俳優の心身に負荷をかけなければ演出できない演出家は能力不足か?(2)

ひとつ前の投稿をこちら(note)だけでなく<a href="https://www.facebook.com/YasuhitoYANO/posts/3750347548366362">facebookにも投稿した</a>ところ、多くの方々からいろいろなコメントをたくさんいただきました。有難い限りです。一方で一部、僕の投稿の論旨の上面だけを拾い上げて持論を展開している方がいらっしゃたので、これは僕の言葉が足りなかったのかな? と反省しました。なので、まえの投稿に少し補足をしたいと思います。補足というよりか、別な角度から考えてみたことになるかも知れません。

僕が書きたかったのは、「俳優の心身を追い詰めなければ結果が出せない演出家は演出家として能力不足」であり2021年の現在においては少なくとも演出家として認められない。ということではなく、といってその主張を否定するものでもありません。むしろ、心身を追い詰めなければ結果が出せない演出方法はあまり好ましくないと僕自身は思っています。

ところでしかし、「俳優の心身を追い詰めなければ…」という演出家や演出方法が時代遅れである。

として、それが実践されていた時代やそのころの俳優と演出家の関係、引いては(他の劇団に客演するなどということが許されなかった)同志集団としての劇団が、何故1960年代に生まれたのか? という時代背景などについて考察することを放棄することにならないか? という危惧です。

つまりそれは歴史を背負わない行為であり、敢えて挑発的な言い方をすれば、単に時代の“トレンド”に乗っかっているだけで、自分の(自分が演出家であれば演出家の、俳優であれば俳優の)方法がどこから来てどこに向かっているのか? ということに意図的に無自覚であることであり、

もっというとそれは、“歴史を反省しない”態度にすらならないだろうか。

例えば、第二次世界大戦中に日本人が犯した行為は、南京大虐殺は、731部隊お行った各種の人体実験は、インパール作戦の無謀は、既に今の時代にあって「時代遅れ」で、そのような行為が行われた時代の人々の意識の在り方や意思決定、集団の在り方は、現代の評価軸から測れば完全にアウトな行為だよね。

という、至極当たり前な判断に過ぎず、そしてそこで思考を止めてしまう。

つまり、戦後に生まれた世代の日本人(僕ら)には、それらの責任はないです関係ありません。という無責任な態度と同じものになってはしまわないか? ということでもあります。

事態を拡大して語り過ぎているかも知れませんが、根っこのところでは実は同じことが繰り返されているかもしれない、あるいはその時代の意識の在り方と、自分のそれとは必ずしも断絶しているものではないかもしれない。

そういう反省なくして、新しい演出の在り方や、集団の意思決定の方法なぞ模索できるのであろうか? という。

そして少し文脈が変わりますが、例えば、能狂言歌舞伎における幼少時からの俳優訓練、技芸の伝承の在り方は、今の時代の評価軸“だけ”で考えるとそれこそ単なる児童虐待になるのではないか。

そのような芸能における技芸の伝承の方法や、芸能に限らず例えば刀鍛冶や宮大工のような業(わざ)の継承の方法、それらももちろん現代において、その在り方は変化に晒されるべきものであるのは当然のことですが、

”現代の(わずか十数年の間に変わった)倫理観”だけでそれらは計り知れるようなそんな”軽い”営みだったのか?

というようなことも考えなければならない問題だと僕はいいたいのです。

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