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自己紹介④(父親から受けた影響)

高校時代のことを書く予定でしたが、少し時を戻しまして、僕の父親について書きます。

子供の頃に父親をどうみていたのか、どんな影響を受けたのかという話です。

僕の父親は和歌山県新宮市で育ち、大阪の建設会社で働いていました。なので僕は幼少期は大阪のマンションで生活していました。一軒家を持ちたいと思った父親はマイホームを購入しました。
しかし大阪で家を買えるほどの給料が無かったのか、会社からかなり離れた三重県名張市に住んでました。三重県の家から大阪の会社に通うのは近鉄で片道2時間ほどだったようです。

父は朝早く起きて出勤し、夜遅くに帰ってくるという生活を続けていました。小学校1年生から4年生まで僕は父親と時間を過ごした記憶はほとんどありません。平日は僕が寝た後に家に帰ってきて、僕が起きる前に家を出るからです。土日は体の疲れをとるために家でゆっくりしていることが多く、家族でどこかに出かけた記憶もほとんどありません。家族旅行といえば、お盆とお正月に両親の地元の和歌山に帰る時くらいでした。

子供ながらに覚えているのは両親がよくケンカしてたことです。
母親は英語塾の講師をしながら1人で3人兄弟の面倒をみてました。
父親は会社の仕事で疲れ果ててました。
お金もけっして余裕があるわけではなく、2人でお金のことに頭を悩まし、ケンカしていたことを覚えています。

そんな生活に転機が訪れました。
僕が小学校5年生になる時に父親が脱サラをして、地元の和歌山で不動産会社をつくり、自営業を始めました。

これがきっかけで家族は和歌山県との県境にある三重県の田舎に引っ越しました。僕が小学校5年生の時に転校したのはそういう理由です。新しい学校に馴染めずもやもやしてた僕ですが、父親は逆に活き活きと仕事をしてました。

それまでは通勤が電車で2時間のところから、自分の会社の事務所まで車で10分。通勤時間が短くなり、朝ごはんや夜ご飯を食べる時に食卓に父親がいるようになりました。

家族みんなで晩御飯を食べる時間が当たり前じゃなかったので、小学校5年生からの家での晩御飯の時間はすごく楽しかったのを覚えてます。

家のリビングで一緒に野球やバラエティ番組を一緒に観ました。それも今までにはなかった時間です。

土日に家族で出かける機会も増えました。祖父母はすぐ近くに住んでるので帰省という概念もなくなり、いろんなところに旅行に連れて行ってもらえるようになりました。

父親の仕事は好調だったようで、収入が上がり、トヨタのクラウンという高級車に乗ってました。

近所のおじちゃんやおばちゃんが「あんたのお父さんは仕事を頑張って稼いで良い車に乗っててすごいわ」と言っていました。僕はそんな父親が誇らしかったです。

小学校4年生まではあまり無かった家族との思い出が、父親が脱サラしてからはたくさんできました。

子供ながらに思ったのは、「サラリーマンはしんどいし稼げない。でも社長になれば稼げるし、家族との時間も増える」

将来は稼ぎたいと思ってたので医者になろうと思ってましたが、社長も良いなと父親をみて思うようになりました。

僕はそんな父親の影響を受けて育ってきたので、サラリーマンはずっとやる仕事じゃないとなんとなく思ってました。

今、起業をして、会社を経営しているのは父親の影響が大きいです。

父親は僕の年の頃(37歳)には会社員で3人の子供を養ってました。そして40歳で脱サラ・起業しました。
今の自分がもし会社員で、3人の子供を育てていたとしたら、起業をする準備はできるか、40歳で(おそらく周りからの反対を押し切って)脱サラ・起業することはできたか。想像するたびに父親はすごいなと尊敬します。

自分にとっての本当の幸せは何か
家族にとっての本当の幸せは何か

そのことに向き合って40歳で大きな決断をする。
そして自分の選んだ道を正解にして自分や家族を幸せにする。
本当にすごいです。

父親は45歳くらいの時に体を悪くしました。
神経系の病気で今でも片足を動かしにくくひきずりながら歩いています。
でも、67歳の今も会社の経営を続けています。

大学に進む時、起業する時、父親にたくさん支えてもらったので、今度は自分が支えていく番です。

しっかり働いて稼いで、恩返しします。

PS
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