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麻疹の痕 第17話

 試験の終わりを知らせるチャイムが鳴る。答案用紙が回収されると、張りつめた空気が緩む。さっきまでの静寂がウソのように会場の中は、ざわめきであふれた。
「五問目は答え、何にした?」
「あれね。ちょうど今朝復習したばっかりだったから、助かったよ」
「マジか。俺、全然わからなかったから、適当に書いちゃった」
 友だち同士で来ているらしい二人がお互いに答え合わせをしている声を背にして、僕は教室を出た。朝、参考書を読みながら電車に乗っていたせいで、目的地の駅を降り損ねそうになった時は焦ったが、テスト自体はよくできたと思う。慶介のキスのおかげだろうか。そうだ。僕の頭にひとつのアイディアが閃いた。これはきっと上手くいくだろう。ニヤニヤしてビルの入口へ向かうと、見慣れた顔の男が壁に背中を預けて、本を読んでいた。僕は彼に声をかける。
「慶介。ずっと待っててくれたの?」
「シュウ、お疲れ。さっき着いたばかりだから、それほど待ってないよ。試験、どうだった?」
「慶介のおかげで上手くいった」
「どういうこと?」
「今朝、おまじないをしてくれたじゃん」
「おまじない?」
 慶介は僕が何を言っているのかわからないという顔をした。僕は彼の耳元でささやく。
「キスだよ」
「ああ、そういうこと」
「これからも頼りにしてるね」
「まったく、しょうがないなぁ」
 そう言いながらも、慶介はまんざらでもなさそうだ。これまでは人に頼らないようにしていたが、彼の言う通りに人を頼るのも良いことなのかもしれない。
「じゃあ、ちょっと移動しようか」
「はい、どこに行くの?」
「シュウに見せたいものがあって。でも、その前に準備で別のところへ寄ってもいいかな」
「いいけど、どこ?」
「美容室」
「へっ?」
「ちょっと知り合いにカットモデルを頼まれてて。そうだ。シュウやってみない?」
「で、でも」
「ちょっと整えるくらいだから。もし、切るのが嫌だったら、セットするだけでもいいんだけど」
 僕が普段行っているのは子どもの頃から行っている散髪屋だ。美容室なんて自分が足を踏み入れる場所だと思ったことがない。都会の美容室だなんて、どんな風にされてしまうんだろう。
 でも、格好よくなったら慶介は僕のことをもっと好きになってくれるだろうか。「セットだけいい」とも言っているなら、びっくりするようなことにならないかもしれない。
「美那郷に帰ってから、びっくりされるようなことにならなければ」
「大丈夫。それはないように言っておくから」
「わかった。やってみる」
「オッケー。じゃあ、向こうに連絡しておくよ」慶介は電話を掛けて話はじめる。
 果たしてどうなることやら。

 高級そうな服飾店が並ぶ通りを僕たちは曲がった。人通りが少ない緩やかな下り坂の途中にあるマンションの前で慶介は立ち止まる。そして、そのまま中へ入って行った。美容室に行くって聞いていたけど、違うのだろうか。慶介に従ってエレベーターに乗ると、彼は階数ボタンを押した。たどり着いた階は普通のマンションのようにも見える。慶介は一番手間にある『EKUSOS』とプレートが付いているドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
 女性の声がする。中は真っ白な壁で、金属製の椅子が並ぶ。奥には洗面台と革製の黒いシャンプーをするためであろう椅子がある。ということは、どうやらここが美容室らしい。一人の女性が僕たちに近付いてきた。
「あっ、立花さんじゃないですか。こんばんは」彼女は笑顔で挨拶する。
「こんばんは。今日はカットモデルの件で来たんだけど」
「そうなんですね。じゃあ、向こうのお部屋です。ご案内します」
「ありがとう」
 部屋を出ていく女性について、僕たちは向かいの部屋に入る。こちらも同じようなデザインだ。
 中に入ると二人の男性が話し合っていた。一人は三十代くらいの短い黒髪だ。僕たちを連れてきた女性に指示を出しているので、この人が店長なのだろう。
 もう一人は金髪で黒いシャツとボトムスの男性だ。まるで男性KーPOPグループのメンバーにでもいそうな顔立ちをしている。歳は慶介と同じくらいだろうか。若い方の店員が、僕たちに近付いてきた。
「立花さん、こんばんは」
「こんばんは、カイくん」
「今日はありがとうございます」
「どういたしまして。これが今日モデルをしてくれるシュウだよ」
「高野修一です」
 僕は頭を下げる。彼はカイくんという名前らしい。慶介はどういう関係なんだろう。ただの店員と客? そうじゃないかもしれないと思うのは、考え過ぎだろうか。
「甲斐智也です。修一くん、今日はよろしくね」
 甲斐が手を差し出したので、握手をする。落ち着いたのを見計らったかのように、歳上の男性も僕に話し掛けてくる。
「店長の佐藤です。今日はお手伝いしてくれてありがとう」
 甲斐は椅子を回して、座面をこちら側に向けた。「座れ」ということなのだろう。僕が腰をかけると、椅子を鏡の方へ戻す。
「今日はどのようにして、格好良くなりましょうか」
 急にそんなことを聞かれても困る。何を言うべきか答えあぐねていたら、慶介が助け船を出してくれた。
「甲斐くん、シュウはこういうお店初めてなんだ。基本は整えるくらいでいいんだけど」
「そうですか。わかりました」
 そう答えると甲斐は僕の周りを動きながら、たまに髪を触って慶介に話し掛ける。
「動きをつけた方が、修一くんには似合うと思うんですけど」
「変化があまり残らないようにしたいから、セットでなんとかできない?」
「オッケーです。あとは、ハチの部分は取っておきましょうか」
「そうだね」
 慶介と甲斐の間だけで話が進んでいるが、内容はよくわからない。慶介には地元に戻ってびっくりされない程度とは言ってあるが、どうなるんだろうか。
「ふむ。大体、イメージが決まりました」
 甲斐は紙に何かを書いて、店長に見せる。店長はそれを確認しながら、甲斐にアドバイスをしているようだ。二人の話が終わったのだろう。店長は慶介に話し掛ける。
「立花くんはどうする」
「どこか待つところはありますか」
「じゃあ、メインルームの方に行こうか」
「わかりました。シュウ、オレは最初に入った部屋で待ってるから。荷物も預かっていくな」
 慶介は店長と一緒に僕の荷物を持って、ドアを出ていった。えぇ、行っちゃうの? あたかも森の真ん中で案内役とはぐれてしまったかのようだ。甲斐から何か聞かれたら、意味がわかるだろうか。
「修一くん、よろしくお願いします。まずはこのクロスを着けてもらっていいですか」
 甲斐から撥水性の良さそうな布を受け取ると、僕は身に着けた。
「首は苦しくないですか」
「はい」
「じゃあ、はじめますね」
 まずシャンプー台で髪を洗う。布を替えて、元の席に戻るとドライヤーで軽く髪を乾かした。甲斐はハサミを持って、僕の髪を切り始める。
「修一くん、高校生なんだって? じゃあ、夏休みだね。うらやましいな。この辺りに住んでいるの?」
「地元は田舎ですよ。進学はこっちに来るつもりなんで、見学に来たんです」
「そうなんだ、俺も田舎出身だよ」
「仕事でこっちに来たんですか」
「うん。俺、地元で自分の店を開きたいんだよね。せっかくだからレベルが高いところで修行したくて、出てきたんだ」
 僕は和樹を思い出す。あいつもお母さんの家を継ぎたいと言っている。高校を卒業してから専門学校へ行くといってたが、その後は甲斐のように都会で修行するつもりなんだろうか。
「そうなんですね。僕の友だちも地元にある実家の美容室を継ぐって言ってます」
「おおっ。だったら、その彼に機会があれば、この店に来るようにいっておいて。勉強になると思うから」
「わかりました」
「都会っていろいろ刺激が多いからね。一度でも見ておくのは良いと思う。まあ、大変だけど。たまに地元の山と空が恋しくなる」
 僕も都会に何年か住んだら、同じようなことを思うんだろうか。
「そうですか」
「都会に合う、合わないもあるけど。同業で地元に帰りたいって言ってる奴もいるからね。でも、俺は来て良かった。地元に置いてきた彼女には悪いけど」
 僕は心の中でほっと胸をなでおろす。彼女がいるということは、慶介と特別な関係ではなさそうだ。
「じゃあ、遠距離恋愛なんですか」
「うん。ちなみに、修一くんは彼女いるの?」
 「彼女」と言われたら、詩織のことが当てはまるのだろうか。まさか僕と慶介との関係は知らないだろうから、単純に恋人がいるのかってことだよな。
「はい」
「そっか。修一くん、モテそうだもんね」
「甲斐さんもモテるんじゃないですか」
「うーん。よく言われるけど、そうでもない」
「へぇ」
 僕からしたら格好よく見えるけど、都会の女性はもっと理想が高いんだろうか。まあ、甲斐さんは誠実そうだから、女性にアプローチされても、さっきみたいに「彼女がいる」と言っているのかもしれない。
「まあ、彼女さんがいるなら、良いじゃないですか」
「うん。けど、遠距離恋愛だからさ」甲斐はため息をつく。
「でも、続いているんですよね。何か気をつけた方が良いこととか、ありますか」
 慶介とはこの一週間が終われば、遠距離恋愛になる。男女と男同士では違いはあるだろうが、参考になることもあるかもしれない。
「ひとつは意識的に会う機会を持つことかな。連絡を取り続けていても、すれ違いってどうしても起きるから」
「なるほど」
 慶介の美那郷での仕事はもう終わりのようだから、なかなか呼ぶ口実を作るのは難しいだろう。今回のように、また僕がこっちに来る口実を作った方が良さそうだ。金銭面での問題もある。同じ理由では父さんも今回みたいに交通費は出してくれないかもしれない。次回以降は、自分でなんとかしなくては。
 ハサミを操っていた甲斐は手を止めた。彼は僕の頭を払う。細かい毛が身に付けている布の上へ落ちた。
「カットはこれでいいかな。修一くん、何か気になるところはある?」
 そう言われたところで、僕には髪の長さ以外に違いはわからない。そういう意味では、気になるところはないと言っていいだろう。
「大丈夫です」
「あとはセットだね。ワックスって使ったことある?」
「ないです」
「オッケー。この長さだと、あれかな」
 甲斐は後ろに置いてあった黒いプラスチックの棚を引き寄せる。中をあさってハンドサイズのケースをひとつ取り出した。
 フタを開けて人差し指と中指でクリーム状のものを掬って、手のひらで混ぜ合わせる。洋菓子のような甘い香りがたった。
 甲斐はまずサイドから髪を触り、軽やかな手つきで全体的に形を作っていく。まるで魔法使いのようだ。どうやったら同じようにできるのか、僕にはよくわからない。
「よし」
 甲斐はタオルで手をぬぐう。どうやら完成したようだ。
「ちょっと待っててね」
 甲斐は僕に断りを入れて、部屋を出ていく。しばらくして、店長と慶介を連れて戻ってきた。慶介は僕の姿を見て、その瞳を大きく開く。
「おおっ。シュウ、随分格好よくなったじゃん。流石、佐藤店長直伝」
「ふふふ。甲斐は努力してるからな。俺の目に狂いはなかったみたいだ」
「ありがとうございます」甲斐は頭を下げる。
「とはいえ、まだまだ修行が必要だけど。このあとフィードバックするから、写真を撮らせてもらっておけよ」
「はい」
 甲斐はタブレットを持ってくる。
「修一くん、記録のために写真を撮らせてもらっていいかな」
「もちろん」
 僕が答えると、甲斐はいくつかの角度で写真を数枚撮った。
「じゃあ、これで終わりです。そうだ、これを渡しとく。美容師志望のお友だちによろしくね」
 甲斐はお尻のポケットからカードを取り出して、僕にくれる。受け取って、見てみると甲斐の名刺だった。
「今日はご協力ありがとうございます」
 店長と甲斐さんはエレベーターの前まで送ってくれる。僕たちはエレベーターに乗り込むとボタンを押して、二人が見えなくなるまで頭を下げた。

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