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テレビ番組を観て想うこと・・・


新型コロナ対策が進む中、テレビ、特に報道・ニュース番組の作り方が変わってきた。

スタッフも含め大勢の人がスタジオに集まり、何台ものカメラを駆使して一カ所で作っていたものが、別々のスタジオあるいはホテルや自宅などを中継で結び、それを集めて構成する形になった。

テレビ報道のスタイルを見直し、幅を広げることにつながるのではないかと期待している。

どこを見ても、同じ番組ばかり

2時間を超える長尺の生放送でも、コーナごとに細かく進行が決められ、収録VTRにナレーションとテロップを付けて編集したコンテンツが用意されていれば、一人のメインキャスターあるいはアナウンサーがいれば、十分番組進行が可能だ。

そこに彩りを添えるべく、さまざまな立場のコメンテーターが登場し、専門的な示唆を届けるというより、面白おかしくツッコミながら視聴者の興味を惹き、茶化して場を盛り上げるようになった。

硬派だった天気予報でさえ、気象予報士の登場でユニークかつわかりやすく解説することが求められるようになり、キャスター顔負けのキャラクターがもてはやされるようになってきた。

結果、キャスターやコメンテーター、気象予報士など、どんどん多くのメンツがスタジオに集まり、趣向を凝らしたセットを背景に、ずらり並んで視聴者に発信するスタイルが定着した。

そこに来て、新型コロナウィルス感染拡大という事態

どの番組もスタジオにいる人の間隔を空けるようになり、次にその数が減っていき、ついには別々のスタジオあるいはホテルや事務所、自宅等をリモート中継で結び、画面をミックス・スイッチングして進めていくようになった。

画像のクリアさは劣るものの、1つのスタジオで番組を進めている予定調和のような平面感から、明るさや雰囲気、出演者の気分まで微妙に異なるような(自宅からの中継など、まさにそれ)シーンが現れ、デコボコ感があっておもしろい。

番組に本来あるべきリアルさが強調され、ニュース独特の息づかいや緊迫感をもたらしている。

大きなチャンス到来

インターネットや機器が発達し、個人レベルでもスマートフォン1台あれば世界中どこからでも動画中継ができるようになった。そのクオリティもどんどん高くなり、工夫しだいでいくらでも組み込みことが可能だ。

早朝や深夜、新幹線や飛行機で行き来しながら、わざわざスタジオに集まっていたのは「何のため」だったのか。それは単にお互いの存在を確認するがごとく、群れていることで安心感を得るためだったのではないかとさえ思えてしまう。

そのための時間的制約やコストを考えれば、「集まることが仕事」になっている部分を大きく見直すチャンスが、まさにいま来ていると言えるのではないだろうか。

群れたがる人間

話が少し飛躍するが、なぜ人が「集う」のかについて考えてみた。

一人では生きていけない以上、誰かと関わることを抜きにして物事は進まない。

そんなとき・・・

相手の気持ちが変わったのではないか
自分は必要とされているのだろうか
自分のやっていることは間違っていないのだろうか

我々は、そういったことを面と向かって会って話さないと確認できない弱さを持っている。

それは、集団生活を送るうえで互いをつなぎ止めようとする引力として作用してきた。人と会い、仕事をし、一緒に過ごすのは、そのための大きな部分を占めていた。

しかし、プライベートが尊重され、個々がバーチャルな空間を持つようになってくると、人と関わることが面倒だという心理が生まれ始めた。SNSで見せる部分は自分のほんの一部であり、それすら「加工」することも少なくない。

よりバーチャルに傾倒し、些細な共通点でのみ、集団心理のごとく大騒ぎする。それらは全て「自信のなさ」の現れだろう。

だからよけいに、気の合う者同士が集まることで自分の存在を確認し、自信を取り戻そうとしてきた。

ピンチはチャンス

今回の新型コロナウィルス感染拡大は、世界中の仕組みを大きく変えることは間違いない。

テレビ番組の変容は、今までの当たり前が変わる(いや、変えられる)顕著な一例だ。何のために番組があるかを考えれば、優先すべきは何か、誰のために作るべきか、どこをめざすべきかは自ずと見えてくる。

会社だって、学校だって同じ。

自分という「個」、社会という「集団」をどう意識化し、在るべき姿を想像し、自己の「生」といかに結びつけていくか。

そのあたりを書いてみたいが・・・

長くなりそうなので続きは、また。

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