麻疹の痕 第23話
窓の外に見慣れた風景が見える。ビルの代わりに木々が並び、山がそびえ立つ。田畑が広がり、人影はまばらだ。空は赤みを帯びているが、まだ明るい。この調子ならば、日が暮れるまでに美那郷へ着くだろう。
僕は水の中をぷかぷか浮いているような心地から抜け出せない。この感覚はいつからだろうか。そうだ、慶介と別れてからだ。
二人でどこかへ遊びに行くかのように家を出て、あたかも来た時の逆再生をしたかのように、ターミナル駅へ向かった。乗るべき電車が来て、僕はそれに乗る。
だが、来た時と違って慶介はプラットホームに残っていた。こちらに何か言っているが、言葉は耳を通り抜けるだけだ。意味はわからない。あれ、おかしいな。そう思っているうちに、けたたましい音が鳴り響く。うっとうしい。まるで蝉の鳴き声のようだ。やがて音は絶える。七日目が過ぎたのだろう。繁殖期は終わりだ。
排気音がして、ドアが閉まった。寂しそうな顔をした慶介が僕を見つめる。僕は彼を慰めようとして、触れようと手を伸ばした。だが、鉄の扉がそれを邪魔する。そうこうしているうちに、電車は動き出した。こんなことしている場合じゃないのに。僕はドアを叩くが、びくともしない。慶介の姿はどんどん小さくなる。そして、見えなくなった。それから僕は作業をこなすように、ここまで来た。
電車がトンネルに入った。真っ暗闇の中を通り過ぎると、アナウンスは次の駅が美那郷だと言っている。僕は機械的に荷物を持って、ドアの前へ行く。電車は速度を緩め、止まった。ドアが開き、電車から降りる
「しゅーいち」
声の方を向く。和樹が立っていた。
「僕より先にお前がいるなんて、びっくりだ。やっぱり夢か」
「やっぱりってなんだよ。たまには俺も時間通りに来ることはあるんだぜ。って、修一。何か変わった?」
「別に何も変わってないと思うけど」
「いや、雰囲気が違うというか。髪形が違くね?」
「確かに髪は切ってもらったけど」
「そっか。うんうん。切った人、センスいい。流石、都会の美容師さんは違うな」
「へぇ、わかるもんなんだ。その人も地方から出てきた人で。和樹の話をしたら、『遊びにおいで』って言ってたよ」
「おおっ。修一、ナイス。どこの、なんてお店?」
僕は財布の中をあさった。甲斐さんからもらった名刺を見つけると、和樹に渡す。
「サンキュ。よし、次の春休みには絶対に行こっと」
和樹はもらった名刺を無造作にポケットへつっこんだ。
「そういえば、詩織は?」
「詩織ちゃんは今日、急に予定が入ったらしくて。オレがよろしく頼まれたんだ。何だよ、詩織ちゃんがいないと、やっぱりさみしいのか?」
「いや」
「ホント、修一は素直じゃないな。まあ、いいや。家まで送るよ」
「ああ。って、歩きだろ?」
「違うんだな、それが。まあ、見てくれ」
得意気な和樹の後について、駅を出ると見慣れないスクーターが停まっていた。
「じゃーん。これ、俺の新しいバイク」
「ふぅん」
「反応、薄っ」
「興味ないから」
「修一ってそういうヤツだよな」
和樹は椅子の部分を開けると、ヘルメットを取り出して、僕に渡す。自分も被ると、スクーターにまたがった。
「ここに座れよ」
和樹の指示に従って、僕はシートにまたがる。和樹も乗って、前を向いたまま僕に言う。
「じゃあ、行くぞ。ちゃんと捕まれよ」
僕が和樹の腰に手を回したら、ヤツはエンジンを掛ける。スクーターは徐々にスピードを上げていく。周りには畑しかない大きな一本道に出たら、夕日が僕たちを赤く染める。
「俺の後ろに乗るの、修一が最初だ。特別だぜ」
「バーカ。実際には女の子乗せてんだろ。森さんとか」
「なんで森が出てくんだよ。大体、バイクは免許取ってから一年しないと二人乗りできないの」
「そうなんだ。だったら、最初が僕で良かったのか」
「もちろん。何事も予行練習は大切だぜ」
「僕は実験台か」
「信用してる相手にしか任せられないだろ」
「どうだか」
「修一の意地悪。で、都会はどうだった?」
「楽しかった」
頭の中にこの一週間のことが思い浮かぶ。慶介と暮らした日々は、毎日が色鮮やかだった。今も実際には続いていて、目を覚ましたら、隣で慶介が寝ているんじゃないか。だって、彼のぬくもり、彼の息づかい、そして彼の香り。数時間前は確かに手に届くところにあったんだから。
「そっか。何をしたんだ?」
「いろいろ」
彼が何を食べているのか。どんな風景を見て、どんな街に暮らしているのか。身体を重ねるだけでは、それがどうやって作られたかは、わからない。知るには、それを形作る要素にも、目を向ける必要がある。慶介と同じ空気を吸えたことで、彼の一部を自分の内側に取り込めたような気がする。
「いろいろって、雑過ぎだろ」
「言葉にするのが難しいんだ」
「お前にも難しいことがあるんだな」
「まだ整理できてなくて。少し時間をくれないか」
「わかった」
そう言うと、和樹は一言も話をしなくなった。僕も黙って、スクーターに揺られる。慶介がいない日常に戻る準備をしなくちゃ。僕の異変を和樹以外には気付かれないように。
「修一、着いたぞ」
和樹の声で、僕は自分の家に着いたことに気がついた。僕はスクーターから降りるとヘルメットを脱ぐ。
「ありがとう」
和樹は僕の顔をじっと見つめる。何か言いたそうだ。しかし、軽くため息をついて、僕からヘルメットを受け取った。
「また、明日な」
和樹は自分の家の方へスクーターを走らせていく。僕は見えなくなるまで、それを見送った。
その時、僕はふと思い出した。ロッキーとエスニック料理を食べに行った時に会った男のことを。どこかで見たことがあると思っていたが、あれは陸だ。でも、陸がなんであんなところにいたんだろうか。やっぱり勘違いかもしれない。
「修一、おかえりなさい」
エンジン音を聞き付けたのだろう。母さんが門まで出てきた。
「母さん、ただいま」
「元気そうで良かったわ。お母さん、あなたのことが心配で、心配で。晩ごはんは食べるんでしょ」
「ごめん。それよりも今は疲れてるから、部屋で休ませてくれない?」
「ええっ? まあ、慣れない場所で一週間ですもの。ちょっと休んだ方がいいかもしれないわね。ごはんはいつでも食べられるようにしておくから」
「ありがとう。母さんの心遣いにはいつも感謝してる」
「あら、珍しい」
「都会で暮らして、いつも食事を用意してくれる母さんのありがたみが改めてわかったんだ」
「ふふ。修一がそんなこと言ってくれるなんて、母さんうれしいわ。やっぱり父さんの言う通りだったかもしれないわね」
「父さんが何か言ったの?」
「都会に行くことで、いろいろ学んでくるだろうって」
「そうだね。学校の勉強だけじゃ気付けなかったことを知ったよ」
「そう。今日はゆっくりお休みなさい」
「うん」
母さんは母屋に帰っていく。僕は自分の部屋に戻って、ベッドに倒れ込んだ。
気が付くと部屋は真っ暗になっていた。漏れ入る光を手掛かりにして、電気を点ける。時計を確認したら、午後十時を回っていた。このまま今日は寝てしまおうか。だが、お腹がぐぅと音を立てた。母さんが晩ごはんを取り置きしておいてくれるって言ってたっけ。僕は階段を降りる。一階の部屋は真っ暗だ。慶介はもういない。僕は靴を履いて、母屋の茶の間へ向かう。
茶の間には明かりがついていた。中をのぞいたら、父さんが座って何かを飲んでいる。
「修一、おかえり」
「父さん、ただいま」
「お前の分の食事は母さんが準備して、台所に置いてある。取りに行ってきなさい」
「はい」
僕は台所に向かう。テーブルの上にはおにぎり二つと漬物が置いてある。僕はお茶を入れて、お盆に載せると茶の間へ戻った。父さんは顔が赤い。それなりにお酒が入っているようだ。僕は自分の席に座って、食事をはじめる。おにぎりを食べ終えた時、父さんが口を開いた。
「修一、慶介くんとの一週間はどうだった?」
僕は思わず息を止める。そして、その言葉が意味するところを考えた。父さんは僕たちの関係がどんなものなのか、気が付いていたんだろうか。でも、知っていたのであれば、何故わざわざ二人で過ごす時間を作ったんだろう。実は気付いていない? それとも、確信を持てないから、敢えてカマをかけているのかもしれない。相手の意図がわからないうちに答え過ぎるのは、愚か者がすることだ。
「いろいろ勉強になりました。実際に現地へ行って、経験することでわかることも多いですね」僕は無難な言葉を選ぶ。
「そうか。修一。私はね、学びは人との関わりから生まれることが多いと思っているんだ。特に、慶介くんはお前にとって学びが多い存在だと思っている」
「はい。僕もそう思います」
「人生において自分の心を動かす相手は少ない。その中でも、心を通い合わせられる相手に出会えるのは奇跡的だ。そういう人は大切にしなさい」
「はい」
「言葉は物事を区別するためにある。だが、言葉に囚われ過ぎると物事の本質は見えなくなってしまう。なぜなら、現実は境界が曖昧なものだからだ」
いきなり話が飛んだ。今日はかなり酔っているのかもしれない。父さんは話を続ける。
「そして、人との関係は相手と自分の特別なものだ。時に世間の理解を得られないこともあるだろう。でも、だからといって恥じることはない」
父さんは湯飲みに入った液体を飲み干す。
「それよりも、相手との関係を豊かなものにすることに集中しなさい。それが大切だ。世間が何と言おうとも、私と母さんはお前の味方だから」
「父さん」
「ちょっと飲み過ぎてしまったようだ。昔のことを思い出してね。さて、もう寝るとするかな」
そういうと父さんは立ち上がって、茶の間を出て行こうとする。
「父さん。僕、父さんの息子で良かった」
「そうか。私もお前と、そして遵二の父親で良かったと思ってるよ」
「父さん、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
父さんは襖を閉めて、茶の間を出ていった。
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