演劇の稽古場のハラスメント問題について|地点のパワハラ、不当解雇問題についての私見②

ここのところずっと考えていた/今も考えていることを少し、丁寧に書きとめておきたいと思います。

 別なところでも書きましたが、僕には過去、稽古場で演出家という立場から劇団員=俳優にパワハラ行為を行った自覚があります。その当時のことを思い出すと、口の中にカミソリを入れて噛み砕いているかのような、どうにも堪らない、今となってはそれこそ生理的な嫌悪感を自分自身に抱きます。
 
 加害者の僕でさえそうなのですから、被害者の彼や彼女には、もっとツラい記憶があることでしょう。一部の俳優とは時間を経て和解をし友人関係を取り戻すことが出来ていますが、多くは連絡も途絶え、音信不通の状態がほとんどです。

 今は、自分で書くのもあれですが、僕は稽古場では、あるいは劇場に入ってからも周りの劇場スタッフさんらから驚かれるほど? いつもにこやかに、笑顔を絶やさないよう努めています。もちろん、ときには後輩に厳しいことをいうことはあっても、努めて感情的にならず、怒るのではなく叱る、その俳優の過ちや怠りを叱責するという姿勢を保とうとしています。

 何故か。何故なら感情的な圧迫でもって俳優やスタッフに接しても、結果として得るものは少なく後味の悪い思いをするだけだという単純なことに気づいたからです。率直に言って、コストパフォーマンスが悪い。結果も出ない。だったら、怒るだけムダだし、乱暴な言葉を吐いて相手を委縮させても他でもない自分自身に良いことがない。更にはそういう場合、そういう行為はたいてい作品を良いものにしていくプロセスにおいて、ブレーキをかける行為だからです。

 それでも、それでも。演劇というのは生身の人間を相手にした活動です。俳優をポジティブな言葉でノセることがあるように、時には乱暴な言葉で追い詰めて、”追い詰められた人間の状況を体感”して貰うことで、その俳優に新しい演技の道筋を示し、あるいは引き出そうとすることはあります。言葉では論理では伝えられないものがあるのも事実です。身体に教えなければならない、いや、より正確に書くならば、身体で覚えるしかないことが、人間にはあるのです。それは転んで、転んで、転んでを繰り返してからしか自転車に乗ることが出来るようにならないように。
 
 傍から見ているとそれは、罵倒してるだけのように見えることがあるかも知れません。ロジカルに丁寧に説明していても、圧迫面接ヨロシク、相手を理詰めでただただ追い詰めているだけにしか見えないこともあるでしょう。

 そのような行為が、ハラスメントになるかどうか。
 
 それは、ひとえに相手との信頼関係が構築されているかどうか? だと思うのですが、みなさんはどう思われるでしょうか。
 
 僕は演劇の創作の現場にはそのような、相手の感情を操作する、あるいは身体の状態を操作するような技術と方法が、ときに演出家には必要とされる、そういう業の深い職能だと、それは演出家に限らず、他者を、他者の感情や状況や、身体を演じる俳優にもある深い業のようなものだと思うのですが。みなさんはどう思われますか。

 そのような信頼関係はカルト的な閉じた集団だ、という向きもあるでしょう。しかし現実に、優れた表現がそのような”カルト的な”集団の営為から生まれて来ている歴史的事実は、古今東西、枚挙にいとまがありません。

 もちろん、時代は変わります。時代の変化は無情で、過去には普通に許された行為(ときには美談でもあったようなそれらの行為)を、決して倫理的に許されざる行為となすこともあるでしょう。無情、無常だなあとも思いつつ、しかし時間の流れは遡れないですし、僕も過去が正しいと、昔はよかった、とだけ懐かしんでいてもしょうがないと思います。時代の要請には応えていく必要が、特に公共の存在であり、責務を背負った存在である舞台の演出家や映画の監督、もっといえば芸術家全般にはあるでしょう。
 
 でも。でもそれでももし、その集団が、集団の内部で全体としてそれを良しとし、それを良しとする者だけで構成されていて、内部で信頼関係が構築されているのだとしたら。外からはカルト的に見えても、狂気を孕んでいるようにしか見えないとしても、(狂気を内に孕まない芸術なぞあり得るのだろうか?)
 
 それをして、第三者が、外部の人間がそれを非難するばかりか、糾弾する正当な権利は、果たしてあるのだろうか? と僕は思うのです。観劇ボイコットとかならぜんぜんしたらいいと思いますよ、だけど、正当な手続きを踏んで選ばれた劇場の館長という、その選ばれたことをすらオカシイと断ずるならば、非難すべきは演出家本人ではなく、そのような演出家を公立劇場の館長に選んだ、選んだ側なのじゃないでしょうか? 劇団や演出家を責めるのは筋が違う気がするのですが、どうなんでしょう?
 
 繰り返しますが、ハラスメント行為を肯定、擁護する意図は僕にはありません。それがハラスメント行為なのであれば。しかし、それがハラスメント行為であるかどうか、あったかどうかは、当事者間の問題なのではないかと思うのです。
 
 けっきょくのところ僕は前回と同じことが言いたいだけなのですが、伝聞や憶測で誰かを好きになったり嫌いになったりするのはその人の勝手なのでぜんぜんすきにしてやってくれと思いますが、それをあまりこう、まるで”正しく普遍的なこと”として、大きな声で騒いで、周りを巻き込んで、喧伝しないでほしいと、僕なんかは思うのです。

2020年8月18日(水)追記

もうこのnoteを読む人もいないかもしれませんが、一部誤解を生じていたので一言だけ追記。上に書いた、

それでも、それでも。演劇というのは生身の人間を相手にした活動です。俳優をポジティブな言葉でノセることがあるように、時には乱暴な言葉で追い詰めて、”追い詰められた人間の状況を体感”して貰うことで、その俳優に新しい演技の道筋を示し、あるいは引き出そうとすることはあります。

ここの部分、これは大前提として知っておいていただきたいのですが、俳優と演出家がお互いの絶対に心身を傷つけない。稽古場で行われることは、あくまでも仮想的なやりとりで、リハーサルで、一時的に仮構される虚構の関係で(なぜなら演劇は徹底的にフィクションであるというのが大前提ですから、)ということが、互いに了解されていないと成り立たない行為です。それが何度も繰り返して僕が訴えている関係性、信頼関係ということです。つまり、例えば厳しい言葉で追い詰められた俳優は、演出家が”敢えて”このような言葉遣いをしている、ということを意識の別な部分で了解している。そういう関係でなければ、結果として良い効果は生まれません。

古い話で、これもまた時代が変わった、と言われればそれはそうなのかもしれませんが、尊敬してやまない先輩俳優(女性)が、演出家に、そこに黙って膝に顔をうずめてしばらくずっとそのままにしていろ! と命ぜられて、その時はなぜそんなことをしなければ分からなかった。けれどもそのうち、そうしているうちに悲しくなって、結果、身体が、その時に求められていたひどく落ち込んでどうにもならない役の身体に自然になっていって、演技が自分でも驚くほど見違える”良い”演技が出来るようになった。その後はそのようなプロセスを踏まなくても、瞬時にそのような身体の、心の状態に入れるようになった。という話を聞いたことがあります。

そういうことが、あるんです。演劇の現場には。時代は変わって、それはもう通用しないかもしれないし、だから僕もそういう手段を取る、ということでは決してないのですが。

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