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45歳になって足元を見つめる。喫茶カプカプの鈴木励滋さんのインタビューを読んで。

ちょっと後で読もうと思ってて読むタイミングを逃していたインタビュー記事。今、このタイミングで読めて本当に良かった。

僕は文中で言われるような、他者との存在に触れたときに足元が揺らぐ、揺らぎ続ける存在でいたいと思う。し、たぶんそういうところがあると思う。うん。本当に、そう在りたいと思う。

どこかで書いたことがあるかも知れないけれど、前に世田谷区の中学校の支援学級の介添員の仕事を一年間やっていたことがあって、その時に触れた子どもたちには働いていた間中、何ともいえない、世間でいう“障害者”というくくりでは考えられないこころの逞しさと、想いの強さと、ユーモアのセンスと、そのほかいろいろな、とにかくいろいろなものに驚かされっ放しだった。仕事をしに行っていたというより子どもたちに会いたくて、一年間通っていた。その仕事は、残念ながら先生方大人たちとの関係があまり上手く行かなくって、それで一年で、契約更新のときに辞めざるを得ないことになってしまったのだけども。さておき、

そんな子供たちの中で僕が仲の良かった子の一人で、みんなのなかでも重度の小児麻痺で身体の扱いもままならない男の子がいて、だけど彼は、僕の夢は俳優! 将来俳優になりたい。ってずっと言っていて。そのとき、自分は芸術家だ、演劇人なのだ、という自意識を軸に、というかそれをよすがに生きていた僕にはもう、それがとてもとても大きなショックだったのを覚えている。

ショックというか、あれ? 僕は演劇の、...何を知っているんだったっけか? という、おそらくあれは、恐怖にも似た感覚だった。そんな感覚を覚えた。

奇しくも現職の歴代最長の在籍記録を残した総理大臣が、国の難病指定にあるような持病の悪化を理由に辞職を申し出た日の翌日の早朝に、

世の中の人々の病気や、障害、人と違うことに対する無理解、創造力の欠しさからくる悪意や、悪意以前の無意識的な差別意識に怒りを通り過ぎて眩暈をすら覚えていたところに、このインタビュー記事は、僕に勇気をくれた。

励滋さんのいう、

僕が関心があるのは障害がある/ない、障害/健常ということよりも、しんどさや生きづらさの方なんですね。個々に異なる障害の問題としてお互い分け隔てするというより、誰にも相通ずる生きづらさの問題なんだって思えると、一緒になんとかして行こうってなるのではないかなと。世の中の主流の価値観があまりに揺るがないので、障害がある人たちがその価値観においては負の評価をされてしまいがちなために、理不尽にもすごく煽りを受けているのは事実です。それでも、この国の現代の価値観の中で「立派な人間」と見なされるような頑張っちゃえてた人たちが、年々ものすごい人数、精神的に病んだり自殺しているのも尋常じゃない。現代日本の価値観こそが尋常じゃないんじゃないかと。

という言葉は、窮屈さや生きづらさや、日々、規範意識の中でがんじがらめになっていて常に何かに苛立ちを抱えているような、そんな「健常者」にこそ届いてほしいと思う。

もちろん僕が紹介しているのはこの豊かなインタビューの一部でしかないので、もしかして少しでも気にかかった人がいたら、ぜひ全文を読んで見て欲しいです。

自己中でいいんだけれど、その「自己」が限定されて狭いってのが問題で。限定された自分が自己中であると、単なるわがままになっちゃう。だけど、その自分=私っていうのは様々な人との関係における私である、という風に自己の方を広げていくと、この感じている私=自己を中心に私が最も幸せを感じるということがこの自分一人だけの幸せなんかじゃなくなる、という感覚があります。

とか。すてきだなあ、そんなふうに自然に生きていきたいなあって。僕もそう思うのです。

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