違和感や不適応が出るのは、軌道修正のサイン
教育の一つの成果かもしれないが、私たちには真面目で勤勉、自分を犠牲にしてまで周りに合わせるという精神が宿っている。自分を主張することで場を乱したくない、迷惑をかけたくないという心理が強くはたらく。
それが、知らず知らずのうちに同調することを善しとする価値観を生み、みんな一緒であることがすばらしいかのような教えを助長させることになった。
人々はそれで安心を得るようになり、心地よさを維持するために一層、人と違うことを避け、人に合わせなければならなかった。結果、人々の考えや行動が似かよったものになり、極めて単一性の高い社会がつくられてきた。
でも、そのストレスが限界に達し、随所に綻びが出始めた。
人と違うことは、持って生まれた避けようのない現実である。それを認め、違いをチカラに変えることで社会が維持されていくはずの私たちが、自己を犠牲にして違いを隠し、周りと同じように振る舞えばどうなるか。
自己否定という無理に心身が悲鳴をあげ、不適応という形で自己を主張することで身を守るしか逃げる術がない。自己復権、我が身の存在を「他と違う」ことで認めてもらうことでしか、自分を維持できなくなる。
人と同じでなければ安心できないという心理は危険だ。同調圧力が高まれば、価値観が衝突し、争いが起こる。少数派が異質と見なされ弱者となり、どんどん隅に追いやられていく。
にもかかわらず、それを異質で弱いものと考える多数派は、さらに周りに合わせることを弱者に強要し、それができないのは無能さの証でおかしいという。
おいおい、ちょっと待ってくれ。おかしいのは、無理に合わせようとするアナタの方だろう。
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いま、どうしてこんなことを言い出したかというと、教育現場があまりにも同質性を求め、みんな一緒を賞賛しすぎているように感じるからだ。
そしてそれは、多様性が叫ばれるのとは対照的にどんどん強くなっていく。まるで陣取り合戦をするかのように「合わせよう」とする。
よく考えてみよう・・・
同じである必要が、どこにある?
むしろ、違う方が魅力的だ。
法に矛盾していないなら、方法は問われまい。
なにも、周りと一緒でなくても良いのだ。
新型コロナ感染拡大で、これまでの当たり前が脆くも崩れ去った教育現場。いまこそ「違い」を発揮し、できることをやっていく時ではないのか。
周りと同じことができないと悩む必要はない。
自分たちができることを考え、それをすることの意味や違いをより鮮明にすることの方が大事なのだ。
同じであることで救われる対象と、違いがあることで救える対象はどちらが多いか・・・
その答えは、いうまでもなく明らかだ。
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もちろん、これを機会に人生を見直してもいいんだよ。
生徒も先生も・・・
いま乗っかってるレールを別のレールに変えたって、全然ダイジョーブ♡
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