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岩城京子さんのパフォーマンス学ラボ2回目。

岩城京子さんのパフォーマンス学ラボ2回目。先に課題を読んでコロナ禍初期のころの心身ダメージを疑似反復してしまう。いったんわきに置いて深呼吸。で読みかけだった「西洋演劇アンソロジー」(月曜社)からリチャード・シュクナーの「行動の復元」を読んで気を落ち着ける。

リチャード・シュクナー「行動の復元」原典訳はアンソロジーにしてはけっこうボリュームがあって、解説付きでともに江口正登さん訳。事前配布された参考文献の抜粋(バトラー、エリカ・フィッシャー・リヒテ、セジヴィック、パトリス・パビス)とも相まってセオリ―の海に溺れそうになる愉悦。

講義は本当にアクチュアルでセンシュアル。特に今回の課題1.で自分がコロナ禍中に受けたアフェクトやパラノイア読解の事例を、課題2.で自分とジェンダーや国籍などの異なる他者に観客的に置き換えて記述するのは物語化という点でも暴力性を孕んでいて、正直きつかった。けど得た気づきは大きい。

自分は、1)国籍が異なる日本在住で日本人男性と結婚している男性、2)つまりゲイの男性を想定したのだけど、(それ以外は自分が受けたアフェクトと極力同じ設定で、三人称で書いた)そこに嫌が応にも忍び込む、普段は全く意識していない差別意識とシンパシーも含めた、というのも又暴力なのだけど、

そういうものと向き合うことを突き付けられ敢えてエクスキューズは書かず推敲もほとんどせず課題提出。第三者を想定したけどそこには課題1から毀れた課題2の自分の受けたアフェクトが反映されていて、分裂していく自分のアイデンティティを複層的に体感。批判もあるようだけど、良い課だったと思う。

しかし、岩城さんの前半60分の講義の疾走感、充足感は半端ない。前にも書いたかな? 思考が加速して頭が沸騰しそうになる。けど刺激的。ただちょっと、欧米圏で活躍する岩城さんのアジア人で女性というマイノリティ性から彼女が(おそらく)被抑圧的に感じているものが浸透するようで、心身に応える。

ここで詳細は書かないけど、僕自身のマイノリティ性? から来る、あるいはヘテロセクシャル成人男性であることに、日本人封建主義的社会的において失敗している(と勝手に思い込んでいる)自分のコンプレックスや抑圧が共振する部分もあって、繰り返すが痛みとともに大きな気づきがあるのは事実。

と書くとまるで被害者意識のほうが強いように思われるかもしれないけど、最近噴出している日本人女性の被害にあった痴漢、性暴力被害など、完全に男性である自分は確実に潜在的に加害者であり続けて来ていて/今もそれは続いているので、そこでも自己意識が分裂しフラグメント化する。まあ、シンドい。

シンドいけど、こういう考え方も不健康なんだけど、僕なんかまだまだそんな、で、世の中にはもっと陰惨で不条理な境遇に/経験のある人がいるのだと考えると、そこでもまた自己意識が分裂する。でもこの経験は必ず自分の糧になる、そう思える、なかなかハードな訓練を受けている気分です。

https://theatercommons.tokyo/lab/program/performance

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