【有限性の自覚】親ガチャと所与
親は選べない。
気がついたらある親の下で生まれている。
それが現代の時流で良い環境か悪い環境か、それはガチャガチャのようにランダムな所与である。
これを親ガチャというらしい。
しかし、親に限らず、われわれの生の中には所与のものが沢山ある。
今回は、それを改めて認識したい。
というのも、近代以降、どんどん個人の自由が発展しており、何でも選べる感覚が出てきた。
これが行き過ぎ、「人間は自由の刑に処されている」とまで言われ、逆に何をしていいかわからなくなる人も増えた。
しかし、われわれは、たくさんの所与のものに囲まれている。
所与とは、自分が意図的に発生させたものではなく、自分の中に根拠なく勝手に降ってくる類のものだ。
親が誰かというようなことだけではなく、東京都の北区という場所に生まれた、とか。気づいたらこういう身体をしていた、とか。
もっというと、目の前の風景も、自分ではコントロールできない与えられたものだ。今、埼玉県のスタバにいるが、目閉じて開けたら池袋の景色に変えることなどできない。
さらに、ハイデガーも研究したように、自分の生のあり方を吟味すると、常に、感情的(情状性)なものベースにある。これも所与のものである。
つまり、
われわれは有限的な存在なのである。
何もかも選べるような感覚に陥りそうであるが、相当選択肢は狭められている。
その中から、何を選ぶか、でしかない。
何か行動できない人は、一度この所与性を考えてみるといい。
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