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画一化、規格化からの脱却

学校が指導やルールを画一化し、その価値や判断基準を規格化することで、教育の効率化を図ろうとする時代は終わっている。

もちろん、過去には必要だった時期があり、それによって生活が豊かになり、国の繁栄がもたらされたことは間違いない。

でも、だからといって、それを未来永劫続けていくことに果たして意味があるのか。私にはどう考えても、そうは思えない。

いまに続く学校制度は、産業革命を経て高度経済成長を生み出す過程で形作られたものであり、新たな仕事を生み出した。いわゆる「ベルトコンベアー対応型労働者」だ。

我が家でも50年ほど前までそうだったが、多くの人が農業に従事し、生まれた土地で家内労働を行い、一生を終えていた。そこには親から子へ、家庭内で大人になるために必要なこと、イコール「労働力」として役立つ人間になるための教育が存在していた。

それが、家庭を離れて働きに出ることが必要になった時、混乱が生まれた。育ちや家庭内教育の如何に関わらず、決まりを忠実に守り、言われたことをきちんとこなすことが求められるようになったからだ。

工場などでベルトコンベアー対応型労働者に求められるのは、流れに則って全員が同じ行動をすることであり、指示に従い、好き勝手な行動をしない、いわゆる「ロボット人間」だ。

集団行動も、読み書きそろばんも、できた方がいいに決まっている。疑問を持たず、上長の言うことは絶対だと思えるような人間の方が重宝された。

そんな要請に応えるべく、制度として整備されたのが学校教育であり、どのような人間を評価するかといった価値観の統一化だった。

その根底が、あくまでも学校側が良かれと思って、受け手(児童生徒)が社会に適合するように取り組んだ教育だとしたら、その使命はとっくに終わっているといわざるを得ない。

いま必要なのは、従順なベルトコンベアー対応型労働者ではなく、自ら課題を見つけてその改善に立ち向かう臨機応変型改革者だ。

そんな人材を育てるべく、学校が時代に合わせてバージョンアップしていかないと、それこそ未来を担う子どもたちのためにならない教育をし続けることになる。

いつまでも過去の成功体験を過大評価し、形や制度を守り続けることに力を注ぐのではなく、今後に向けてどう変わっていくべきかを考え、迅速かつ大胆に実践していく。そんな試行錯誤を応援する人が、国や行政、企業、学校のリーダーからひとりでも多く出てくれることを願っている。

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