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身体ごとの変容(その3) - 蝶を心に -

 変容について書いている途中で、たくさんのことが起きて、変容という文字とともに、それらを経験してきた1ヶ月でした。

 たくさんのことが起きて、というのは、もちろん、心の中でのことです。続け様の訃報に接して心に波が立つということも含めて。書籍の中の一行や届いたメールの一言に心の扉がまたひとつ開く、という経験も含めて。

 扉が開くように感じるというのは、変容へのプロセスに違いないですが、サナギに大きな羽が出現して、蝶になって飛び立つような、華麗な変態とは違って、形として目に見えるものではありません。

(先日、ウクライナ人の友人と、変容ではなく、変態のほうについて話しました。ウクライナでも、子どもたちは網を持って蝶を追いかけたそうです。サナギを見つけて瓶に入れて大事に飼って、そこに大きな羽が生えてきたときは、飛び退いてしまったほど驚いた、と言っていました。わたしは、アゲハ蝶の千切れた片方の羽根があまりに綺麗で、そこに生命がないとは思えず、押し葉のようにして10年以上とっておいたことなど思い出しました。)
(そう言えばわたしは、あちこちの国の人たちと、網をかざして蝶を追いかけるとか、カブトムシや鈴虫、オタマジャクシを飼うとか、そういう子ども時代の話をずいぶんしてきたなということもまた、思い出しました。)
(ちなみに、今の東京・西新宿の都庁のあたり、それから今年解体される中野のサンプラザ周辺は、わたしの幼少時代はだだっ広い原っぱだったのです。父と一緒に、網や籠やオタマジャクシを運ぶ蓋つき容器を持ってよく出かけたものです。今は昔。)
(ウクライナに話を向けると、彼は、「ウクライナはしょっちゅう戦火のなかだからね。僕が生まれる前から、生まれてからもずっと、戦争しているようなものだ」と言います。イスラエルの友人たちも、「青春時代だってずっと戦時だった」と言います。)
(わたしの母も、「〇〇戦争とか、第二次世界大戦とか、あなたたちはあれを個別にそう呼ぶけど、あれは、ひと繋がりの、延々と続く戦争だった、とにかくずっと戦争だったの」と言います。)
(戦後に日本に生まれて『戦争を知らない子どもたち』を合唱し、今も生きているわたしたちは、暗い戦地の広がる地球上の、貴重な光明に守られていたのですね。包まれているから、その光輝のありがたさを感謝し、手放さずにいようとする意欲を持つことが難しかったのかも。でも、今なら。今こそ。強く思います。)

 今は昔、というその頃から、何度も変容経験を重ねてきたと言えますが、経験の仕方はそれぞれ違っていました。
 オートバイに乗り始めた時は「世界が完全に変わった」と感じ、また、「これこそが欲しかったものだ」と恍惚となったほどの解放感がありました。
 一方、ニューヨークに移住した時は、頭の中、心の中、身体の反応の仕方まで、すっかり組み替えられてしまい、しかも新しいシステムがすぐに定着するわけではないので、空気が重く(まるでジェリーみたい!)、歩くのも息をするのも軽やかにとはいきませんでした。ずっしりとくる一瞬一瞬を受け取る、それまでになかった日々を通して変容していきました。
 そしてもちろんA Course in Miracles がありますし、恋愛とか、その他さまざま、挙げていけばキリがありません。

 わたしがここで変容という言葉を使うのは、その都度、行動の仕方やライフスタイル、周囲の風景が一変してきたからです。それらが変わらなければ、本当に心の扉が開いたとは言えないでしょうから。

 そして、自分を“そこに投げ込む”“完全に開く”ということをするたびにそれは起きるし、それが起きるために何か特別なこと(オートバイの次はセスナの操縦?とか。さて次の恋のお相手は?とか。)は全く必要がない、関係がない、ということも実感するようになります。

 変容とは、ただ、あるがままの自分に戻ることですから、真の自己の声が聞こえるところ(状態)が、その道、変容経験の道です。

 そして、あるがままの自分に戻る道を歩き始めると、自分を何かに適合させて行かなければという無意味な思い込みを払拭できるので、それまで寄りかかっていた社会とか、制度とか、そういうものが、支えを失って勝手に姿を変えてくれる経験をするのです。
 戦争も、愛のない政策も、すべては、皆がそこに寄りかかり、そこに自分を合わせようと頑張ってきた、そのエネルギーを吸い取って行われていることです。
 だから、変容して、それらが姿を変えるところを目撃したいですよね。

「一冊の本に人生を丸ごと変えてしまう力があることを、人は理解していない」
 
 そう言ったのはマルコムXですが、本だけでなく、音楽も、映画も、人も、ある一瞬の風景も、その力があります。力はどこにでもある。それこそが、神はどこにでもいる、という意味です。

「人生が丸ごと変わってしまって本望」と言えるかどうか?
  その力を受け取れるかどうか?

 問いはそれだけだと思います。
 ありのままの自分に戻りたい? 本当に? そういう問いです。

 わたしは今、蝶を追いかける風景を、取り戻したいと願っています。世界中の子どもたちが、安心して走り回ったり、サナギを愛おしく見守ったりできる世界を見たい、自分の心にあの時の蝶を取り戻したい、いいえ、あの時の蝶に、自分が戻っていきたいと思っています。

 バタフライ・エフェクト、という言葉を皆が口にしますが、あの、きれいな蝶たちを、そのようなコンセプトの中にだけ閉じ込めてしまう代わりに、その羽の動きの優雅さに見惚れたいと思うのです。

 あの蝶たちを、心の中にいつも住まわせ、のびのびと、ヒラヒラと飛んでいるのを感じていたいです。
 蝶のための各種の花を咲かせていたいです。

 ・・・・・・蝶のことを考えていたら、さっそく来てくれましたよ。冒頭写真の蝶が。例年なら厳寒のニューヨークの2月半ば、急に暖かくなった昨日のお昼前です。玄関を出たら足元に。ふふふ。こういうことです。

 


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