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弁護士を目指さなかった理由

今回はちょっと深いい話。

僕は20代後半、一瞬弁護士を目指そうかと考えたことがあった。(正確にいうと、弁護士として食っていくというよりは、とりあえず弁護士資格をとっておこうと考えた)

上海にいた頃、仕事で、契約とか知財とか、リスクとかを扱うことが多かったし、弁護士の先輩などと接する機会もあり、法について学びたいと思った。そして、30手前で体系的に学べそうな司法試験の通信講座を申し込んだのだ。

他にも理由がある。その同じくらいのタイミングで、世界史や哲学なども勉強していて、小室直樹さんの『憲法原論』(昔は痛快憲法学)を読んで、法の考え方に興味を持った。万人の万人に対する戦いから、社会契約、リヴァイアサン、そして、宛名は政府権力だという憲法の理念を知り、感銘を受けた。

そうして、4Sでおなじみの中村先生の司法試験講座を受講開始した。

少し勉強をすすめると、そこで大分心境が変化した。

弁護士の仕事とは、価値判断を法律構成で正当化することだということがわかった。つまり、常識的な判断が先にあり、弁護士はその結論を法律を使って、社会的に正当なもととする技術者である、と、そのように見えた。

だから、何か世の中に新たな価値を創造するというような仕事ではなく、社会を安定させるためのようなものである。

フロンティアの開拓や創造のほうに、関心のある自分のやりたいことではないなと感じた。

なので、自分はより深い、価値判断の根拠の方に興味をシフトさせた。

そもそも論で、「こうあるべき」というのをどうやったら導けるのか?(なぜなら、法は結局それを根拠づけるだけだから)

そっちの方に関心が移り、究極的なそもそも論である存在論、現象学のほうへ向かっていった。ここまでこないと、「すべき」ということの根拠が、実ははっきりしない。

そして、30歳で哲学を学びに大学院に入った。

哲学でも完全に解明できているのかはわからないが、現象学がそもそも論のいきつく最も底板になっているだろう。

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現代は、近代以降、大きな物語が消え、個人主義が進み、価値判断が安定しておらず、不安定な時代である。

その基礎付をできるのは、哲学しかない。

このnoteでも散々書いているが、われわれ意識の範囲と時間軸が変われば、善悪基準は全く変わってしまう。

哲学でも、それをどう考えるかの答えはでない。

とりあえず、私の関心は、数十年から数百年で、生まれの偶然性に対して全ての人間が平等な存在になる世界。

細かいところでいえば、デジタルコピーの現代において、創造についてどう捉えるか?みたいなことも興味あり。

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ただ、価値判断を法律構成するというのも、創造的な仕事なのだと最近は感じ始めた。もう一回細かいところも勉強してみたいと思っている。

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