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教育は安ければ良いというわけではない〜あるモードに没頭することで結果が出る〜

企業戦略といえば、今でもコスト戦略と差別化戦略というのが王道である。

同じ品質なら、安い方がいい。

同じ牛丼を食べるなら、450円より、350円のほうがいい。

今日は、教育のプライシングについて考えたい。

一見、教育サービスでも、安ければ安いほうが良いと思う。

ハーバード大学の哲学の授業を月1万円で受講できればいいかもしれない。

でも、よくよく考えるとそうでもない。

一般的に、最終的にその商品やサービスを評価するのは、それらを使用後の満足度だ。

満足度と払った金額を比べて、評価する。

教育サービスの場合、受講中の顧客の行動により、最終満足度は大きく変わる。

教育で手に入れたい能力を獲得するには、ただただマッサージのように受身でサービスを享受していればいいものではなく、自分で能動的に行動する必要があるからだ。

よく言われる通り、身銭を切ることは重要なのだ。

汗水たらし稼いだ金を投じて教育を受けるということは、自分が疲弊して、嫌なことも我慢して(※楽しく稼いだ側面もあるかもしれないが、大半は辛いだろう)得た報酬を、人に渡すわけだから、その分、そこから何かを得てやろうという意向が強くなる。

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私自身は、比較的高額な語学教育サービスを提供している。

本音を言えば、値段を下げて、より多くの人の語学力向上に寄与したいと考えている。安ければより多くの人が受講するだろうからだ。

しかし、値段を下げたら、寄与できる可能性が下がると考えている。

何かを習得するには、ある程度のコミットが必要になる。中国語を身に着けたいなら、一定期間はその他の行動をシャットダウンするようなモードへの突入が必要となる。

昔、凄い語学の達人の先生の指導を受けていたが、「ほ〜」と思うような知的な刺激はあったが、あまり真剣に学習量を確保せず、語学自体は伸びなかった。振り返ってみれば、これは価格が安かったという理由が大きかったかもしれない。。

修士号を取るとか、MBAとかもその観点がある。

MBAの学習内容など、仕事をしながら本を読むだけで学べることは学べるが、仕事をしながら、集中してそこから沢山吸収してやろうという態度で、沢山の本を読めるかというと、それは現実的ではない。

やるなら腰を据えて、「私は今○○を勉強する」というような人生モードに変えないと、なかなか成果は得られない。

私は哲学の修士号を取ったが、修士課程のときの読書量や授業への熱意は仕事をしながらは現実的ではない。物理的には仕事をしながらでもできることだが。

もちろん、ただ価格を高くするのはよくない。きちんと原価とのバランスで適正な価格が中長期的な価値創造は必要。



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