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気がついたら病んでいた 3(成長1)


●はじまり

谷本修平(主人公)は、とある鉄工所の設計課に勤務していたが、3年間経った時に設計課ではユーザーと接する機会もなく、自分の仕事の成果を外部から評価してもらえなかった。
鉄工所の設計課での仕事に遣り甲斐を見失い「ありがとう」と言われる仕事に就きたいと転職を決めた。

谷本修平は、外部の人と接触し評価してもらえるであろう、誉田技能講習所に平成10年4月に中途採用された。
ここから人生の大きな転換が始まる。

谷本修平の辿った、ゼロからの始動、仕事への情熱、講師としての成長、やがて体調を崩していく姿を追いかけた物語である。

先行記事【気がついたら病んでいた(情熱)】のあらすじ

谷本が作成した資料を使っての営業活動が始まった。
営業を担当したのは所長の越谷俊憲と谷本修平だ。

グループ会社への営業活動の成果として、7月下旬の初回講習は定員10人のところ5人の申込みしか得られなかった。

現実は厳しいことを痛感しながらも、谷本は座学講習で受講者に親切丁寧に興味を持ってもらえる工夫を凝らすのだった。

中畑、古本、古池は各日程をロールプレイでの体験や実技講習マニュアル通りに、親切丁寧にやり遂げた。

リーダーの嶋田は、実技試験の採点役を買って出て、リーダーとしてのけじめをつけるのだった。

一方で、フォークリフト運転技能講習の初回講習を前にして、社長の誉田一弘はさらなる営業活動を、所長の越谷と谷本に指示を出すのであった。

営業先の関連事業所の風当たりは強く、高等学校の反応が薄い中にもかかわらず、感触を得た谷本がT高等学校の進路指導O先生を訪問した。
そして、幸運にもT高等学校から講習申込みを受けたのであった。

●高校生への技能講習

T高等学校の8月第1週のフォークリフト運転技能講習計画は、普通免許を保持していない条件での計画となる。

日数は5日間。

その内2日間は座学講習となり残る、3日間は実技講習。
総時間数は37時間、必要な講師人数は本来5名のはずの計画だ。

だが、8月は講師の出向元である誉田運輸と誉田倉庫が繁忙のために、所長の越谷は出向依頼をかけたが断られてしまった。

急な計画だったため、出向元のシフト調整ができないという理由であった。

そうなると、実施できる講師は谷本修平ただ一人。

(越谷)「谷本君、T高等学校の講習は講師の都合がつかなくてね。
君一人で全日程5日間を講習してもらう。
それと、修了試験後に修了証を発行してもらうことになる。
君が獲得してきた講習だから、1つの経験としてやってもらわねばならない。
いいね?」

(谷本)「全日程ですか!?」

(越谷)「受講生は全日程を受講するのだから、無理なことを言っているつもりじゃないんだが?」

少しの間、谷本は自問自答していた。
果たして、5日間の講習を全て通しで実施できるのだろうか、前例がないことだったし、8月の猛暑の中で実技講習を3日間立ちっぱなしで、こなす自信が無かった。
しかし、T高等学校の案件は、確かに自分一人で獲得してきた。

(谷本)「そう言われると、反論できませんね。
自分が取ってきたT高等学校の講習ですもんね。
全力でやってみます。」

(越谷)「では、計画書の講師を全て谷本君として労働局に届け出しておくよ。」

上手く丸め込まれた気がする。
しかし、事情を知っているだけに誉田技能講習所専属の講師として、今回の講習は何としてもやり遂げねばならないだろう。

全日程の講習をこなすのは、通常の4日間でも相当な熱意と体力が必要だ。
そして、評判が良ければ、T高等学校のリピートも期待できる。

誉田技能講習所の講習力を見せる正念場として、覚悟を決めた谷本だった。

●高校生への技能講習(座学)

・T高等学校講習:1日目(座学)

申込の人数は6名、うち男子5名、女子1名を事前に確認していた。
受け付け時の確認などは、所長の越谷が行いガイダンスを行った。

1日目の座学は4時間を実施した。
前回の経験を生かして、事前に伝えておくことやホワイトボードに描画して説明することを考えておいたので、スムーズな講習が行えた。

今回の講習からは、科目ごとに練習問題を用意しておいた。
各科目の終わりに練習問題を配布し○✕式で回答してもらい、説明しながら正答を伝え正解できたかどうかによって、生徒自身に気づきを促すという戦略である。

これが功を奏し、生徒たちの目が真剣な眼差しに変化した。

・T高等学校講習:2日目(座学)

受講者6名は定刻までに入室し、制服姿で雑談してリラックスしているようだ。
各自の机上には筆記具、教本と1日目に配布した練習問題も用意してある。

(谷本)『さすがは高校生だ、躾されてるな』
谷本は内心驚いていた。
7月に行ったグループ会社社員への講習と雰囲気がまるで違う。
学ぼうとする姿勢が見て取れる。

(谷本)「おはようございます。」

(生徒一同)「おはようございます!」

元気がいい!

(谷本)「2日目は3科目実施します。
学科試験もありますので、しっかり聞いてください。」

(生徒一同)「はい!」

男子生徒は、日焼けしていて、とにかく元気がいい。
女子生徒は、やや日焼けしているものの、女子とわかる清潔な髪形をしている。

(男子生徒A)「谷本先生!昨日の練習問題1の3の説明を、もう一度お願いします!」

講習時間前だというのに、質問が飛んできた。

(谷本)「ガソリンエンジンの作動原理は4行程です。
ピストンが下がるときに空気とガソリンの混合ガスを吸入し、
ピストンが上昇して圧縮し、
点火プラグが火花を飛ばして混合ガスが燃焼し、
ピストンが下降してから再び上昇するときに燃焼ガスを排気させます。」

(女子生徒)「どのページに説明されていますか?お願いします。」

(谷本)「62ページに書いてあります。
アンダーラインを引いてもらった箇所ですよ。」

(女子生徒)「あ!有難うございます。」

(男子生徒A)「ここ、難しかったんです。」

(谷本)「今の説明で、大丈夫ですか?」

(男子生徒A)「はい!有難うございます。」

(谷本)『ああ!これだ!この言葉を欲しかったんだ』
転職を決めた「ありがとう」の言葉をかけてもらえる仕事に就いた実感に、谷本は浸っていた。
ようやく、欲していた言葉を聞けた谷本は更に丁寧で親切で熱意のある講習を開始するのだった。

前回の講習で気づいたフォークリフトの模型を使った説明も行う。

フォークリフトの安定性の説明や、積荷とフォークリフトに働く慣性について、模型があると説明がしやすい。
模型は生徒たちに順番に渡して、フォークリフトの動きのイメージをつかませるのに有効だった。

練習問題では活発な質問が飛び交い、生徒たちの真剣な受講態度に驚くばかりだった。
講習はいい雰囲気で実施でき、講習科目ごとの時間を守れた。

学科試験を行った結果、80%~95%の高い正答率で見事に全員が合格できた。

(谷本)「学科試験は、全員合格です!」

(生徒一同)「やったー!」

(谷本)「よく頑張りましたね。」

(男子生徒B)「100点取った人はいますか?」

(谷本)「一人が惜しくも95点でした、でもかなりの高得点です。」

(男子生徒C)「誰が95点取ったの?」

(谷本)「プライバシーにかかわることなので、ご自身の得点だけならお教えしますよ。」

と言ったとたん、押し寄せる生徒たち。
順番に、個別の点数を告げる谷本は嬉しかった。
前回グループ会社社員への講習との反応の違いに大いに感激した。

次は肝心の実技講習である。

用意するものなどの案内が済んだ後、明日からの実技講習に備えて、谷本は実技講習マニュアルを確認するのだった。


●高校生への技能講習(実技その1)

・T高等学校講習:3日目(実技)
3日目からは1日に8時間の実技講習だ。
谷本にとって、実技講習実施は初体験となる。
リーダーの嶋田が作成した、実技講習マニュアルを事前に確認していたが、すっぽり抜け落ちていることがある。

自動車運転経験ありきの前提で作られた実技講習マニュアルは、荷扱いの方法を中心に作成されていた。

ところが、高校生は自動車を運転したことが無い。

運転免許を持たない高校生には、車の運転方法から教えて、次に荷扱いの方法へと進む必要がある。

ハンドルの回し方
アクセルの踏み方
ブレーキの踏み方
クラッチペダルの踏み方と戻し方
変速操作のタイミング
前後進レバーの選択

など車両を動かす方法を、優先して習得させることが重要なのである。

まずは『発進と停止』の練習からだ。

『発進』の操作方法から始める。
・駐車ブレーキをかけた状態で、左足でクラッチペダルをいっぱいまで踏む
・キーを右に回してエンジンを始動する
・右手で前後進レバーを前進に入れる
・右手で変速レバーを一速に入れる
・右足でアクセルペダルを半分くらいまで踏む
・左手で駐車ブレーキを解除して
・左手はすぐにハンドルノブを握る
・クラッチペダルを半分くらい戻す
・進み始めたら、クラッチペダルを完全に戻す

発進出来たら次は『停止』の操作に移る。
・右足でブレーキペダルを徐々に踏み
・速度が落ちたら左足でクラッチペダルをいっぱいまで踏む
・完全に停止したら左手で駐車ブレーキをかける
・右手で前後進レバーを中立にする
・クラッチペダルを戻してキーを左に回してエンジンを止める

この発進と停止の練習では、男子生徒は野太い声で
「おお!」

女子生徒は
「きゃー!動いたー」

などの反応を示しながら楽しんでいた。

この操作の練習だけで2時間を要した。
発進と停止は運転の基本、子どものころ初めて自転車に乗ったことを思い出せばいい。
一番時間のかかる基本の操作なのだから、おろそかにはできない。

次は後進(バック)での運転操作の練習だ。

この操作は、操作としては前後進レバーを『後進』にしてやればいいだけだが、運転姿勢が異なってくる。

後ろを振り返って進まなければならない。
これは勇気が必要な姿勢だ。

体を捻って後ろを振り向くために、操作するハンドルやレバーから目線を外してペダル操作をする。
これは、前進運転の難しさの比ではない。

この操作の練習にも2時間を要した。

ここで昼食休憩に入る。

(谷本)「みんな、発進と停止は身についてきたかな?」

(男子生徒A)「バッチリです。」

(男子生徒E)「バック操作が難しいです。」

(女子生徒)「ちょっと自信が無いです。」

(谷本)「そうかー。
午後は曲がる練習に入るから、昼食休憩中にイメージトレーニングをしておいてください。」

(生徒一同)「はい。」

谷本の目には、およそ男子生徒は運転の勘が良くて技能の習得が早く良好だが、女子生徒はやや習得状況が悪く見えた。
根気よく見守っていくしかない。
たった1日で、運転免許所持者と同じようにスイスイ走れるわけがないのだ。

午後の実技講習では、男子はメキメキと上達する。
運転を楽しんでいる生徒さえいた。

しかし、女子生徒は発進と停止につまづいている。
何が問題なのかをよく観察してみた。

女子生徒が乗車したときに、座席調節をせずに操作の練習をしていることに気がついた。

(谷本)「〇〇さん、乗車したときに座席の調節をしてみてください。」

(女子生徒)「座席って調節できるんですか。」

(谷本)「そう、前後に調節できるんだ。
午前中に説明していなかったね。
申し訳ない。」

(女子生徒)「ペダルに足が届きにくいって思ってたんです。」

(谷本)「足が届きにくかったんですね。
座席を一杯まで前に移動させてみてください。」

(女子生徒)「わあ、ちゃんとペダルが踏めます!」

(谷本)「(男子生徒にも伝えなくちゃな。)」

この気づきは、谷本にとって良い経験だった。
性差による体格の違いを考えて実技講習を行うことは、良い講習を行うポイントになることが分かった。
ここから、生徒の実技講習の習得状況が飛躍的にアップする。


●高校生への技能講習(実技その2)


・T高等学校講習:4・5日目(実技)
4日目に入ると、生徒たちは谷本に馴染んできたのか、とても気さくに話しかけてきた。

「どうしたらうまく曲がれるのか」

「どこに視点を置いて走ればいいか」

「ハンドル操作はどちらに回せばどう曲がるのか」

など、実技の待機中に各々に質問を投げかけてきた。

4日目は、実際の試験コースの走行を中心に講習を進めた。
狭い通路幅に加えて、積み下ろし場所での前進後進とハンドルの切り返しが加わり、難易度がかなり上がる。

そして、8月の太陽が容赦なく降り注ぐ中、気温と湿度も高い。
谷本は屋外に出ずっぱりで、3日目の時点でかなりの疲労感を感じていた。

本来、こういった事態を考慮して、講師のシフトは1日ごとに交代することにしていたのだが、所長のワンオペレーション要求に応えるためにも、ここは踏ん張らねばならない。

生徒たちの体調管理にも気を配らねばならない。
疲労は講習中のイージーミス(ヒューマンエラー)にもつながりケガをしかねない。
谷本は、生徒たちに待機中に水分補給をするように、ことあるごとに指示を出した。

4日目の終わりごろには、生徒たちの走行レベルが見違えるように成長していた。

5日目の講習は、走行に加えて荷役操作の講習となる。
実際にパレットに1t錘を載せて走行すると、フォークリフトの視界が悪くなって操作が難しくなる。
錘の重さが加わることで、車体に揺れが生じ、さらにハンドルが軽くなり急ハンドル操作となりがちだ。

谷本は、講習前にこの点を生徒たちに伝えて、慎重な運転を心掛けるようにアドバイスを行った。
特に男子生徒は運転操作が上手いだけに、調子に乗って無茶をする可能性がある。
その点女子生徒は、最初から慎重な態度だったので信頼できる。

5日目の午前中に谷本は異変を感じていた。
熱中症である。

女子生徒の顔色が赤い。
普段は屋外で3日間もの間過ごすことは無いだろう。
日陰となるテント下で休んでいても、熱気は襲ってくる。

(谷本)「〇〇さん、顔色が赤いけれど、頭がボーっとしたりしてないですか?」

(女子生徒)「私、太陽に弱いので、もしかしたら…そうかもしれません。」

(男子生徒D)「〇〇さん、部活が放送部だからな。」

やはり、熱中症になりかけている。

男子生徒に予備のタオルを持っていないか呼びかけ、冷却スプレーでタオルを冷やし、女子生徒の首元に巻きつけるように頼んだ。
この対応が、功を奏して女子生徒の体調は悪化せず、実技講習終了まで辿り着くことができた。

(谷本)「これで、実技講習は終了です。
引き続いて実技試験を行います。
試験の合格基準は70点以上の成績ですので、5日間の成果を発揮してください。
試験中は私からの指示は行いません。
名前を呼ばれたら、フォークリフトの周りを確認して乗車し、運転を始めてください。
次番者はゴール地点で待機しておいてください。」

(生徒一同)「はい。」

実技試験が始まった。
5日間の成果を自分の目で見るのは初めての体験だ。
生徒よりも、谷本自身のほうが緊張していた。

1人目:92点合格
2人目:98点合格
3人目:88点合格
4人目:86点合格
5人目:90点合格
6人目:76点合格

谷本は内心「やったなーみんな!」と叫びながらも、冷静さを保ちながら採点を終えた。
谷本は浮き浮きしながら修了証発行の準備に入る。

6名の優秀な生徒たちには教室で控えてもらっている。
谷本は心を落ち着けながら教室に入室した。

(谷本)「実技試験結果を発表します。
全員合格です!おめでとう!」

(男子生徒一同)「やったー!有難うございました!」

(谷本)「こちらこそ、5日間の長時間、頑張ってくれて有難うございました。」

谷本から、それぞれの生徒に修了証を手渡し、受領印を講習記録簿に押してもらい、修了証の扱い等の説明後、解散となった。
谷本が1階ロビーに降りたとき、女子生徒が一人残っていた。

(谷本)「〇〇さん、どうしたの?お迎え待ちかな?」

(女子生徒)「違うんです。
本当に私…合格で良いんですか?」

(谷本)「はい!合格できましたよ。」

女子生徒は涙を浮かべていた。

(谷本)「暑い中で、よく頑張りましたね。」

(女子生徒)「谷本先生には、講習だけじゃなく、私の体調にも気を遣ってくれて…。」

(谷本)「いえいえ、それが講師の使命ですから。」

(女子生徒)「本当に、有難うございました!」

谷本にとって、女子生徒の合格と「有難う」の言葉が何よりもの報いであった。

加えて、自動車運転の経験が無い受講者全員が無事に合格できたこと、谷本自身が5日間を通じて生徒たちに向き合って学んだことは、かけがえのない財産となった。

それにしても、講習を5日間通しで実施するのはかなりの疲労を伴い、休日の2日間は寝込んでしまった谷本であった。
こうして、T高等学校のフォークリフト運転技能講習は全員無事修了証を獲得して幕を閉じたのだった。


続編「気がついたら病んでいた4(成長2)」に続く


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