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気がついたら病んでいた 1(始動)

●はじまり

谷本修平(主人公)は、とある鉄工所の設計課に勤務していたが、3年間経った時に設計課ではユーザーと接する機会もなく、自分の仕事の成果を外部から評価してもらえなかった。
鉄工所の設計課での仕事に遣り甲斐を見失い「ありがとう」と言われる仕事に就きたいと転職を決めた。

谷本修平は、外部の人と接触し評価してもらえるであろう、誉田技能講習所に平成10年4月に中途採用された。
ここから人生の大きな転換が始まる。

谷本修平の辿った、ゼロからの始動、仕事への情熱、講師としての成長、やがて体調を崩していく姿を追いかけた物語である。

●新規技能講習の立上げ 

誉田技能講習所はグループ会社の一つとして、平成10年4月に法人登録されたばかりだった。

社長は誉田一弘
所長は越谷俊憲
社員として関連会社から出向した嶋田英樹(リーダー)、古村俊一、中畑和也、古池裕貴
そして中途採用された谷本修平
の7名となっている。

グループ会社(運送業・倉庫業)の社員には、必要な資格として労働安全衛生法に規定されているフォークリフト運転技能講習のニーズが高い。
そういうニーズが同業他社にも潜在すると考え、社長の誉田一弘と所長の越谷俊憲が新たな法人として『誉田技能講習所』を設立したのだ。
ただ、技能講習の講習機関として認められるためには管轄の労働局の認可が必要であった。

講習に必要な教室、教材、資材、フォークリフト、講習のための敷地は誉田一弘と越谷俊憲で準備ができるが、肝心の講師はリーダーの嶋田英樹を含めて講習の知識は「ゼロ」のスタートとなる。

そこで、中途採用の谷本は、講師として必要な資格として大学卒業、機械工学科で力学を修めていること、前職で労働安全に関して経験を積んでいたこと、フォークリフト運転技能講習を修了していることから、管轄の労働局への認可を申請する役を任された。

転職して最初の仕事は、労働局のお役人様と交渉するという、前職とは全く異なる知識を要し頭の痛い内容であった。
とは言うものの仕事が成立しなければ誉田技能講習所の講師たちの仕事が無いわけであり、急がなければならない。

社長の誉田一弘の一言「3ヵ月後に講習を開始する」…この業界のことはよく知らず、そんな短期間で認可が下りるのかと疑問を持ったが、やるだけのことはやった。

労働局に認可されるために必要な書類の作成をまず一番に1カ月で仕上げて、次にフォークリフト運転技能講習の講習シミュレーションはリーダーの嶋田英樹が担当講師の育成をすすめた。

結果、労働局のお役人様2名の現地調査を受けて、社長誉田の指示通りの3カ月後に見事に認可を受けることができ、フォークリフト運転技能講習機関として仕事ができる状態となった。

あくまで「できる」状態であって、営業活動や実際の受講生を相手に講習をしているわけでもなく、まさに生まれたての赤ん坊のようなもの。
「受講生」についてはグループ会社の誉田運送と誉田倉庫から数名は期待できる。
その他については、業界団体へのPRをしなければ「受講生」は集まらないだろう。

ただ懸念されるのが、講習料金の設定だった。

業務規程を作成したときに労働局からのアドバイスで、先発の技能講習所の存続を考えて技能講習料金の設定を「やや高く」しておいたほうが良いということで、3割増し料金の設定を社長の誉田一弘の承認を取り、業務規程に定めたのであった。
営業活動にあたる所長の越谷俊憲は、この価格設定を良しとせずにいた。
当然だろう。
営業活動において他所よりも料金が高いことがネックになることは誰の目から見ても明らかだ。

(越谷)「グループ会社はともかく、これから営業を掛ける会社にどう説明したらいいものやら。お前は3割増しの料金設定の根拠をどう説明する?」

(谷本)「新型フォークリフトで講習を受けることができる、ではどうでしょうか。」

(越谷)「ワシやったら、古いフォークリフトでも安い料金の他所を選ぶな。」

(谷本)「他所は遠い位置にあるので、近いほうが通いやすいと思いますが。講習日数分の交通費も考えると、そんなに変わらないと考えますが如何でしょうか。」

(越谷)「それは確かに言えるな。」

料金設定に関して所長の理解と営業活動方針も定まったことで、平成10年7月にグループ会社の社員を対象に第1回目の講習を実施することとなった。

●スタートアップ

4月から5月までの間、フォークリフト運転技能講習の講習シミュレーションはリーダーの嶋田英樹が講師の育成をすすめた。

古村俊一、中畑和也、古池裕貴、そして中途採用された谷本修平、各々フォークリフトの経験は十分に積んでいた。
出向組の4名は10年以上の経験があり手慣れたものだった。しかし、教本を読み込むうちに基本動作に忠実ではないことが露呈した。

特に、走行しながらのティルト操作やリフト操作が目立つ。

教本では、走行中のティルト操作とリフト操作は禁止されるが、これは積み荷の安定性を確保しながらフォークリフト全体の安定性の限界を超えないための「安全対策」が根源となっている。
永年の経験から「これくらいでは荷物は崩れない」感覚を覚えてしまった、ということだろう。
ベテランオペレーターが冒しやすい「ミス」の1つといえる。

逆に言えば、それくらいのスピードで荷役仕事をこなさなければ現場では通用しない、バカにされる、時間内作業が社内必須なのだった。

社内独特な時間制約が身に付けさせた悪しき「クセ」を抜くためにリーダーの嶋田英樹は、徹底的に走行中に右手を膝の上に置く訓練を行った。
右手は、ティルト操作とリフト操作を行うのである。
左手は、ハンドルノブから手を離さず操舵操作を行うのである。
この訓練は、出向組4人を相当に苦しめたのだった。

エンジンをスタートし、フットブレーキとクラッチペダルを踏み、前後進レバーを操作、変速レバーを一速、駐車ブレーキを解除し、リフトレバーを操作してフォークを10㎝上げ、ティルトレバーを操作してマストを完全に後傾させる。
ここまでの流れができたら、右手を一旦膝の上に置くのである。
4月の初めはフォークリフトを走らせるよりも、この動作が重視された。

リーダーの嶋田英樹が「右手」に注目する中、古村俊一、中畑和也、古池裕貴、そして谷本修平の順に、フォークリフト運転技能講習の試験課題をこなしていく訓練は通常の荷役仕事とは違って過酷であった。
谷本修平は座学担当が決まっていたので教本の内容を熟知していたが、実技担当の古村俊一、中畑和也、古池裕貴、はろくに教本も読まず、リーダーの嶋田英樹の指示に耳を傾けての訓練だった。

午前の4時間で古村、中畑、古池の3名は疲労感を隠せなかったが、谷本は余裕を持って対応していた。
午後の4時間は谷本は労働局への認可申請のために書類作成を所長の越谷とともに行い、出向組4名は実技講師役と受講生役を交互に担当して実技講習のマニュアルを作成するのであった。

5月には講師のレベルが揃ってきた、実技講習の試験課題を3分以内に採点上は減点ゼロを達成できた。外見上は講師らしくなってきた…外見上は。

6月は、講師としての心構えの教養を行った。
補完式諮問、論文諮問、面接諮問の3つの方式を所長の越谷が、嶋田、古村、中畑、古池、谷本を対象に週に1度行い、80点を合格ラインとして講師としての資質を向上を図った。

教育関連事業に関わったことのない我々には「講師」に求められる資質というものがどんなものか、その知識を持ち合わせていなかった。

・良識ある社会人
・模範オペレーターであること
・言葉遣い
・身だしなみ
・受講生の立場に立った接遇
・研究と練磨
・自己研鑽

これらの講義を越谷が行い、講師の5名が受講する。
5日間講義を受けたのちに、翌週に諮問を解くこととなったのだが、これがなかなかに難しい。

補完式諮問は5名全員80点ラインをクリアできた。
論文諮問は嶋田と谷本は合格できたが、古村、中畑、古池は不合格。
面接諮問は全員不合格、基本的な「言葉遣い」「受講生の立場に立った接遇」に関して全員が不合格だったのだ。

論文諮問の課題は「講師としての心構えについて列挙し内容を述べよ」というもので、要は所長の越谷の教養した内容を覚え自分なりに咀嚼しているかどうかを試されているのだ。

古村は「言葉遣い」「身だしなみ」の2項目について内容の解釈が浅かった。

中畑は「良識ある社会人」「自己研鑽」の2項目について記述できていなかった。

古池は全体の項目について記述内容が浅く咀嚼ができていないことがうかがえた。

故に80点ラインを超えられなかったのであった。当然、所長からの再教養が実施され論文諮問の再諮問を受けることとなったのは言うまでもない。

問題なのは、面接諮問が「言葉遣い」「受講生の立場に立った接遇」について全員不合格であったことである。

面接諮問は一人ずつ行われた。面接は入室時の所作から始まり、あいさつ、質問、返答、を繰り返し、面接のまとめを告げられ、退室の流れとなっていた。

質問内容は、受講生から苦情があった場合にどのように対処するのかについて、モデルケースを幾つか用意されていて、所長の越谷が受講者役となり進行する形であった。

講習の問い合わせや受付、講習の実施までを担当する講師は、「苦情処理スキル」が無ければ円滑な業務を行うことは不可能だろう。
所長の越谷は元地方公務員であったことから、数々の苦情に出くわしてきた。

そこから得た学びは「言葉遣い」「身だしなみ」、そこにつながる「礼節」ある態度で真摯に苦情に対応することの大切さであり、そこを面接時に見極めていたのだ。

●面接対策


面接諮問が終了した後、とある日に講師メンバー5名をリーダーの嶋田が招集した。
とある居酒屋で一杯やりながら対策を練ろうというのである。

(嶋田リーダー)「面接諮問、所長の採点厳しかったな…。」

(古池)「なんなんですかね、あの質問は。」

(中畑)「質問に答えても表情一つ変わらないとは。」

(嶋田リーダー)「普段の仕事で、あんなことを質問されることないからな!」

普段は冷静なリーダーが、やや興奮気味に声を発した、触発されるかのように講師たちの感想が続く

(古村)「自分は『受講生が途中で帰ってしまったらどうするか』でしたよ。」

(古池)「講習中に帰っちゃう人なんているんですかね…」

(谷本)「自分は『講習人数が規定より多く、受講できない人が怒り出したらどうするか』でした、正直に技能講習規定で定められているから受講できないことを伝えるって言いました。」

(嶋田リーダー)「オーバーブッキングやな、倉庫やったら棚替えすれば済むがな。」

(古村)「ええ!そんなこと起きないでしょ普通に考えて。」

(嶋田リーダー)「考えられないケースを質問してきてる。『講習中に居眠りしている人への注意の仕方』って訊かれたぞ。」

(古池)「何だか中学生を教えているような気がしてきた。」

(中畑)「仕事中に居眠りしたら、無茶苦茶大声で名前を呼ばれるよな!」

(嶋田リーダー)「中畑、仕事中に居眠りするんだな…」

(古村)「荷待ち中に立ったまま寝ることあります。」

(古池)「まじかよ!」

嶋田が我に返ったような表情をした。何かに気づいたかのようだった。また、お得意のフリートークからの問題解決対策が始まる。

(嶋田リーダー)「谷本、居眠りしている人の起こし方ってどうする?」

(谷本)「耳元で小声で、名前を呼ぶかな…嫁さんにはそうしています」

(嶋田リーダー)「お前は優しいな、自分なら頭を小突くかな」

(谷本)「面接で、そうお答えになったんですか?」

(嶋田リーダー)「そう答えた、その時に所長の顔が曇ったな」

(古村)「そこに何かあるってことですか」

(嶋田リーダー)「そう言うことだ。我々は社員に仕事をさせるんじゃなく、一般客を相手に講習を受けてもらうんだ。受講生を怒らせない起こし方を考えてみてくれ。」

3人集まれば文殊の知恵とは良く言ったもので、5人集まって知恵を出し合った。居眠りしている受講生の立場になって考えると、各々に気づきが生まれはじめた。

(古村)「退屈だから居眠りするのかもしれませんね。」

(古池)「3交代制で働いていて、疲れているのかもしれません。」

(中畑)「『◯◯さん、お疲れの様ですが、頑張りましょう』とか励ますのもいいかも。」

(嶋田)「励ますのはいいことだ。中卒で文章を読むのが苦手な人も居るかもしれないな。」

(谷本)「話し方が単調だから、お経を聴いてるみたいな感じになったのかも。」

(嶋田)「教本で説明するだけでなく、ホワイトボードに解説をするのはどうかな。」

(古池)「それ、わかる気がする。自分、文章を読むと眠たくなります。」

(古村)「嫌々、受講している人も居るかもしれないですね。」

(嶋田)「興味を持ってもらう努力が必要ってことだな。」

(中畑)「楽しんでもらうように、楽し気に話すと興味を持ってもらえるかもしれない。」

(谷本)「それ、大事ですね。大学の講義でも、楽しそうに話す教授のほうが居眠りしないです。『立て板に水』のような話し方の教授は人気が無かったです。」

フォークリフト運転技能講習は1日8時間が基本で、長時間受講してもらわなければならない。
運転免許の所持や小型フォークリフトの経験有無などで5日間、4日間、3日間、2日間の4パターンあり、一般的には普通免許所持の4日間が多くなると予測された。

簡単に言えば、32時間のお付き合いということになる。32時間は苦行にも思える、如何に飽きさせないか受講者の立場になって、本気で考えておかないと講習が「ぐだぐだ」になりそうだ。

(谷本)「4日間の32時間、居眠りさせない講習の方法を、あらためて考えて面接諮問に備えるのがいいと思います。」

(嶋田)「4日間、各日程ごとに講師は交代するから、格差があると問題だから、谷本の言うことは正しいな。明日、それぞれ面接の課題を書き出して、どうすればいいかを出来るだけ沢山の意見を提出してくれ。受講者の立場に立った視点で考えてくれ。みんな、いいかな?」

(古村)「わかりました。」

(中畑)「受講者の立場ですね。」

(古池)「次の面接には80点取らないと。」

(谷本)「話し方を考えないと…」

(嶋田)「次の面接では所長の表情にも気配りして、楽しそうに話せるようにならないとな。頑張ろう。」

あらためて乾杯をして、飲み会(対策会)は終了するのだった。

●再チャレンジ

翌日、それぞれの面接課題を持ち寄り受講生の立場になって、どんな人が、どんな理由で、どんな履歴を持って、どんな体調で、どんな仕事をしていてフォークリフト運転技能講習を受講しているのかを想定した。

リーダーの嶋田がそれらを整理した資料を作成した。
具体的な人物像を描きながら様々な理由を持っているかなど、ケーススタディ方式で、面接課題への回答の内容を仕分けして整理したものになっていた。
想定資料は所長の越谷へも提出されていた。越谷はその資料を頷きながら目を通す。
その週に再度論文と面接の諮問を行うことが告げられた。

補完式諮問は全員が合格できていたので省略となった。
所長の越谷には、講師全員に身につけさせたい「言葉遣い」「身だしなみ」、そこにつながる「礼節」ある態度で、真摯に苦情に対応することの大切さへのこだわりがあった。
嶋田から提出された想定資料から、それらが足りないところがあると感じたのだ。
論文諮問と面接諮問は、前回と同じ内容が出題された。

論文諮問の結果について越谷から各講師に講評がされた。

・古池の場合…

(越谷)「前回は全体的に記述内容が浅かったが、今回は良く書けていましたね。」

(古池)「ありがとうございます!」

(越谷)「受講生の立場に立った接遇の項目が、特に良く書けていましたよ。どんな動機で受講しに来たかを考え話しかけ興味を持ってもらうように明るく話す、というところは講習をするうえで大切なことですね。忘れず講習に努めてください。」

(古池)「はい!」

(越谷)「古池さんは倉庫業からの出向でしたね。倉庫内では器材の騒音で話が聴き取りにくいと思いますが、講習でもフォークリフトのエンジン音で話が聞き取りにくいから、経験を生かしてください。ただし、決して怒鳴ってはいけません。声を張るように出して、感情任せに言葉を出さないことが大切ですよ。」

(古池)「あはは、所長はよく知ってますね。怒鳴り癖があるんで、気をつけます。」

・古村の場合…

(越谷)「今回の論文諮問は、どうでしたか?」

(古村)「はい、『言葉遣い』と『身だしなみ』を意識して書きました。丁寧な言葉遣いをするだけでなく敬語を身に着けて受講者によっては機嫌の悪い場合に謙譲語を使います。身だしなみは制服を毎回洗濯して清潔なものを身に着け、第一印象を良くします。」

(越谷)「そうですね、言葉遣いについては受講者の立場に立って適切に使い分けることが大事ですね。ところで、今の身だしなみは印象のいいものかな?第2ボタンまで外れていて襟がだらしないですよ?」

(古村)「ああ!つい倉庫内が暑いので第2ボタンまで外す癖が付いてしまって、すみません。」

(越谷)「今の応答では、受講者が納得するかな?常に身だしなみには気を付けるように。気を付けて態度をあらためて習慣化することで良い癖が付くものですよ。」

(古村)「はい、今後気を付けて良い癖になるように気をつけます。」

・中畑の場合…

(越谷)「中畑さんは倉庫業の最年長ですね。『良識ある社会人』『自己研鑽』についてはどうでしょうか。論文内容にまだ理解が足りないように思ったのですが。緊張して十分に実力が発揮できなかったですか?」

(中畑)「仕事ではめったに論文を見たり書いたりしたこともないですからね~。思ってることがうまく書けなかった感じですかね。」

(越谷)「思ってることがうまく書けなかった…」

(中畑)「良識ある社会人については、仕事以外にも興味を持って情報を収集するとか、時事記事に目を通して世間を広く知っておくとか、法令については遵守して私用中の行動に関して責任を持って違法な行為はしないとか…」

(越谷)「そうですね。違法な行為は良識に欠けます。個人情報の漏えいには気を付けてください。」

(中畑)「はい、個人情報を外部に漏らさないように気をつけます。
自己研鑽については、講習に関する知識を深めること、フォークリフトの知識を深めること、どの様なフォークリフトがどの様に使われているかを知ること。」

(越谷)「講習に関する知識を深める…中畑さん、講習で使う予定の教本はしっかりと目を通して理解していますか?」

(中畑)「いやー老眼がひどくて、小さな文字を見るのが苦手で…教本をそこまでしっかりと読めてはいないです。」

(越谷)「担当する実技の走行の仕方や荷役の仕方だけでも、まずは読んでおいてください。」

(中畑)「はあ、努力します。」

・谷本の場合…

(越谷)「前回の論文内容も良かったですが、今回の論文は更に『興味を持ってもらえる話し方』を言葉遣いの項目で掘り下げて書いていたところが良かったですね。」

(谷本)「はい!有難うございます。」

(越谷)「なぜ、言葉遣いに着目したんですか?」

(谷本)「これまでの言葉遣いは社内では通用しますが、講習となると受講者には通用しないんじゃないかと思ったので。」

(越谷)「丁寧語、尊敬語、謙譲語の違いは具体的に書けていましたが、社内ではあまり使わないね、いいところに目を付けたと思います。特に谷本君には座学を担当してもらう関係で『話す』ことにこだわって考えてもらえて、人選した甲斐があったと思ってるよ。」

(谷本)「今の段階で気づいて良かったと思っています。」

(越谷)「前職で同じような教養を受けたことがあるのかな?」

(谷本)「言葉遣いと挨拶については入社時に外部講師が来られてレクチャーを受けていました。でも、社内では滅多に口にしない尊敬語や謙譲語は忘れてしまってます。」

(越谷)「では、挨拶と尊敬語、謙譲語の勉強をしておいてください。」

(谷本)「はい、分かりました。」
(本来は「はい、承知致しました。」と言うべきだった)

・嶋田の場合…

(越谷)「嶋田さん、リーダーとしてメンバーを引っ張ってくれているようだね。」

(嶋田)「はい有難うございます、自分だけが運送業からの出向で運転者教育にはうるさいので、そのせいですかね。」

(越谷)「確か、運行管理者だったかな、4月から6月までのスタートアップに大分時間が割かれたと思うけど、運行シフトのほうは大丈夫?」

(嶋田)「4月に新任の運行管理者が選任されたので、シフトは何とかなってます。」

(越谷)「それなら良かった。率直に答えてほしいんだが、7月からの講習は大丈夫そうかな?」

(嶋田)「谷本君が結構いい意見を出してくれて、形なりに講習は出来そうです。」

(越谷)「そうか、それならいいんだが…」

(嶋田)「苦情処理について心配ですか?」

(越谷)「さすがに見抜かれていたか。今後必ず出てくるから、その時は宜しく頼むよ。」

(嶋田)「その時は、越谷所長のお力を頼りにしています。」

(越谷)「ああ、分かっているよ。」

論文の再諮問については全員合格点を取り、越谷所長からの各メンバーへの講評が行われたことで、潜在する問題点も見えてきたが、まず実際に講習実施を体験することが講師陣の成長につながると所長の判断がなされた。

社長も了解していることだが、100%の準備をしていても必ずどこかに欠陥があり、問題が発生する。

こういった新規事業のスタートは早く実際の事業化をすべきで、そこには前述の欠陥ありきの精神が求められ、改善することがより良い事業につながる。
経営とはそういうものだと後々になって谷本は知る。

面接の再諮問については各々同じ内容を掘り下げ咀嚼して、受講者への接し方を意識したロールプレイが功を奏した。
所長の越谷は、各々の講師の表情やしぐさ言葉遣いに変化が見られ、会社員から講師への意識改革が進んでいることを評価して、面接諮問全員合格とした。

特に、谷本の面接時の話し方や受講者役の越谷への明るく話しかける態度を高く評価した。

6月の中旬までに、講師陣の講師としての自覚を促した教養がほぼ完了したことで、労働局の現地調査に望むこととなる。やれることはやった…。

●トライ&エラー

平成10年6月にスタートアップが完了した。
6月の中旬に管轄の労働局の職員による現地調査では実際の講習を規定通りに行えるだけの設備があるか、講師についての資格や教養は行っているか、帳票はそろっているか等を調査された。

案の定、講師のうちから指名して聞き取り調査も行われたのだが、白羽の矢は最年長の中畑和也と最年少の谷本修平に当たった。

立ち会った社長の誉田一弘はニコニコ笑顔、所長の越谷俊憲は無表情、リーダーの嶋田英樹は青褪めていた。

受講生役を中畑和也が、講師役を谷本修平が、実際にフォークリフトを運転して採点する模擬実技試験を実施する。
その後に、それぞれに聴き取りが行われる。

嶋田を中心として作成した技能講習マニュアル通り、中畑は作業用安全ヘルメットをかぶり軍手をはめてフォークリフトを一周し、フォークリフトに乗り込んだ。

谷本は、成績表に名前を記入し準備に入る。

中畑がフォークリフトのエンジンをスタートし、所定の状態にフォークリフトを操作した後に右手を変速レバーに置いて走行を始めた。
その後、順調に積荷を取り下ろしコースを移動して積み付け場所に荷を積みつけて、バックでゴール位置に進んだ。

谷本はスタート、積荷の扱い、走行の状態についてフォークリフトに追従しながら成績表所定のチェックを確認する。

ゴール位置で中畑がフォークリフトを所定の状態にした後にエンジンを止め、谷本は開始時刻と終了時刻を記録する。

これで模擬実技試験は終了。
労働局の職員からの聞き取り調査が始まった。

(職員A)「中畑さん、フォークリフトの経験は何年ですか?」

(中畑)「かれこれ20年になります。」

(職員A)「20年…大ベテランですね。今履いている靴は何ですか?」

(中畑)「運動靴です。」

(職員A)「運動靴ですか…講習では安全靴を履いてください。」

(職員B)「谷本さん、入社して3カ月目ですね。講習の内容はしっかり頭に入っていますか?」

(谷本)「所長の越谷とともに認可申請の書類を作成したりして、座学講習の最後に使用する学科試験問題は私が作成しましたので、講習内容はしっかり頭に入ってます。」

(職員B)「では…中畑さんの技能で減点はありますか?」

(谷本)「減点はありません。」

(職員B)「変速レバーと前後進レバーに右手が常に置いて操作していましたが、問題はありませんか?」

(谷本)「…問題はないです。減点にはなりません。」

(職員B)「そうですね。」

リーダーの嶋田の顔は引きつっていたが、社長の誉田は終始ニコニコ笑顔で、所長の越谷は相変わらず無表情であった。中畑と谷本は緊張のあまり、顔が火照っていた。

靴を指摘されるとは思ってもみなかったので、考えられないミスだった。
倉庫業では全員が安全靴を履くのが当たり前であり、現地調査の時に限って運動靴を履いているとは夢にも思わなかった。

(これは後日談だが、中畑は身なりを気にしていて、安全靴が痛んでいたので印象が悪くなると考え、この日のために新しい運動靴を履いてきていたのだった。)

この指摘で認可が下りないとは思わないが印象は悪い、他にも何かミスをしている可能性を疑われるに違いない。

案の定、帳票確認の際に業務規程の内容について表記を変える点や、個人情報の取り扱いに関して追加の指示があったが、その他はスムーズに進行して2時間ほどで終了した。

指摘のあった安全靴の件と業務規程の追加指示の件は即刻対応し、労働局に報告のため社長と所長が訪問すると、その場で登録教習機関の認可が下り、無事に基安番号を取得したのであった。

早期認可については、講習認可申請準備をしている間に、労働局そして社長と所長の間で、認可についての内諾の話が進んでいたのかもしれない。
所長の越谷が労働局に何度も足を運んでいた成果の現れと思われ、技能講習事業の立上げに際して、労働局から何らかのアドバイスを所長が受けていたのだろう。

そう考えると、補完式諮問、論文諮問や面接諮問への所長の「こだわり」が見て取れてくる。
諮問結果は労働局に逐一報告していたに違いない。

所長が直接諮問する関りを持ち、技能講習所の信頼度や実行力について労働局への印象を良好にして、短期間での登録講習機関の認可を得ようとする社長の指示に応えてきたのだろう。

内諾についての憶測は、谷本にとって今後の仕事をするうえで、大きな意味を持った。
行政官庁には逐一進捗状況を伝えることで、好印象を与え信頼を得ることができるものだと…。
兎にも角にも労働局から正式な認可が下りたことで、誉田技能講習所がフォークリフト運転技能講習を正規に行え、念願のスタートを切ることができる。

ここからが講習への本番戦である。
管轄の労働局の認可を受けることが、まず第一目標だった。

今後は、7月の中旬に第一回目の計画、グループ会社の社員への講習が待っている。
さらなる拡大計画に向けた営業活動も始まっていく…。

次の記事【気がついたら病んでいた2(情熱)】につづく


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