見聞きしてわかるのは、結局のところ、今の人々の憧れであり、闘いであり、趣味なのだろうと思う。「昔本当はこうだった」というようなことではなく。

境界

民謡の収集と聞いて、クラシカルに詳しい人が真っ先に思い浮かべるのはBartok(バルトーク)だろう。彼の採集範囲は、現在のハンガリーにとどまらず、バルカン半島、中東、北アフリカに及んでいる。そうやって収集していれば、「伝統」も自ずと相対化されて見えてきたり、連続性なども見えてきただろう。(彼のことを「ルーマニア生まれのハンガリー人」などと言う人がいるけれど、それは正しくない。国を言うなら「オーストリア‐ハンガリー帝国」だろう。)

文化は国境を知らない。というか、文化があり、そこに新たな国境線が引かれ、また文化が創られる。民族というのも、同じように、幾重にも創られてきただろう。

人は相互に依存して生きる生き物なので、何らかのグループに属することになる。グループにはいつも中心と周縁、支配と被支配、闘い、など緊張を孕んでいる。周縁にはどこにも属さない、あるいはいくつかのグループのどれにも属する人たちがいる。

だから歴史の教科書に出てくるような言葉「民族自決(各民族が各々国を持つかどうか決めればよい)」というような考えを、ほんとうに実行したら戦争になった、という例はきりがない。

Arauco tiene una pena

Arauco tiene una pena, que no la puedo callar
Son injusticas de siglos, que todos ven aplicar
Nadie le pone remedio pudiéndolo remediar
Levántate, Huenchullán

Violeta Parra, "Arauco tiene una pena"

スペインからの征服者に抗ったマプチェの人々のことを歌詞にしている。「アラウコ戦争」と呼ばれる。「Arauco tiene una pena」は英語で言えば「Arauco has a shame」。「アラウコの恥辱について黙っているわけにはいかない。何世紀にもわたる不正義を皆が受けてきた。誰にも癒すことのできない恥辱。立ち上がれ、Huenchullan」がだいたいの意味。「Huenchullan」をカタカナ表記すると「ウェンチュジャン」みたいな感じになるだろうか。マプチェの人の苗字。この場合はParraの同時代のマプチェのリーダーArturo Huenchullánのことか。

メロディは先住民の歌に想を得た感じだけれど、一方で戦いのラッパのようでもある。ギターと足踏み(または大太鼓)は3拍子(ただしワルツと違って2拍目と3拍目に低音のアクセントが来る)、メロディは8分の6拍子の印象が強い。下の譜例では4分の3拍子でまとめたけれど;

後にこの歌はLos Jaivasのようなロックバンドによってカバーされている。


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