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番外編 その1(後日談)


谷垣雄三君の死の悲しみは、畏敬の念と共にニジェール全土に広がった。
ニジェール保健省は「テッサワ・パイロットセンター」を改修して県病院として開院させ、病院名に「ドクター・ユウゾウ タニガキ」の名を刻んだ新たな看板を正面に掲げた。また、近くの自宅も改修し、「保健センター」として同時にオープンさせた。産科施設を併設し、「マダム・シズコ」の名を看板に入れた。谷垣君が亡くなって2年後の2019年3月15日である。
信大医学部同窓会「松医会」は創部75周年の記念講演(2019年9月8日開催)に谷垣君をテーマに取り上げた。信大ワンゲルOB会「波里美知会」は18年夏、松本市の信大病院、あがたの森文化会館の2か所で谷垣夫妻追悼企画展を開いた。静子さんの絵画16点も展示し、「私の死後、妻の展示会を開いてほしい」という谷垣君の遺志を実現させた。さらにJICA(国際協力機構)ニジェール支所は77点の絵画、多数のスケッチ、写真を自宅で発見した。静子さんの母校、松本蟻ヶ崎高同窓会館で、6月29、30日これらも展示する遺作展が催された。
2019年11月に「波里美知会」にJICAニジェール支所長だった山形茂生氏、青年海外協力隊調整員の安城康平氏が加わって「谷垣雄三・静雄夫妻記念事業実行委員会」が発足した。夫妻の企画展の全国ツアーがコロナ感染の不安の中、2020年7月21日、東京・市ヶ谷のJICA「地球ひろば」でスタートした。 

誕生、ユウゾウ病院とシズコ産院

「パイロットセンターが改修されて『ドクター・ユウゾウ・タニガキ県病院』に、また、ふたりが住んでいた住まいが『マダム・シズコ保健センター』に生まれ変わります」
こんな主旨のメールがJICA(国際協力機構)ニジェール支所の山形茂生支所長(当時)から届いたのは、2019年2月だった。県病院は機能的には、テッサワ地方の基幹的な機能を持つ総合病院。保健センターは、産院があり、母親が安心して出産し、母と子の命と健康を守る施設だ。その後、翌3月15日に保健センターの開業(開院)式典が行われた。

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パイロットセンターを改修してタニガキ県病院に。看板にはルファベットで「タニガキ・ユウゾウ」の文字


メールに添付された両施設の写真を見ると、正門に掲げられた青色の看板には、ふたりの名前がアルファベットの白い文字で浮かび上がっていた。フランス語を知らなくても「ドクター・ユウゾウ・タガキ」「マダム・シズコ・タニガキ」と読み取れた。
総合病院の門には見覚えがあった。峰山町の熱い支援に谷垣君が感謝して名付けたパイロットセンターの「ミネヤマの門」だった。谷垣君の高校までの同級生らの「谷垣雄三医師を支援する会」のメンバーが訪れた際にこの下で写真を撮っている(本編67㌻)。
谷垣君の名前を刻んだのは、テッサワの人たちが谷垣君を敬愛し、「ドクター・タニ」と呼んだ。その名を末永く語り継ごうという思いからであろう。
「マダム・シズコ」はその夫を支えた静子さんをたたえたのである。
ニジェール支所発行の「ニジェール支所便り」4月号に保健センターの開業式典に出席した支所の男性ナショナルスタッフによるルポが掲載されている。イスラム過激組織との政府軍の闘争や、略奪、外国人の誘拐などが横行し、ニアメから出てはならぬという禁足令がJICA本部から出されていたため、彼が支所長に代わって出席したのだった。
その彼がこう書いている。
「テッサウア(テッサワ)の人々は、谷垣静子夫人がこの地でニジェールの女性と子どもたちの健康のために果たした役割と、生涯にわたって夫、谷垣雄三医師を支えてきたことを称(たた)え、この保健センターを、1999年5月にテッサウアの地で亡くなった静子夫人に捧げることを決めたのです」。

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保健センターとなった谷垣夫妻の居宅。
看板に「マダム・シズコ」の文字。要人らが並ぶ

 元気な初の産声


静子さんは、子どもが大好きで、どの子もかわいがり、母子の健康を気遣っていたことがうかがえる一文である。世界こども白書によると、ニジェールの乳児死亡率は2012年で1000人中63人。発展途上国の平均を上回る。
保健センターは母子に必要な施設と理解できる。テッサワの人たちは静子さんの名前を冠し、妊婦の無事な出産と子どもの健康と成長の祈願も込めたのだろう。
それが天に届いたのか、初めて生まれた元気な女の赤ちゃんの写真が届いた。産声が聞こえてきそうだ。

スタッフ+産声2

左:保健センターの助産師らスタッフ、右:保健センターで産声を上げた
        第1号の赤ちゃん。女の子。名は「ハリマトウ」ちゃん

 谷垣君のこだわりと信念

式典の約1か月前に彼は両施設を視察し、3月号にリポートを掲載している。
それによると、タニガキ県病院の病棟の内装は新たにペンキが塗られ、天井の扇風機も取り換えられていた。谷垣君が残した医療器具は修理の必要がなく、そのまま使える状態だったと伝えている。
患者用ベッドは特注で、柔らかいマットレスを使わず、木材だった。谷垣君のこだわりだという。このような谷垣君のこだわりと信念があちこちにあった。
保健センターでは、谷垣君の手術記録などを保管する資料室が設けられ、医師、看護夫らがいつでも閲覧し、学ぶことができるようになっていた。さらに、夫妻の生活や医療調査を記録した写真や静子さんの絵画、スケッチブックが多数、見つかり、支所に保管されている。
医師でもある人類学者が谷垣君の業績、足跡の調査に乗り出している。
これら資料や人類学者の調査・研究によって「谷垣先生と静子夫人の秘話が明らかになるかもしれない」と、ナショナルスタッフのリポーターは期待を寄せている。
タニガキ県病院の開業(開院)式典こそ、政府要人の日程上の都合で行われなかったが、診療はすでに始まっている。
現地人のナショナルスタッフは2日間の滞在で、谷垣君がイスラム教のラマダン(断食月)、タバスキ(犠牲祭)には、イスラム教徒である病院スタッフ全員に決まりの砂糖、羊を贈っていたこと、さらにテッサワ市内のモスク建設にも貢献していたことを耳にしていることも報告している。
実にキメ細かな谷垣君らしい心配りではないか。医療に加え、こうした心配りが人々の敬愛の心を一層、集めていたのだろう。
ナショナルスタッフは以下のように手厳しい戒めのことばでリポートを締めくくっている。「病院として機能をし始めてから、その真価が問われるでしょう。なにより谷垣先生を慕い、藁(わら)をもつかむ思いで病院を訪れてきた多くの貧しい患者さんたちを絶望させるようなことだけは、決してあってはならないと思います」

 医療器具一切を譲渡

2つの施設が誕生したのは、遺産相続人である京都府福知山市在住の実兄の泰三さんが、パイロットセンターや住まい、医療器具などのすべてを二ジェール政府に譲渡することを承諾したからである。
センターや住まいは谷垣君が私財で建設した。医療施設、器具などは日本政府、JICAなどから寄贈された。
「ニジェールの人たちのために役立てて欲しい。それが雄三の願いである」と泰三さんはためらいがなった。
〈タ二ガキ県病院〉、〈シズコ保健センター〉が開院する前年の2018年7月19日にニアメの保健省会議室で、譲渡式が行われた。日本側から山形支所長、ニジェール政府側から保健大臣ら関係者20人以上が出席し、山形支所長、保健大臣が譲渡証明書に署名し、交換し終えると、2人は固い握手を交わした。

新聞と大臣2

左:譲渡式を伝える現地の新聞、右:式典でスピーチする保健大臣(右)と山形茂生支所長

 墓標は笑顔の顔写真

自宅庭のふたりのお墓はそのまま保健センターにある。土を盛っただけだったのが、板状の素材がかぶせられ、整備されている。顔写真入りの墓標が頭方向に掲げられている。

「シズちゃん」「なぁに、ユウちゃん」こんなふうに互いに呼び合っているかのようだ。ニジェールでの谷垣君のこのような柔和な笑顔はめずらしい。
保健センターの開業(開院)式典に出席した支所のナショナルスタッフは「支所便り」4月号で式典出席者がお墓に訪れている写真を掲載し、「センターで生まれる命が夫妻に安寧と安らぎをもたらすことでしょう」とコメントしている。
ふたりは産声を聞ききくたび笑みをたたえ、テッサワの空を舞い続ける。

支所だよりから2

墓標写真2


活動の集大成「実践ガイド」

世界銀行などによる「人民ロジェクト」構想の浮上で、揺らいだパイロットセンターが再評価を得たのは2007年、谷垣君がニアメのホテルで、保健大臣ら医療関係者らを前に取り組んできた成果を発表してからだった。
そのとき、決め手になったのが政府に提出した報告書「地方外科実践ガイド」である。それらがテッサワの自
宅で発見され、当時のJICAニジェール支所長の山形茂生さんが日本に持ち帰った。
いずれもパイロットセンターで得た集大成。いわば「実践ガイド」である。
A4判。フランス語版と英語版があり、医療器具のカラー写真やパイロットセンターの施設図面、実験結果を数字で示した図表などを使い、わかりやすく解説している。谷垣君の施術は、貧しくても自分たちで治療費を負担し、自立した医療体制の確立が目的だった。一面、現代外科の常識への挑戦であり、批判を浴びた。谷垣君はそれを恐れず、堂々と説明し、これを聞いた大統領は「谷垣支持宣言」を発し、多くの人たちの命を救ってきた。
その一方で、ニジェール厚生省はセンターを外科医の養成機関として認可し、谷垣君は多くの外科医を育てた。「実践ガイド」は、そんな医師らの必携の実践書として書かれている。
センターができた直後、谷垣君を訪れたセネガル国JICA保健専門家・清水利恭医師は「実践ガイド」を読み、「実践可能もあれば、先生ほどの強い気骨の持ち主でないと、こなせない要素もある」としながらも、「辺地の困窮した患者のために安価でかつより安全な医療を提供したいという強い意志と信念のメッセージであり、読むものは実践をかさね、先生の意志を未来につなげる形で継承してほしい」と語り、現地の医師に期待を寄せている。山形さんへのメールの一部である。

発表した当時、66歳だった谷垣君は、亡くなる1年前まで改訂を重ね70㌻だったのが116㌻までになった。最終版では日本語で自分の信念を書いている。これが最後の仕事となった。
2017年3月7日、自宅で職員の業務報告を聞いているさなかに倒れ息を引き取った。75歳だった。

報告書2


〝遺志〟生かし企画展

「谷垣雄三・静子夫妻追悼企画展」が2会場で開かれた。2018年7月23~8月3日が信大付属病院、8月3~10日が「あがたの森文化会館」(旧信大文理学部)。
「静子の絵をまとめておきました。私が死んだあと、静子の絵の展覧会を日本で開いてください」と谷垣君が仙台市に住む妹さんに言い残していた。「波里美知会」の仲間の知るところとなり、1周忌にあたる2018年3月、松本市の浅間温泉で開いた「偲ぶ会」も席上、企画展を開くことを申し合わせた。すでに静子さんの作品16点が日本に届いていた。併せて企画展のあと、静子さんの母校、松本蟻ヶ崎高に絵を寄贈・保管してもらおうという構想も動き出した。
谷垣君と医学部同期(昭和36年入学)の畑日出夫君が「波里美知会」会長代行となり、平英彰君(農)、土田幸紀君(同)、それに筆者が加わり、展示に携わった。畑君は医学部同窓会「松医会」(勝山努会長=当時)の支援を取り付けた。
蟻高の卒業生、杉江(旧姓・遠藤)陽子さんは蟻高同窓会と折衝し、同窓会は、谷垣君の活動を支えた第3回卒業生の静子大先輩に感動し、こう回答してくれた。
「16点の保管は物理的に無理。しかし、1点の寄贈を受けつけ、2019年夏の文化祭『蟻の星☆展』で全作品を展示する」。
実現すれば、蟻高卒業生で文化勲章授章者の草間彌生の作品と並び、静子さんの作品も同窓会館に展示されることになる。
NPO「アジア・アフリカにおける医学教育支援機構」(東京都新宿区、熊谷義也理事長)は静子さんの作品をニジェーから空輸し、東京を経て松本に輸送してくれた。テッサワを訪問した経験のある谷垣君をよく知る先輩医師、東璋(ひがし・あきら)さん、それに藤森英之さんは展示のアドバイスをしてくれた。
谷垣君の出身地、京都府京丹後市峰山町の同級生らが組織し、谷垣君を支援してきた「谷垣雄三医師を支援する会」は写真やテッサワ訪問記などの資料を提供してくれた。

パイロットセンターで研修経験のあるN病院(千葉県柏市)医師のSさんは、治療する谷垣君の貴重な写真を提供してくれた。
谷垣君の活動は、こうした写真を27枚のパネルに貼り、信大医学部、勤務医、アフリカ・ニジェールの各時代を柱に紹介している。
医学部時代ではワンダーフォーゲル部での北アルプス登山、インターン制度撤廃、医師国家試験ボイコットを繰る広げた学生運動を取り上げている。
ニジェールでは首都ニアメの国立病院外科医、国立大医学部教授からテッサワに移り、自費でパイロットセンターを開設し、医療の改善に乗り出した。そのさなかJICAの医療専門家としての任期が終了し、苦境に立つ。支援の輪が日本国内で広がり、それらの人に支えられ活動を続行する。
そうした谷垣君を支えながら、静子さんは、砂漠で生きる人たちの姿、生活をスケッチし、油絵にして描き続けた。ニアメのフラン文化センターで個展を開いている。

企画展スライド用1

《写真をクリックすると関連写真をスライドショーでご覧になることができます。》

 高知県からも来場

企画展への入場者は、あがたの森文化会館で奉加帳を置いたところ、184人の記入があった。開催期間5日間の1日平均の入場者は36人。記入しない人もおり、1日あたり50人前後が入場したと考えられる。
多くは松本市を中心に県内だが、東京や横浜市、千葉県、名古屋、金沢市、遠いところでは高知県四万十、宿毛市からの人もいた。全国高校総合文化祭(高文祭)が松本市で開かれており、その参加者と思われる。谷垣君と現地で交流のあった元青年海外協力隊員も当時を懐かしみながら鑑賞した。

 あふれる「感激」の言葉

感想ノートには「感動」の言葉にあふれていた。一部を紹介したい。
「(谷垣先生の)学生時代からの生き方に感動した。そしてついて行かれた奥様にも同じ感動を覚えた。数々の写真、絵に接し、感動を新たにした」
「すばらしい2人を知ることができ、自分のこれからに生かしていきたい。松本の空気をいっぱい吸って懐かしい昔に還(かえ)ってください」
「娘がニジェールでお世話になり、うかがいました。奥様の絵から現地の風土が見て取れ、深い思いが伝わってきます」
「谷垣先生を『日本のシュバイツアー』と賞賛します。立派な業績を残されました。奥様の絵画も技術、色使い、特にブルーの色使いと光の描写に感心しました」

 アマチュアの域越える

名古屋市から駆けつけた画家飯田晋弥さんは静子さんの作品、JICAニジェール支所からデータで届いた77点の全作品を鑑賞してこう評価した。
「細部までしっかりと描いている。アマチュアの域を超えている。(同窓会館で)草間彌生の作品と並び展示しても決して見劣りしない」
静子さん、この言葉が聞こえましたか――聞こえたら、それは谷垣君からのプレゼントです。

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