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松本人志を再考:「その話、落ちある?」の窮屈さ

自分は子供の頃、松本人志に大きな影響を受けている。

ごっつええ感じ、ガキ使、放送室、ビジュアルバムなどいろいろ見た。
ガキ使のビデオはめっちゃ録画して擦り切れるほど見た。

前にこのnoteで何度か松本人志について書いたが、検索できないのでその記事を見つけることができなかった。
以前noteで書いたのは、働きだして以降は、社会発展や批判などに繋がらない松本の笑いに興味がなくなったが、それでもやっぱり独自の笑いとして面白い。というようなことを。

今日は違う視点で2点書いてみる。

1つは、今松本が批判されている「いじり」問題だ。ダウンタウンの笑いは、人を馬鹿にしたり、上からの立場で評価したり、いじったりするものが多い。

ただ、これは一面の話で、逆にいうと、上の大御所さえもいじったりする痛快さもあるし、意味不明でシュールや、あるあるネタや言語化したことのないものの言語化など、もっと沢山の笑いの種類があったと思う。

たしかに、子供の頃、松本やダウンタウンが怖かった。
heyheyheyとか見ていると、いついじられるか(馬鹿にされるか)怖がるアーティストを見ていて自分もどきどきしたものだ。

その話、落ちある?

とかいうノリも松本が作ったといえるだろう。
なにか話すなら、面白くなければ行けない!という思いやりのない強引な押し付けはたしかに世の中を窮屈にしただろう。
(ただ、これは聞き手の本音を代弁している側面もある。本当につまらない話を延々とされても困るから)

どちらかというと、松本に反抗する人がいなかったほうが問題だ。「おちがない」といわれて、「だから何や?」とか、「おもろない!」といわれて「俺もお前がつまらんと思う」というやつが誰もいなかったのが問題。松本は、そういう反論にも十分に準備があっただろうし、のってくる人間。

私が松ちゃんに興味を失ったのは、松ちゃんのビジョンがよくわからなくなったからだ。よくわからないシュールな笑いの先に何があるのかわからない。茂木健一郎がよくいうように権力を批判するようなコメディ性はない。

でも、その後自分は一周して逆に、そのようなグローバルな流れに反して、ただただ自分が笑えるものに一途に進む姿勢に再度興味を持つようになった。

なぜなら、それは村社会日本という日本の特徴がよく出た現象だから。日本は長らく島国で孤立していたため、長い関係をベースにその人間関係内でずっとやっていくような社会であった。外から攻められるとか、内乱がおきるとか、あまりない比較的平和な社会。

そういう歴史があって、誰にも当たり障りのない組織内のポジションをいじって笑いにするようなものが生まれたのかもしれない。(適当)

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