100人に食べ物を与える事が出来なくても、1人なら出来るでしょ?
「100人に食べ物を与えることが出来なくても、1人なら出来るでしょ?」
これは、かの有名なマザーテレサの御言葉なのですが、
確かにそうだよなと思ったお話です。
私は高校の図書館でマザーテレサの伝記に出会ってから、マザーの言葉に幼少期の自分が癒され、救われ、その行動力に憧れをもっていました。
少しでもマザーと関わりたいと、大学生の夏休みは毎年インドのコルカタにあるマザーの施設へボランティアに行って、活動していました。シスター達は自然と微笑み、私の話をうなずきながら聞いてくれるのです。沢山の施設がある中で、ボランティア達が登録する教会ではマザーの棺があり、静かな時間が流れていました。
肉体的にはヘトヘトなのですが、心が満たさせるってこういう感じ!と癒されて過ごしていました。
そして、学校の先生として社会人になります。
子供達へ私の愛を注ぐ日々。(注ぎまくっている日々)
でもボランティアをしていた日々とは違って、
こんなにしてあげているのに、何で分かってくれないんだろう?
という心の違和感が残ります。
教員2年目にある家庭的にも問題を抱えている女の子(後に3年間担任をします)が転校してきて、私のクラスに入りました。
そして、言われてしまいます。
「どうせ先生は私の事面倒くさいと思ってるんでしょ?」
「優しい言葉はお世辞だって知ってる」
なんと?!手強い。
でも全てにいい顔しいで対応している私を見透かされていたのだと思います。そんな時、少しクラスがガチャガチャし始めていました。
勿論全員に気を配るのは当たり前ですが、表面上取り繕っていることに、子供達は敏感に察知し、子供達もそれなりに過ごしていたのです。
なあなあではいけない。本気で向き合わないとダメだ…そう思いました。
何回も問題を起こす彼女に、「私は見捨てない!」と自分にいい聞かせるように宣言しました。
絶対に見捨ててはダメだ。一緒に苦労をしようと思いました。自分に足りないところの修行だと思ったのです。
トライ&エラーを続けながら、その子と過ごしていると…
ある日、クラスの男の子から「先生って結構根性あるよね。」となんとも上から目線なお褒めの言葉を頂きました。
そして、段々とまとまりのあるクラスへ変化したのです。不思議です。
100人全員にしてあげられなくても、手の届く1人からなら出来る。そして、その1人から水面に渦を描くように周りに伝わるんですね。
梅雨の始まり、この気づきを与えてくれた彼女との出会いの季節で懐かしく思い出しました。
彼女は立派に人の痛みのわかる素敵な女性になり、
年賀状のやりとりは私の楽しみの一つになっています。
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