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他者との関わりの中で顕在化する自己
自分の考え方や行動様式、人柄、性格、長所/短所、得意/不得意……。人は成長とともに「自分がどういう人間なのか」を知ろうとする。
さまざまな形でその機会を与える場が家庭や学校、地域社会であり、私たちはそこで生活を共にしながら対話を重ね、助け合い、喜怒哀楽を共有する過程で得た知見を通して他者理解と自己形成を図ってきた。
そこには、他者と自己との間で行われる、判断や意思決定の根拠となる、互いの感情や考えの丁寧かつ深いやりとり、また先人の経験や他者の体験などの情報といったものが欠かせない。
記憶に基づいた口伝に頼らざるを得なかった時代から、文字や印刷物、さらには音声や映像として記録されるようになり、得られる情報の種類や量は飛躍的に増大し、もはや個人が取捨選択できる範疇を超えた。
そこに現れたインターネットという救世主。膨大なデータをいつ、どこからでも瞬時に「検索」できる魔力は、私たちの生活を一変させた。
ところが、その簡便さに魅了され、「手間」をかけなくなった。
人に聞く
出向いて確かめる
自分でやってみる
そういった、時間を使って実際に動き、他者と直接交わる行動が極端に減った。
もちろん、コロナ禍を経て実感した「対面」を前提とした会議や商談、そのための移動や書類づくりなどの無駄が改善され、オンラインで代替されるようになったことは進歩だろう。
でも、何でもかんでも面倒な手順や時間をかけないことを「良し」とし、他者の経験やバーチャルな疑似体験を、さも「自分がやった」ことのように捉え、表層的な部分だけを観て判断してしまうことには危惧を覚える。
そこには、便利さや承認欲求、特権意識、優越感など、人間の持つ「弱み」につけ込んだ誘惑が巧妙に仕組まれていて、間違いだと判らない程度に流され、価値変容を鵜呑みにしていると感じられるからだ。
だからこそ、教育(学校)が一矢報いなければいけないと思う。
にもかかわらず、学校も同じような課題を抱えている。インターネットが当たり前の世界になるにつれ、それに追随することがキャパオーバーになり、どんどん過去の成功体験に縋るかのような「教育観」を描こうとしている。
ましてや、そこに使命感にも似た自己実現を描いている関係者が年長者(トップ層)に多いのは、悲しい現実としか言いようがない。
それを児童生徒や親、教育関係者がどう見ているか。
自分の考えを前面に出せない環境。限られた選択肢しか与えられず、これが正解だと言われているかのような日常。強制的に「人を育てる枠組みやレール」って、どこまで必要なことなのか。
誰のために「学校」という場があるのか。気がつけば、誰が決めたか判らないようなことを強要されていることへの疑問や違和感を訴える声が、こんな私のところにさえ、日本のあちこちから届いている。
大きな変化を恐れ、これまでの「当たり前」を維持したままで理想を実現しようとするのが難しいことは、学校関係者であれば誰もが知っている。それを受け止めるべきは学校管理者や学校経営者だ。
そんな、大いなる誤魔化しをいつまで続けるのだろう。
改めて見直してほしい。最初から、どこかで諦めたり妥協したりすることを念頭に置いていないか。そもそもをゼロベースでつくっていかないとダメだとわかっていながら、いたずらに議論ごっこの時間稼ぎをしていないか。
言うまでもなく、結果は検討した・議論したという形をつくっただけで終わってしまう。
学校の存在意義。それは「他者との関係性の中で、自己を確立する」ことだ。
自分という存在を意識したり、他者との関わりを感じたり、社会を俯瞰したり、未来を描いたりするためには、「自由な時間」と「多様な空間」が児童生徒あるいは教職員に、とことん与えられなければならない。
成長という「人間の可塑性」こそ、人生の可能性を広げる冒険のエンジン。時間や空間、考え方に制限を加え、鋳型にはめることは、それを狭めるブレーキでしかない。
それを多くのステークホルダーと共に、自己の価値変容を認めながら互いに確認していくことこそ、未来への投資であり、生きることへの返礼なのではないか。
そんなことを考えながら、日々、学校運営に向き合っている。
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