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才能と努力の本質(所与の初期セットへの関連を認識できない人間)

人間は生まれの偶然性にさらされている。

気づいたら人生が始まっている。

被投性である。

いわゆる、物心がつく頃には、
人間は世界内存在している。

つまり、この物理的な世界という空間に生きている「私」という人生ゲームに投げ込まれている。

その際、家族環境、物理的な地理的環境、遺伝子、身体的特徴などは、既に所与のものとして降ってきている。

これを初期セットと呼ぼう。この初期セットを基盤に、自由意志を発動しながら自分の人生を切り開くゲームが始まる。

この初期セットにおいて、社会で無数に存在する様々なゲームに向き不向きがある。

例えば、わかりやすい話、遺伝子レベルで高身長になる人は、バスケットボール選手に向いている、というようこと。

これはわかりやすいが、もっとわかりにくいところでいうと、幼い頃に、哲学者の親父と毎日議論させられた、というような所与の環境があれば、批判的な洞察力が得られて、経営者や哲学者に向いている、というようなことになりうる。

世の中で言われる「才能」の本質はこれだ。

何かしらのゲームにおいて、優位に進められる何かを、持っていること、そしてそれが偶然性の初期セットに根付いているもの。これが「才能」の本質。

では、努力は何か?

それは、所与の初期セットへの関連性、つながりが見出せない(見いだしにくい)もの、ということになる。

パスケット選手になりたいが、身長が低い人が、俊敏性を鍛えるために頑張ってトレーニングをしている、これは初期セットに紐づいていない能力を自由意志で獲得しようとしているから「努力」に見える。

ただ、よくよく考えると、その人が俊敏性を獲得してパスケット選手として成功した場合、よく考察すると、幼い頃に俊敏性が身につくような経験をしていたことが見出されるかもしれない。

2−3歳でランダムに転がるボールでよく親と遊んでいた、とか。そうなってくれば、それは初期セットとのつながりがあり、「才能」になる。

結局、世界が複雑だから、どこがどう因果関係や相関があるのか、人間の認識、認知力ではわからない。

突き詰めていみると、全部初期セットにつながるだろうから全ては「才能」なのだが、そことの繋がりが認知できないものを「努力」ということで思考停止でラベリングしているだけなのだ。

と、決定論的な結論になってしまった…

こうなると自由意志はどこにある?

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