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ささやかだけど、とてつもないこと。(その1)

 横尾忠則氏が、(長年のご友人、三宅一生さんの他界に際し)「死ぬために生まれてくるこの理不尽さにどう対峙すればいいんでしょうね」とツイートされていました。

 ほんとうに。何はなくともまず、この人生というものの理不尽さに “目覚めていたい”と思っています。

 私たちは、日々、あれこれの理不尽さに直面して、動揺したり、あわてて奔走したり悲嘆にくれたりしがちですが、人生そのものがもうすでに理不尽なのですから、その人生のどこを切っても、理不尽しか出てきません。

 人生のステージは、途中どんなエピソードがあっても、終わり方は決まっていて、それは主人公(自分)の死です。その主人公のドラマは、悲劇、コメディ、アドベンチャー、ロマンス、メロドラマ、、、内容はさまざまな組み合わせと特徴でできていてユニークさ満載なのかもしれないけれども、最終場面は誰でも必ず同じです。

 人生ドラマの目的地は、死という一点、それ以外にはありません。

 そのドラマにおいては、エピソード1から最終エピソードまで、生まれて(物心ついて)から死ぬまでの間、大事なのは自分の身体、その次に大事な人(たち)の身体です。

 大事な人が周りにいることで、慰められ、死のドラマという理不尽を忘れるための時間を共有することができるし、また、危害となりそうな人、敵対する人、目の当たりにするのが自分にとって不都合な人たちを、その輪の向こうに遠ざけておくことができます。

 そしてその身体の役割は、他の登場人物たちの配置とコントロールだけでなく、できるだけの安心と豊かさ、快適さを得るということで(しかも今すぐ! 時間は限られているのだから)、でもそれはほとんどの私たちにとって難しい。何よりその身体自体が脆弱な作りで、よほど気をつけていても壊れやすく、痛い、疲れた、動かない、機能不全、、、愁訴ばかりで機嫌よく命令に従ってくれることは滅多にないのです。

 このような初期設定のもとで作られる人生ドラマにとって、豊かさや安心は、常に他者との比較の中にしかないのは明らかです。

 完璧な豊かさとか限りない安心は不可能、という設定なので、限定品の豊かさ、安心は、奪い合いにならざるを得ないし、同時に、勝ち取ったものは希少品だからこそ、ありがたく味わえるものになります。

 そして目の当たりにすると不都合な人というのは、まさに、自分が何かをその人から奪い取ったということを思い出さざるを得ない人、深い絶望と嫌悪を掻き立てられる人のことです。

 ナイキ製品の不買運動が起こったのは30年近く前のことでしたか? 東南アジアの国々で、子供たちを学校に送り出す代わりにナイキ工場で格安賃金(賃金と言えるのか?)で働かせているという事実がメディアに乗り、ナイキシューズは買うなと皆が言い出したのが(少なくともニューヨーカーはそうでした。が、日本からの観光客は皆トランプタワーに入っているナイキショップに殺到していましたね。拒むわけにはいかなかったでしょう。エアー・ジョーダンがすでに出ていましたし)(わたし自身は、当時ナイキはやめてニューバランスを買っていました。「こんなことで何かが変わると本気で思っているのか?」という心の声があり「一人一人のこういう地道な意思表示が大事なのだ」と答える声もあり、葛藤しながらのことです。理不尽な人生には葛藤は付き物なのです)、その手の不平等にわたしたちが少しは意識的になった始まりだったのではないかと思います。

 そうでした。それは単なる始まりで、戒めや改善には繋がらなかったのでした。

 もちろん不当労働がそこで始まったわけではありません。ずーっと以前から世界中で続いていることです。綿の栽培も鉄道も、古くは神殿も。慰安婦問題は不当労働に入りますか?

 思い出すのは、愛しのロジャー・ケイスメント! 20世紀の初めに、コンゴとアマゾンで行われていた不当労働、虐待、虐殺を一人果敢に告発した人。コンゴとアマゾンでの“死のゴム栽培”(何は無くともゴム!ゴム!ゴム!の時代。植民地はゴムの木だらけ。ゴムがなければ産業が発展しなかったのです。)を捨ておけなかった人。人生をそのために、そしてアイルランドの独立のために捧げ尽くし、それなのに絞首刑となった人。(しかもその判決の決め手となったのは、ゲイであることの苦悩を記した彼の日記が見つかったせいというのだから!)

 人生は、誰かの犠牲(あなたの犠牲?)によって成り立っているのは事実と受け止めざるを得ず(不当な強制労働がなければ豊かなその生活は到底成り立たない)、地球の資源にはもちろん限りがあり、私たちは、その限界の“取り返しのつく地点”をとっくに超えているかもしれないのです。

 取り返しのつかないものなどない、という言説は嘘です。この世においては、取り返しのつかないものだらけで、もちろん、今後の全世界の必死の努力があれば(世界中の皆が心を一つに合わせるなら)別ですが、それはあり得ないでしょう。長い間不当に虐待されてきた人たちが、どうして“裕福な”“搾取の側の”人たちと心を合わせようなどと思うでしょうか。

 そんなことは誰も考えたくない。
 誰かの犠牲の上に自分の人生が成り立っているということを受け入れたくない、罪悪感を直視したくないので、無視、というより、無知を決め込みます。知らない世界はないに等しい、というわけで、半径3メートル以内だけを見て暮らしていきたい。
 そのような除外は、依存症と同じで、徐々に広がっていくに違いありません。

 あらゆるものは有機的なので、「無知という依存症」は、症状を悪化させていくと思います。

 たとえば、アメリカにとっての自由。それは、目の当たりにしたくない人たちが視界に入らない地域で、自宅をフェンスで囲み、できれば人の目に触れないような家屋の中を華麗に飾り、その居間のシャンデリアの下で“のびのびと”“安心”すること。
 庶民にはそれはできないので、安心は得られず、人生ドラマの終焉までずっと、欠落感と不安と葛藤に折り合いをつけていかなければならず、そのためにはもっと無知でいなくてはならない(少なくとも無知のふりをしなくては)、という循環に陥っているように見えます。

 それでも。

 それでも、わたしたちは死の人生ドラマに閉じ込められているわけではない、という確信があります。ただ、死の人生ドラマを生き抜くことに全神経、全感覚器官を使うことを選んでいるだけで、そうではない使い方ができる“自由”があるのを、私たちは皆知っているはずです。

 たとえば、ささやかなこと(ささやかとは片付けられないささやかなこと)ですが、わたしはロジャー・ケイスメントについて、バルガス・リョサの『ケルト人の夢』で読みました。この本自体を奇跡として受け取りました。
 150年も前のアイルランド人、ロジャー・ケイスメントの心に、現代のペルー人バルガス・リョサが住み、愛した(共に生きたとさえ言いたい!)という奇跡をわたしは読んだのです。
 時空を遠く隔てた二人の心がこんなにもぴたりと重なりひとつになることができる(つまり、死とは関係のないところで心は生きている!)、そのつながりを、おそらく数えきれないほどの人たちが、それぞれの言語で受け取り、自分もまたつながっていくことができるという奇跡です。
 誰かが誰かについて調査しそれを綴り、書籍となって出版されまた翻訳される。それもまた、この理不尽な人生の中の出来事のささやかな一つに過ぎないと見えますが、でも、死とは関係のない経験、時空間とも関係のない経験、身体の苦悩、損得勘定とも関係のない経験は、死と時空間と身体と損得勘定しかないドラマの中には存在し得ないものです。

奇跡=この理不尽な人生に起こる、唯一、理不尽でないこと。

 わたしたちが理不尽なステージで身体を持て余しながら、それでもエネルギーを得て生きているのは、奇跡に支えられているから、としか思えません。誰の中にも、ロジャー・ケイスメントとバルガス・リョサを繋ぐような、人智を超えた(つまり理不尽な人生ドラマには属していない)“叡智”、“源泉”が備わっていて、その采配によって奇跡が起こり、その奇跡によって、本当の安心の中に抱き止められる、そんな経験は至るところにあって、見つけてもらうのを待っていると感じられるのです。文学やアートだけでなく、気づかれるのを待つ大勢の人、テーブルの上の食べかけのスコーン、散らばったかけらに伸びている陽射し、窓の向こうの街路樹、、、あらゆるものが、ステージ上の、いつか死にゆく登場人物や小道具ではなく、共にステージから出るための関係を持ちたいと望んでいる存在、その意志を持っている存在、そのように見えてくるのです。

 ここでわたしが言っている奇跡とは、とてもささやかなもの。でも実はそれは、ささやかではなく、とてつもなく大事なことではないか、唯一価値あることではないかと言いたいのでした。ここだけに心を向けている時、わたしは、理不尽なステージそのものをゆるしている自分に気づいて楽になります。現実の土台は、自分の意志でシフトさせられるということが受け入れられるからです。いのちを、死のドラマの制限の中に置かない、という選択ができると知ること以上に大きな喜びなどあるでしょうか。

 





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