見出し画像

学校昔話

前置き


  僕が教師になったのは昭和54年4月でした。そして、定年退職後もう6年間講師を経験して令和3年3月に小学校教員生活に終止符を打ちました。通算43年間、学校現場で子どもたちや先生方と過ごしました。
Noteと出会えたので、この場をお借りして、自分の40年間ほど前の思い出を書いておきたいと思います。
 もし、どなたか読まれた方々で、
「こんなの私の教員経験と違う。ウソ書くな。」と怒る退職教員の方。
「昔の学校てこんなんやったの。そういえば私の頃・・」と一般世間の方。
「そうそう、そうやったねえ。」と思ってくださる方など色々おられると思いますが、これは僕の経験であり、僕の思い、考えなので、自分の記憶の事実に基づいて書いていますので文責は僕にあります。また、内容の一部は現在は50歳をスギている子どもたちが同窓会を開いてくれて、あの頃の話を色々してくれたことも真実を書いているといえます。

教員になりたての思い出、学級には45人いました。


   なりたての頃を思い出すと、まず思い出すのは、2年目に担任した学級児童定員数が45人、つまり学級に6年児童が45人いつもいる学級でした。令和3年に辞めたときには40人定数で実際33人の学級だったから12人多いわけ、6年児童が12人多いこれ結構大変なんです。6年生なので結構身体がでかくなっていますから、教室にぎゅうぎゅう詰めという感じでした。もっと以前は50人学級だったので、その頃に比べるとまだマシですが。今はどんどん子どもたが減っていて、30人定員になるかもしれません。
 

僕のなりたての頃の子ども達の思い出から


4年前にあの頃の学級の子どもたちが同窓会を開いてくれて、懐かしい思い出を色々語り合いました。今は50歳過ぎの皆さんの思い出は僕の頑張ってた授業の話かなと思ったら全然違っていました。
「先生、6年生の時の、私ら授業の思い出全然ないわ!覚えてるのはよく遊んでばかりいたわ。」
「そうそう勉強言うたら、近くの神社に写生に行って1時間目から4時間目までズート絵を描いてたね。あれ、大丈夫やったん?」
 みんな絵を描いたり、出来た子は遊んだりしていたそうです。僕は何をしていたんでしょうね。写生に行ったことは覚えています。桜が綺麗でした。
「一番の思い出はザリガニ釣り!!
「そうそう、ザリ釣り。○○さん池にハマってしもたね。」
 これは僕も覚えていました。学校の近くに校長先生の池という名前の池があって(本当の池の名前はわかりません。)、みんなでバケツ、スルメ、たこ糸、竹笹の竿などを持ってザリ釣りに行きました。みんな上手でした。キャッチアンドリリース!今は絶対に禁止ですし、学校から行くなんてもってのほかだし、この池は杭を打ちまくられて立入禁止になっています。
「学級の今月の歌、覚えてる?」
「覚えてる、覚えてる。」
 学級でよくギターを弾いて、みんなで歌いました。当時はみんなで一緒に歌える歌がたくさんありました。帰りの会で学級会で決めた今月の歌を歌います。
 歌が好きなのは今の子供達も同じです。違うのは今の教員はギターではなくIPADで曲をかけます。残念なのは流行の歌は楽曲が難しくてとてもみんなで歌えない。みんなで元気よく歌えたのはちびまる子ちゃんのテーマが最後かも・・・・。
 今回はこれくらいにしておきます。当時は家庭用ゲーム機もまだなかったし、喫茶店にインベーダーゲームが流行ってきた頃でした。自分の子供時代と子どもの世界はそんなに変わりがなかったように思います。情報化の現在子どもたちの生活も随分変わりました。これからもさらに変わっていくことでしょう。でも、生活は変わっても、昭和54年と令和3年の子ども達の中身は同じです。元気で真面目で明るい、子供らしいところは変わりません。40年子どもたちを見てきてそう思います。ではまた・・・・。


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?