一生の、一生のお願い 第1話
旅館の障子戸の外から小鳥のさえずりが聞こえる。射し込む日の光は穏やかだ。遠くで鹿威しが音を立てた。思わず息が漏れる。新しい畳の香りが心地いい。俺は胡座をかいて、テーブルの上に置かれていた茶菓子へ手を伸ばそうとした。
「貴史。実はお前に頼みごとがあるんだ」
座敷に祐輔の声が響く。突然のことで、思わず出そうになっていたあくびが引っ込んでしまった。
祐輔はまっすぐ俺のことを見つめている。まばたきすらしない。よく見れば、ヤツは座布団の上できっちり足を揃えて正座をしていた。
なんだっていうんだ、そんなにかしこまって。大学のサークルの仲間のうちでは「柔軟剤のCMに出演してそう」っていうのが祐輔の位置付けだ。真面目な奴ではあるが、およそ緊張感とは縁遠い。
何事だろう?
とはいえ、そもそも今回の旅行先として祐輔がかなりの格安とはいえ温泉宿を選んだ時点で違和感はあった。
これまで二人で旅行へ行く時は、お互いが好きなアニメやマンガにちなんだ場所へ行くのが定番だったからだ。けれども、この近くにそういう場所はない。
だが、俺は祐輔が最近疲れていることも知っている。だから、「たまにはゆっくり過ごそうぜ」というヤツの言葉をそのまま受け取った。
しかし、そうではなかったらしい。
もともと祐輔には俺に頼みごとがあったのだろう。正直に言えばいいのに、こんな手の込んだことをして。いったい何だっていうんだ。
おぼろげながら祐輔の意図に予想がついたことで、肩の力が抜けた。ずっと固まったままの祐輔に俺は声をかける。
「宿に着いたばかりだし、お茶でも一杯飲もうぜ」
俺はポットから茶碗にお湯を注ぎ、ティーバッグを入れた。湯が徐々に色付く。そして、もう飲めるかなという具合になったところで祐輔へ差し向けた。
「ほら」
置いた茶托が音を立てた。それが合図になったんだろうか。祐輔は茶碗には目もくれず、吐き出すように言った。
「貴史、頼む。一生のお願いだ。フェラさせてくれ」
「はぁ?」
祐輔が放った言葉の意味を理解できず、俺はつい間抜けな声をあげてしまった。
こいつは何を言っているんだろう。何かの冗談なんだろうか。それとも何かの罰ゲーム? それとも、それともーー。
混乱したまま、俺は祐輔の顔を見返した。ヤツは頬を紅潮させて、潤んだ瞳で俺を見つめている。心なしか震えているようだ。
訳がわからない。正直、大量のデータを処理しきれないパソコンにでもなったかのようだ。思考回路がシャットダウン寸前になりながらも、俺はようやく言葉を絞り出す。
「よく言っている意味がわからないがーー。お前、ゲイだったのか」
「違う、違うんだ」
祐輔は俺の発言を打ち消すように、ブンブンと音が出そうな勢いで頭を横に振る。
「だよな。お前、うちのサークルの美紀先輩が好きだって言ってたもんな」
「そうだよ。オレ、おっぱい大好きだもん」
祐輔の突然のカミングアウトに、俺は思わず吹き出してしまった。つられて祐輔も笑い出す。
ひとしきり笑ったら、俺の頭もだんだん回りはじめた。祐輔もさっきより表情が弛んでいる。
「で、どういうことなんだ。きちんと説明しろよ」
「わかった」
祐輔は笑うのを止めて、神妙な顔に戻った。
「半年前にオレの実家がやってる会社が潰れたって話はしたじゃん」
「ああ」
「貴史、全然動じないよね。この話をしたら、腫れ物扱いする奴らの方が多いのに」
「いや、動じてない訳じゃないさ。でも、それで距離を取るのは違う気がするだけだ」
「ありがとう。そう思ってくれるのはうれしいよ」
頭を掻く祐輔に俺は笑顔で返す。
「何言ってんだよ、当然だろ。だって、俺たち同じアニメが好きな者同士なんだぜ」
「うん。貴史と仲良くなったのも、それがきっかけだったもんね」
「あれ、サークルの新歓コンパの時だったっけ。お前に『休み中、どこへ行った?』って聞いたら、あの作品の舞台になったところを答えたじゃん。あそこ、ただの住宅街だぜ。親戚もいないのに行く理由なんて、ひとつしかないだろ」
「だね」
祐輔の顔がほころぶ。いつもの会話が、どうやら祐輔の調子を戻してくれたようだ。組んでいた腕をほどき、祐輔は話を続ける。
「ごめん、話がそれた。でさ、家の金がほとんどなくなっちゃったんだ。うち、じーちゃん、ばーちゃんはもういないし、父さんも、母さんも一人っ子だから借金できる親戚もいなくて。自分で何とかしなきゃ来年の学費も払えなくなってるんだ」
「マジか。でも、確かお前。『奨学金取って、アルバイト探す』って言ってなかったっけ?」
「うん。オレも最初はそう思ってた。でもさ。オレの専攻、生物系じゃん。実験の日っていつ終わるかわからないんだよ。それにオレのゼミは動物の世話もしなくちゃダメだから、シフトのアルバイトってなかなか難しくて」
そういえば、前に祐輔から見せてもらった時間割は授業がギッシリ詰まっていたっけ。祐輔と同じ学科の弘樹も忙しそうだ。文系の俺とは随分違う。
「確かに理系の奴らは大変そうだよな」
「本当だよ。オレはずっとやりたかった勉強だから、がんばれる。でも、普通のバイトをするには忙し過ぎるんだ」
「スポットで入れるところもあるだろ」
「ああ。けど、できる時に仕事がないこともよくあって。結局、あんまり稼げない」
「奨学金は?」
「正直な話、返済不要の奨学金を貰うには条件が合わないんだ。利子付きの奴ならもらえるけど。当然、返済しなくちゃいけないだろ。大学院まで行く前提で計算したら、なかなか厳しい」
コイツ、大学院まで進むつもりなのか。確かに理系の先輩たちは大体行く。だが、四年で卒業する人もいる。
「無理して進学しなくてもいいんじゃないか」
「嫌だ。オレはもっと勉強したい。それとも貧乏人は身の程をわきまえて、やりたいことは諦めろ。そういうこと?」
怒気を帯びた声で祐輔は言い捨てた。俺は下を見て、首を横に振る。
「そんなことはない」
「ごめん。大きな声、出しちゃった。まあ、確かにそれは考えなくちゃいけないことだってオレもわかってるよ」
祐輔は深くため息をついて、お茶に口をつけた。
「でも、簡単には諦めきれないからさ。何か方法がないかずっと調べてた。そうしたら、見つけたんだ。お前、『売り専』って知ってる?」
「いや、聞いたことない」
「簡単に言えば、男が男に身体を売る商売。たまに女のお客さんが付くこともあるらしいけど。風俗だったら、時間拘束が少なくて、いっぱい稼げるかなって。ホストも考えたんだけどさ。知っての通りオレ、酒は弱いじゃん」
サークルの飲み会でも、祐輔はあまり飲まない。ビール一缶くらいで、寝てしまうこともある。その度にコイツの面倒を見させられているのは俺だ。
「確かにお前にはホストは勤まらないだろうな。でもさ。お前、男と寝れんの?」
「もちろん男と経験なんてないよ。けど、ネットでゲイのエロ動画を探して、視てみたら『何とかなりそうかな』って思えたんだ。で、この前面接行って来た」
「お前、行動早いな」
そう言いながらも、祐輔はじっくり考える俺と違って「これだ」と思ったら突っ走るところがあることを思い出した。
「それだけ切羽つまってるんだよ。でさ、『とりあえず試用期間で働いてみる?』って言ってもらえたんだよね」
「そうなのか。お前、ゲイには好かれるタイプだったんだな」
「うるせぇ。お店のマネージャーさんが言うには、ゲイじゃないっていうのに価値があるんだって。プレミア感があるらしい」
「ふぅん、なるほどね」
男女でも自分が相手の初めてになりたがるヤツはいる。それと同じようなニーズでもあるのだろう。
「で、とりあえず一通り研修受けて、『大丈夫そうだ』って思えたんだ」
「つーか、研修ってどこまでやったんだ?」
未知の世界過ぎて、俺は思わず尋ねる。
「全体的な流れの説明かな。ゲイじゃないのが売りになるから、最初はいろいろできない方がいいんだってさ」
そういうものなのか。自分も男だから、どうしたら良いのかはわからない訳じゃない。とはいえ、実際にやるとなったら話は別だと思うんだが。
「でさ、『試しにお客さんとってみる? 丁度ハードなことさせないお客さんが来たから』って言われて。やってみたんだよ」
はぁ? コイツ、どんだけ無鉄砲なんだ。ツッコミを入れたくなったが、それではいつまで経っても話は終わらなそうだ。ひとまず最後まで聞くために、心の中へしまった。
「お前、根性あるな。ちなみに、どんなお客さんだったんだ?」
「三十代くらいの、普通のサラリーマンって感じかな。『マネージャーから話は聞いてる』って言ってくれて。焦ってるオレのこともリードしてくれた」
「へぇ、いい人で良かったな」
自分でもよくわからないフォローをしている気がする。
「うん。でも、その人から『口でして』って言われて。挑戦したんだけどさ。オレ、抵抗感あって。どうしてもできなかった」
「そりゃあそうだろ」
「そのお客さんは『無理しなくていいよ』って言ってくれて、結局手でやったんだ。けど、お客さんが帰ってからマネージャーさんに報告したら『祐輔くんには、このお仕事は難しいかもしれない』って言われちゃって」
「そっか。まあ、仕方ないだろ」
よし、ここから軌道修正ができそうだ。さて、なんて説得しよう? だが、考えている俺を無視するかのように祐輔は言葉を続けた。
「でも、オレが大学に居続けるにはこの仕事しかないって思うんだよね」
「そうは言うけど、他人に身体を売る仕事だぞ。奨学金借りて、バイトするんじゃダメなのか」
「んー、普通はそう言うよな。オレもお前の立場だったら同じことを言うと思う」
祐輔はカバンの中からノートと筆記用具を取り出して、俺の前で開いた。そして、数字を書き込みはじめる。
「うちの学部の学費って、百四十万なんだよ。奨学金は利子付きで最大、月十二万借りれる。だから、一応支払えるんだ。けど、生活費は自分で稼がなくちゃいけない」
「まあ、そうなるな」
「で、生活費はこれくらい」
祐輔はノートへ生活費を項目別に並べる。家賃五万、光熱費一万、食費三万。教材費や交通費、日用品といった項目が続いて、合計十二万だ。
最近、ひとり暮らしをはじめた従兄が同じようなことを言ってたっけ。むしろ、家賃はもっと高かった気がする。
「バイトの時給って大体千円くらいだろ。十二万円を稼ぐとしたら一ヶ月に百二十時間働く必要がある。つまり、三十日休みなしで考えると一日平均四時間弱だ」
祐輔は次に数字と円グラフをノートに書き出していった。
「授業が九時からはじまって、十八時に終わる。その後に移動と食事をして、十九時から出勤したら二十三時まで働くことになる計算だ。もちろん、土日とか長期連休があるから実際にはもう少し負担は減るよ。でも、病気とかになったら一気にきつくなる」
そうか。こうやって説明されたら、奨学金やらバイトでなんとかできるということ自体が甘いような気がしてきた。
「なるほど。それだとほとんど休めない前提だな」
「うん。実際、先月体調崩した時は『ヤバい』と思った」
思い返してみれば、その時期の祐輔は目が死んでいた。けっこう無理をしていたんだろう。
「大学にいる間も全部授業がある訳じゃない。けど、バイトがあれば放課後は使えないから、その間に実験のレポートとか課題もやらなくちゃいけないだろ。そうするとさ。時間的に精一杯なんだよ」
「でもーー」
祐輔は俺の言葉を遮るように、言葉を被せてきた。
「売り専でバイトしたら、大体一時間で七千円なんだ。もちろん常にお客さんがいる訳じゃない。けど、待ち時間中は勉強ができる。それに時給七千円だったら、十二万稼ぐのにたった十七時間でいいんだよ」
「そっか」
そこまで差があるなら、祐輔の気持ちが傾くのもわかる。若いんだから、無理をすればできる。それはそうかもしれない。だが、そんな言葉は所詮他人事だ。
「オレだって抵抗感は無茶苦茶あるよ。でも、やれたら大学院も夢じゃない。そのためには慣れなくちゃいけないんだ。だからさ、練習に付き合ってくれよ」
祐輔の真剣さはわかった。俺が祐輔の学費を代わりに払える訳でもない。それに友だちとしてできる限りのことはしてやりたい。でもーー。
すっかり冷めてしまったお茶に口をつけながら、何が正しいのかを考える。
「こんなこと、貴史くらいにしか頼めないんだよ」
祐輔はいまにも泣き出しそうな声を絞り出した。
こんな話、俺にするのもかなり勇気が必要だっただろう。そこまで信頼してくれているってことだ。ならば、できる限り応えるのが人として正しいのかもしれない。
「わかったよ、手伝うよ」
その言葉を聞いて、祐輔はぱぁっと花が咲いたような笑顔になった。そして、俺に抱きつく。
こいつ、本当にゲイじゃないんだろうな。
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