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私と中国ー南京東路と外灘ー

以下は、2017/8/7に書いたもの。

2012年6月(26歳)から2016年2月(30歳の年)までの約四年間中国に仕事で滞在し 、生活をしてきた私にとって今後も中国は仕事とプライベートを問わず人生の中で大きな部分を占めることであろう。しかし、何故私は自ら中国に行ったのか、そして現在に至っても中国が好きで今後も関わっていきたいと思っているのだろうか。その際、「南京東路と外灘 」が私にとっての「中国」を理解する上で鍵になりそうだ。

まず、最初に思い出されそして大きな契機となったのは二〇〇七年大学三年生のとき(当時21歳)に参加したAPRU が主催するプログラムである。そのとき上海に十日ほど滞在したのが自分の初中国であった。このプログラムは環太平洋地域の十カ国近くの国々の大学の学生が上海の復旦大学に集まり中国の政治や経済について一緒に学ぶというもので、それぞれの国から数名ほどで合計三十人くらいの参加者がいた 。多様な背景を持つ同年代と朝から晩まで共に学び、遊び、食を共にした経験はとても充実したものであった。

しかし、このプログラムに参加したのは中国に対して特別関心があったからではない。正直、私の中国についての理解はそれまで大変に乏しいものであった。高校や大学で真面目に世界史も日本史も学んでいなかったので、一般的な良識のある人が抱くであろう中国の歴史や文化に対する尊敬の念などなかったし、歴史上長い期間で人口や経済的に世界一であったことなど、全く意識になかった。ただ、なんとなく「世界まる見え 」などテレビで観る映像から漠然と勢いがあり壮大で活気があるなぁと思っていた。そして後進国のイメージも持っていたが、中国文化の建造物や料理、街並みの華やかさには少し興味を抱いていた程度である。

そんな自分がなぜこの大学のプログラムに応募したかというと、その直前にしていたアメリカ留学の経験に遡る。二〇〇六年夏から二〇〇七年夏までの十ヶ月間、学部のカリキュラムの一環でアメリカのカリフォルニアへ留学しており、そこでの経験は自分の価値観を大きく変えるものであった。それまで、高校、大学ではスポーツに打ち込み伝統的な日本らしい上下関係の世界を当たり前のように生きていたが、アメリカでは父親世代をファーストネームで呼び合うという当時の自分では考えられないフレンドリーな人間関係に驚愕した 。もちろん、そうした人間関係や文化だけでなく、広大で美しい自然と気候に心を打たれるとともに、自分の視野の狭さを痛感させられた。

シリコンバレーの近くの起業家精神溢れる風土で十ヶ月の留学後、かなりの程度アメリカナイズドされた私は、今後仕事で今までなかったような新しいものを創造したいと考えるようになった。さらにし、外国や国内を問わず自分の知らなかったことにもっと触れ、学びたいと思うようになった。そんなわけで、大学のウェブサイトか何かで偶然見つけた中国でのプログラムにその場ですぐに応募したのであった。もちろん、当時中国市場が大きく成長し、「これからは中国ビジネスだ」という傾向があったのも影響していたであろう。

このプログラムに参加したことは大変よい経験であったが、中国の何にそんなに感動したのかといえばよく分からない。既述の通り、同世代の外国の友人と交流でき楽しかったという印象が強かったが、その舞台であった中国に愛着を持ったのだろうか。そのような分かりやすいことではない気がする。あまり反省して考えたことがなかったが、二〇一六年、約四年間の駐在を終えて日本に帰国する前にこれについて考え、一つの結論に達した。その鍵となるのが「南京東路と外灘」である。

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私は上海に駐在していた頃、ほぼ毎週のように「南京東路と外灘」に足を運んでいた。なぜかはよく分からない。特に買い物や人に会う目的がなくても、暇があるとフラッと来てしまう。ここは何というか私にとって中国の性質を凝縮したような不思議な空間なのである。私が友人との待ち合わせや食事の場所にここを指定するとよく文句を言われたものだ。日本人だけでなく現地の中国人もこの場所をうるさい、汚い、疲れる、危ないとネガティブに形容し好まない人が多い。この私にとっての「南京東路と外灘」の魅力の謎に、私が中国に惹かれる根があるのではないか。

南京東路はあらゆる「人」でごった返している。それは中国の各都市から集まってきた観光客からアジアや欧州、アフリカの留学生や旅行者、出張者などあらゆる地域からというだけにとどまらず、ド貧困層から超金持ちまで経済的にも多様。ホームレス同然の者、訳の分からないものを売る者、田舎から出てきた農民工、ポン引き、旅行客をカモにする詐欺師たち。ちなみにこうした層が七割(の印象)。一方、各国からの観光客、留学生、ファッショナブルな欧米の若者、ピチピチのプラダやグッチなどの高級ブランドのTシャツを身にまとう中国の成金。こんな場所なのに、運動着でランニングしているもの。道端で座ってゲームをするもの。さらに一本横の道に入れば古く汚い民家からパジャマを来て出てくるもの。こんな場所は日本やアメリカで見たことがない。

人だけではない。南京東路と外灘はその外観も壮大。いろいろな人が集まっているだけならまだありそうだが、こんなに現代的で広大な空間にそういう多種多様な人々が行き交うという構図が特徴的なのだ。大きな通りで両サイドはデパートなどの小売店や飲食店がずらっと並ぶ。派手な装飾とネオンに彩られた一本の大通りは初めて見た人を魅了するであろう。種種雑多な簡体字と英語の看板、溢れんばかりの歩行者たちがさらにこうした通りを活気づける。

日本でいうと銀座のような上品なものではなく、上野のアメ横のごった返し感を倍増させ、さらに空間的に巨大化してもまだ形容しきれない。さらに外灘の一帯は一九世紀後半から二〇世紀前半にかけての租界地区であり、当時建設された荘厳な雰囲気の西洋式高層建築が建ち並んでいる。川を挟んだ反対側には多くの超高層ビルが立ち並び、国内外の主要銀行をはじめ証券取引所、各種商品取引所、商社などが集積したビジネスエリアが広がっており中国の資本主義的な側面を象徴している。

そして一つ通りが変われば一般庶民が暮らしている。外に洗濯物が干してあるオンボロの民家が立ち並ぶ。これらが一体となりこの場所ならではの広壮で、豪奢、活気がありさらに生活感も垣間見れる不思議な混沌とした雰囲気が醸し出される。横光利一の小説『上海』を読むとこのあたりの情景が目に浮かぶ。

H&M、UNIQLO、ZARAなど国際的なチェーンは二十二時で閉店するが、二十四時まで営業している衣料品店があったり、深夜三時になっても閉店しない食堂、外灘近くは朝まで賑わうナイトクラブ、ちょっと離れると富裕層の集まる高級ホテルのロビー、零時を過ぎても川沿いには人影が見える。

日本などルールの決まりきった先進国にない、各自が自由に自分の好きなように振舞っている。ここにいる誰もがいきいきして見える。何かに従って理性的に生きているというより、ただただ目の前の現実を生きているような感じ。

これだけ人々が多様であるだけに、みんな互いに関心がない。ここが重要なところ。人に対して興味を持っていないという意味ではなく、みんな異なる価値観を持ち、才能や資産も異なり、状況が違うという前提がある、ということだ。だから、何かの利害が一致するということはないと分かっている。こうした異なる世界を生きるという前提があることが、互いに関心がないということの意味だ。

ここにいると、自分という特殊性が自然と誰からも許容されるような感じがある。どんな思想や外見を持った人間も同一の世界で共生している。この現事実を前にしてでしか感じることはできないだろう。

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このように私は「南京東路と外灘」の在り方に惹かれてしまうようだが、これはそのまま「中国」そのものについても言える。二〇〇七年に初めて上海に来たときのこの南京東路から外灘までの体験は今でも鮮明に覚えている 。その後、暫く中国とは関わりがなかったが二〇一二年に先輩が中国で事業を興すということで、すぐに決断し渡中したのも心の奥底でこうした中国像の反復を求めていたからなのかもしれない。


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