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「腹中書有」について考える。

安岡正篤の座右の銘に「六中観」がある。「読書感想文集」の発刊にあたり、ここではそのうちの「腹中、書有り。」について考えることにする。

「腹中、書有り。」についての安岡の説明は以下のとおり。

目にとめたとか、頭の中の滓(かす)のような知識ではなく、腹の中に納まっておる哲学のことである。

安岡正篤『六中観』より

まず「書」とは書物、つまり本のこと。
普通、本は「頭」で読み、「頭」で理解する。でも、読書というものは、そんな段階で満足していてはダメで、「腹」でわかり、「腹」に納めなければならないと言っているのだ。

なるほど、「腑に落ちない」「腹で考える」という表現を使う文化を持つボクたちには、なんとなくわかるような気がする。

「頭」で理解するというのは、いわば「頭中、書有り。」の段階。
史実、エピソードなど本から得られた知識や著者から授かった考え方を断片として記憶している段階といえる。

次の段階は「胸中、書有り。」だろうか。断片的であった知識や考え方が思考のための礎となり、やがて教養や見識、思想として自分の武器になる。
そして、さらに修養が進むと、それはいつか自己の哲学や揺るぎない信念に高められてゆく。それをもって、一冊の本が「腹」の中に納まった段階、つまり「腹中、書有り。」と言えるのだ。

食べものがその跡形もなくボクたちの血肉となるように、万巻の書もまた消化と吸収を経てボクたちの哲学や信念となる。
とすれば、そのための消化酵素とはいったい何なのか。つまり、ボクたちはどのようにして、書を「頭」から「胸」を経て「腹」に落とすことができるのか。

一つ。多くの本を読むこと。
そもそも「腹」に納めるべき書がないのでは話にならない。

一つ。座右の書を持つこと。
恋人に振られたとき、大学を卒業したとき、子を授かったとき、仕事に行き詰まったとき・・・。
人生の折々に読んでみると、同じ本でもちがった感想を持ったり、新たな発見に重大なヒントを得たり、以前は何とも思っていなかった登場人物が急に愛おしくなったりすることがある。

一つ。考えること。
本のストーリーやメッセージ、エピソード、セリフ、風景に思いを巡らし、自分の生き方に重ねてあれこれ考えてみること。
それは、すなわちボクたちがその本と対話しているということでもある。

一つ。アウトプットすること。
そうして思いを巡らし、考えたことを言語化してみること。友人や恋人と話すのでもいい。twitterでもブログでも読書感想文でもいい。
自問自答し、身近な人や不特定多数に向けて発信する。そういうアウトプットの作業を繰り返すと、本だけではない、マンガも、映画も、落語も、音楽も、料理も、出会った人も、旅も、やがてはあなたの「腹」の中に納まり、あなたの哲学になり、あなたの顔に表れ、あなたの背中からにじみ出ることになるだろう。

最後になりましたが、この感想文集の発刊にあたりご尽力いただきました国語科、図書部をはじめ、多くの先生方に改めて感謝の意を表し、発刊の言葉とします。

「『読書感想文集』の発刊に寄せて」(2018/11/1)


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