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学校教育の多様性は、「学び×地域」が救う?!

全体に比べればまだまだ少数派ですが、既存の「学校教育」の枠組みを飛び出し、自分の学びを自ら選択する子(家庭)が出てきました。行動には移せないまでも、いいな!と感じている人も含めれば、相当広がってきていると思います。

私は、学校に「合うのが当たり前」で「合わないのが変」だという考えに、強い違和感を覚えます。

かつては、学校至上主義だったかもしれません。「まわりを見てごらんなさい、みんなやってるでしょ」と言われ続け、学校は行くもの、先生の話は静かに聞けて当たり前、何事もがんばればできる・・・といったことに、誰も疑問を持ちませんでした。むしろ、そうすべきであり、それができる子が偉いと褒められました。

一方で、学校に行きにくかったり、じっとしているのが辛かったり、読み書きが苦手だったり、物が覚えにくかったり・・・。さまざまな困り感を持っている子は少なからずいて、問題児というレッテルを貼られました。そして、常に「甘えるな」「もっとちゃんとしろと」言われ、まわりの子と同じでいることを要求されました。

学校や先生に余裕があった時代は、そうはいいながらも「この子は、これでいい」「無理にやらせることはない」といった、包み込むような世界観があり、できなくても許され、そういう存在なんだと認められていました。

人はみな同じではない。得手不得手があって、成長の度合いも違う。同じことができなくてもいい。そんな、誰もが「あるがままの存在」を尊重し合う。そんな雰囲気がありました。

それが、同質性と効率性を最優先で求める近代化の波にのまれ、余裕がなくなっていきました。人々は一億総コメンテーターになったかのように、誰かの粗探しをしては、自分を棚に上げて総攻撃。自分を守ることが精一杯になっていきました。

多様性が大事だ、自分は自分でいたい、自分の望むように好き勝手に生きたっていいでしょ・・・と言いながら、他方でそういう人を見つけると「おかしいんじゃね」と疎外感をあらわに、罵詈雑言を浴びせる。

結局、自分が正しくって、自分たちのコミュニティが時代に合っていて、自分の行動価値こそ正義だと思うことでしか、安心感を得られない精神構造になってしまったわけです。

だから、学校に行くのが当たり前という、自分が経験してきた呪縛は、我が子・我が身最優先でなんとしても守ろうとします。おかしいと感じながらも、愚痴を言うことでバランスを取り、世間の流れに合わせていこうとしてきました。

ところが、コロナ禍という世界レベルでの不測の事態が襲いかかってきました。社会全体の当たり前、既存の価値観が崩壊し、先が見えない不安が漂います。人々は生物的防衛本能を発動させ、これまでの常識を飛び越えたところで物事を考え、人生、学業、仕事・・・などに、自分なりの納得と意味を見つけようと、新たな生活スタイルを持ち始めました。

当然、学校に対しても新たな枠組みを求めるようになります。しかし、組織や枠組みが大きいほど、そう簡単には変わりません。社会全体にも共通することですが、元に戻すことこそ正義だといわんばかりの一時的対処で、コロナ禍に慣れ、落ち着いた隙を見計らってどんどんかつての姿に回帰していきます。

他に依存しているだけでは自分が危ない。周囲に合わせることより、自分で情報を集め、判断し、行動しないとダメになる。そういった新たな価値判断基準を持った人に、旧態依然としたオペレーションを守り続けようともがく学校は、どう映るのでしょう。

沖縄の学校(幼小中一貫・英語イマージョン教育を行う一条校)にいた頃、よく似たことがありました。3.11で起きた原発事故による放射線の健康被害から子どもを守ろうと、関東圏から移住された家族がけっこういらっしゃいました。沖縄という土地が持つ魅力、そこに英語イマージョン教育という要素が加わり、小学校低学年段階で転校を決められたようでした。

話を戻しましょう。実際、今の学校に「素直に従う」ことができている子どもは、どれくらいいるのでしょう。私は、そんなに多くないと思います。コロナ禍を経て増加した不登校の子どもたち、フリースクールのような自由な学びに進み始めた子どもたち・・・。

学校に行けば給食があり、友達と会って話したり遊んだりできるのに、どうしても「行けない」「行きたくない」子どもたちが増えています。それは、先にも述べた生物的防衛本能ではないかと思います。

病むくらいなら、自ら学校に行かない選択をしてもいいのです。「一斉」「一律」の学校という場が合わない責任を、自分が取る必要はありません。

学校にも多様性が求められています。「みんなが行っているから、私も行かなくちゃ」という考えにとらわれる必要は全くありません。行くのが当たり前ではなく、自分が違和感なく学べる場(それが、自分にとっての学校です)を探し、そこへ行けばいいだけのことなのです。

一斉・一律ではない「多様」な学校が各地にたくさんでき、自分に合った学びができる社会になってほしいと思います。

地域それぞれに、いや首都圏だって未来に向けての大きな課題をたくさん抱えています。法律や学習指導要領があるからと、思考停止したままで、これまでの形を守り続けることにどんな意味があるのでしょう。

それには、制度面からのトップダウン・アプローチも必要ですが、現実に即したボトムアップでも大きく変えられるんじゃないかと思います。

少子化が進み、各地の学校がどんどん廃校になっていっています。まだ新しい校舎、歴史を感じさせる伝統様式で建てられた校舎。そこから、子どもたちの笑顔や歓声がどんどんなくなっていきます。もったいないことです。

多様性を大切にしたいというなら、それぞれの地域や学校に合わせた「学びのスタイル」があっていいはずです。実際、内閣府の『地方創生SDGs・「環境未来都市」構想』や『地域みらい留学』などの取り組み、あるいは国の特例校制度や地域自治体がつくった教育支援制度など、探せば使える枠組みがたくさんあります。

縦割りではなく行政の枠を超えて、企業とコラボしながら、地域が運営していくような学校。そんな「産学官民」が一体となった取り組みの種がいくつか出てきています。

昨日、オンラインセミナーで 池本 洋一 さん(リクルートSUUMOマガジン編集長)から聞いた、長崎県壱岐市(SDGs未来課)が取り組む「SDGs未来都市・自治体SDGsモデル事業」もそのひとつです。示唆にあふれる実証事業で、汎用ケースとして応用できる基盤がたくさんあるように思いました。

いまこそ、思い立った人たちが「形をつくる」ことだと思います。間違いなく、ここ数年で学校教育は大きく変わります。いや、変わらざるをえません。

海外ボーディングスクールが日本にも進出し、インターナショナルスクールと合わせて、新たな学びの選択肢が見え始めました。フリースクールの認知も拡大しています。これまでの私立公立という区別に止まらない、新たな学びの場がどんどん広がっています。

そんな中、教育に携わる者として自分はどうしたいのか。次世代の子どもたちに向けて何を語り、どんな力を育みたいのか。

いま一度、「自分はどう在りたいのか」を見つめ直し、行動していくことが大事なんだと思います。

☆カバー写真☆
修学旅行で訪れたハイデルベルクにて「ルターが討論したことを記念する碑」(2015/02/06:筆者撮影)

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