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noteという居場所で表現すること

いつの間にかnoteが自分の生活の大きなウェイトを占めるようになった。通勤時は基本的に本を読んでいるが、noteにも目を通すようになった。

アカウントを作ったのは意外と早くて、2014年...初のスキは@しゅうまいさんのこの投稿だった。

もう6年も経ったのかと、振り返ってみてびっくりした。

この手のツールに手を出すのは早くて、Facebook、twitterは2009年、instagramは2010年から使用している。これがinstagmraでの初めての投稿だ。

忘れもしない長女が生まれてから1ヶ月が経ち、高尾山に一人で登った時に撮ったものだ。

それから4年後にnoteのアカウントを作ったわけだが、特に野心があるわけでもないので、noteでガンガン書いて競争相手のいない未開拓の市場の中で目立とうという考えはなかった。

今残っている記事で最も古いものは2018年だが、実はそれ以前に競馬の記事を毎週更新していた。しかし、2018年から仕事での学び、気づき、メモとして使用しはじめたので過去記事は全て削除してしまった。

noteを始めた頃は競走馬の調教映像を1頭1頭見て、その時に感じたことを何かに書き留めておきたくて、調教メモとして記事を書いていた。

その後、ファンも少しずつできて、毎回スキを押してくれるフォロワーも増えて、少しだけ世界が変わっていった。

ただし、数年続けたところで更新が義務のようになってきて、しんどいと感じるようになり更新が止まり、ROM専のアカウントへと変わった。

過去のトラウマではないが、今から遡ること2005年、β版としてリリースされたYahooブログで2万もの人にフォローされるアカウントになるまで成長し、自分を取り巻く世界がどんどん変わっていった。

最終的にはコミュニティまで作り、オフ会なんか開いて全国から東京へ集まって学びを共有した時期もあったが...いま思うと、あの頃の野心はどこへ行ったのかな?と思うほどに、思考も停止気味で、悪い意味で「おっさん」になってしまった。

ただ、最近はいろんな人と出会えて、社内外のいろんなつながりが生まれてきた。これも単にnoteのおかげだと思っている。

毎日いろんな人たちの言葉がnoteには紡がれている。

noteで毎日想いを綴っていたら、少しずつ読んでくれる人が増えるにつれて、自分を取り巻く世界がどんどん変わっていった人も多いと思う。

居場所は自分で作る。

自分がnoteで有名になっているわけではないから、説得力がないかもしれないが、noteって誰かが誰かを助けて、励みになる場所なのかなと。

誰がどんな課題を持っているのか?市場調査までして、ニーズのボリュームの調査までしなくても、こういうノウハウがあるよとアウトプットすれば、たった1人にも響くのがnoteだと思う。

みくりや佐代子(ちゃこ)さんのこの記事が本当に大好き。まだ2月だけど、今年のトップ3にはランクインするんじゃないかというくらい好き。永久保存版。

「多くに読まれる」を目標にしなくてもいいんじゃないかと思うようになったんだ。特にnoteというこの場所では。
PV数を狙って強めのコンテンツに話題を寄せるなんてことは、この場所にはきっと合わない。自由に、気楽に、好きなように。それが一番だ。

この言葉がnoteという場所なんだろうなと。

noteは多くの人に読まれる場所ではなく、一人に届けば良い。フォロワーとかスキとか気にすることなく、好きなことを綴っていけばいいんだなと。

この記事を読んだ時に、過去に競走馬の調教メモを綴っていた時のことを思い出した。

多分、義務のように感じることが辛くなったのではなく、多分自分でその道を選んだのだろう。アドラーから言わせると、人の行動には全て目的がある。まさに義務と感じたのは辞めたいからであって、勝手に自分の中で義務化してしまったのだろう。

こんなことを書けるのもnoteだと思うし、もっと自由に書きたいな、と思うのだ。

20代の頃、Yahooブログには毎日のように言葉を綴っていたが、あの頃のように自分についてより深く知るために自己のあらゆる側面や経験を見つめ直し、自由に綴っていきたい。

そして、フォロワー数やスキの数に一喜一憂することなく、お互いが紡いだ言葉を「それ最高!」って言い合える場所にした方が心はずっと楽だと思う。

昨年も書いたけど、書きたいことを書くことが大事で、毎日書かなくたっていいし、それを受け入れてくれる懐の広さがnoteの良さなんだなと。

note、ありがとう

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