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外科医 谷垣雄三物語

信州大学のワンダーフォーゲル部で谷垣Dr.の同期生、川本Mr.が谷垣Dr.の関係者(協力者、友人、知人そしてご家族)のお話を伺い、冊子にまとめてくれた「ニジェールの外科医 谷垣雄三君」。谷垣Dr.の生きた道を経年的にたどることができ、時間と場所が異なりながらも各々の出来事のつながりも見出すことができます。約80ページの長編です。

文中の氏名や写真については、承諾を得た方を除いて、A Mr. , B Mis.等のイニシャル表示に変換して掲載させていただきます。

谷垣君1

はじめに

定規で1本の線を引き、その上をそれることなく進んでいく――谷垣雄三君は、そんな生涯を送った。医師として35年間、アフリカ・ニジェールで貧しい人々の医療に尽くし、2017年3月7日、75歳の生涯を閉じた。

「そのような人を君づけするのはけしからん」と怒る声が聞こえてくるのを覚悟して筆を執った。私たちは、谷垣君とは信州大学時代、ワンダーフォーゲル部員だった。ザックを背負って信州の山を歩いた。学部は異なるけれど、君付けだったり、呼び捨てだったりしてさまざまだった。なかには「谷やん」と呼ぶ仲間もいた。

それを今さら「谷垣先生」とか「谷垣医師」では、他人行儀になってしまう。「谷垣君」と呼ばせていただくことを許していただきたい。谷垣君も許してくれるだろう。

われわれは、卒業してから50年以上を経ているのに、OB組織「波里美知(はりみち)会」をつくり、時折、顔を合わせている。谷垣君は一時帰国すると、必ず声をかけてくれた。

最後に会ったのは読売国際協力賞を受賞した2009年だった。文理学部のあった松本市の「あがたの森公園」に集まり、学生時代を懐かしんだ。さらに市内で営業する先輩の飲食店で会食した。

谷垣君の死はわれわれの大きなショックだった。そんな仲間意識の視点から、谷垣君の業績が書けないものかと、考えたのがこの冊子だった。自分の力を顧みない大胆不敵な挑戦であることは承知している。谷垣雄三・静子さんの冥福を祈る気持ちがゆえの暴走としてお許し願いたい。

2017年9月

著者・川本 晴夫

第一部 京丹後市峰山町

ヒマワリの大輪となる
「ONがヒマワリならオレは月見草」

こう言ったのは、プロ野球・南海ホークス(現・福岡ソフトバンク)捕手として三冠王を成し遂げ、阪神などの監督を務めた野村克也氏だ。ONは、巨人の王、長嶋元選手のこと。

1975年5月22日、対日本ハム戦で、シーズン9本目、通算600本のホームランを放ったときのコメントである。

「オレは王選手に次ぐホームラン記録を樹立しても、王選手や長嶋選手のように華やかな称賛を浴びない。2人がヒマワリなら、オレはそっと咲く月見草さ」こんな意味合いで語ったのだろう。

野村氏は、谷垣雄三君と同じ京都府立峰山高校の卒業生。出身は、野村氏が網野町、谷垣君が峰山町。両町とも周辺の自治体と2004年(平成16)4月に合併して京丹後市となり、野村氏は同市の名誉市民になっている。

丹後の人たちはそんなに謙虚で控え目なのだろうかと、冒頭のコメントで思い込んでしまう。

谷垣君は確かに謙虚だった。しかし、意思は人一倍、堅固だった。谷垣君を知る先輩医師はこう語った

「寡黙で思いにふけり、行動になると、実に果敢。こうと決めたら、まっすぐにそれに向かって突き進み、予想もしない大きなことをしでかした」

谷垣君は、地元の幼稚園から高校へと進み、信州大学医学部を卒業。外科医となると、1992年(平成4)アフリカ・ニジェールに渡った。35年間、貧困にあえぐ人たちの外科治療にあたり2017年3月6日(日本時間7日)生涯を閉じた。享年75歳。

ニジェールの医療の自立をめざし、首都ニアメから地方の村、テッサワに移り住み、私財を投じ2つの病院を建て自らが信じる治療を試みる一方、ニジェールの外科医の養成に乗り出した。

谷垣君を支えた妻の静子さんは帰国の夢がかなわず死去し、現地に眠る。谷垣君は「静子を1人で置いていけない」と、決意通り、静子さんの横に眠っている。妻を思う気持ちも、だれも寄せ付けない熱情そのものだった。

自己犠牲の壮絶な人生ドラマを描いたニジェールの外科医「ドクター・タニ」。描いた人生ドラマはヒマワリの大輪そのものだった。そっとそっと咲く月見草とは、町民のだれも思っていない。今も訃報に涙をこらえている。

丹後は「丹後ちりめん」の産地として知られる。網野町、峰山町には、機織りする「機屋(はたや)」があちこちにあった。

野村氏は「着物が主流の時代。ほとんどの家庭に機織り機があり、朝早くから『ガチャン、ガチャン』という音が聞こえてきた」(「無形の力」日本経済新聞社)と、少年時代を振り返っている。その機屋は化繊に押されて今は昔の1割ぐらいという。

ここで高校時代まで過ごした谷垣少年は、成績は常にトップクラス。静かな性格からみんなに慕われ、日曜日になると、友だちとキリスト教の日曜学校に通ったという。

谷垣君がニジェールで、自分の医療理念に大国の支援が立ちはだかり、ピンチに陥ったとき、たちまち同級生が「支援する会」を作り、谷垣君の支援を続けた。子どもたちも声援を送った。

「テッサワの丘」訪問

谷垣君の業績をたたえる碑があると聞いたので、2017年8月20、21日、友人たちと峰山町を訪れた。谷垣君とは学部こそ違え、筆者も含め3人は同じ1961年(昭和36)に信州大に入学したワンダーフォーゲル(ワンゲル)仲間である。

×    ×

信州大は医学部、文理学部は松本市、農学部は伊那市、工学部は長野市、教育学部は松本、長野両市、繊維学部は上田市と、長野県内に散在し、〈タコ足大〉の異名は、ここに由来する。

ただし、医、農、文理、工の4学部は、教養課程を1年間(医学部2年間)、旧制松本高を前身とする文理学部で学んだ。キャンパスにケヤキの大木が茂る「県(あがた)の森」があり、シンボルになっていた。

ワンゲルの部員の私たちは、県の森を拠点によく集まり、トレーニングした。合宿が始まると、ここに食糧や備品をそろえ、準備する。米、野菜、ザックの重いテント、大きなナベやヤカンを一人ひとりに分配し、それをザックに詰め込んだり、しばりつけたりした。パッキング(荷造り)である。

こうして信州の山々を歩いた。テントで結ばれた仲間といったところか。

×    ×

峰山町は、日本三景のひとつ、観光地の天橋立に近かった。

山陰本線「天橋立駅」で京都丹後鉄道宮豊線に乗り換え、5つ目の駅が、峰山町の玄関「峰山駅」。観光地を控え、しゃれた観光列車が走る。駅舎も丹後ちりめんをイメージしたというしゃれた橋上駅。2階の改札口を出ると、ガラス張りの待合室があった。

谷垣君を支援してきた谷垣君と同級生だったHさん、Tさんが迎えにきてくれた。筆者と友人は、その待合室でお礼とあいさつの言葉を交わした。

「私たちは幼稚園から高校まで谷垣さんと一緒だったのですよ」と2人は口をそろえた。Hさんからは、「私は誕生日も谷垣さんと同じなのです」と聞いたときには驚いた。

谷垣君の初盆はすでに過ぎていた。18年前にニジェール・テッサワで、妻の静子さんが亡くなり、静子さんが眠るわきに埋葬された、と新聞が速報した。妻とともに眠るのは、覚悟の上だったということをこのとき、われわれ仲間は気づいた。

 遺骨がなくても初盆はあったのだろうか、などと考えていたところ、谷垣君にエールを送り続けてきた「テッサワの丘」が町の公園の一角にあることをHさんへの電話で知った。

テッサワは谷垣君の活動の拠点であり、支援してきた同級生たちは、2004年(平成16)3月、公園の小高い丘に3本の桜を植え、同年11月、石碑を建てた。そこをテッサワの丘、碑を「友情の記念碑」と呼んでいた。

不覚にも知らなかった。とたんに碑を訪れることを思い立った。碑の前に立ち、手を合わせるだけでも、谷垣君の霊の慰めになるのではないか、と考えたのだ。

さすがに機(はた)の音は、聞こえこなかったが、低い山を背に住宅が建ち並ぶ静かな町だった。車で案内され、約5分で「峰山総合公園」に。公園名を記した横長の看板のすぐ横にテッサワの丘があった。谷垣君が亡くなるまでの15年間、支援してきた同級生の女性7人が待っていてくれた。

エールの桜、友情の碑

植樹した桜の木は3本。品種は、3色に変化する枝代わりのスマウラフゲンゾウ(須磨浦普賢象)。2004年(平成16)3月、古里の支援の声援が届くよう同級生有志が費用を出し合い植樹した。同年11月に、桜の木のそばに石碑を立てた。「友情の記念碑」の名が生まれた。大きさは幅1.4㍍、高さ63㌢の御影石。エールの言葉がこう刻まれている。

「アフリカの大地にて/志貫く谷垣医師へのエール/この桜に託す」

3本の桜には、それぞれ名前がつけられ、表示板を立て同じようにエールの歌を記している。

〈友情の桜〉「ニジェールと峰山を結ぶこの桜/ドクタータニを守れと祈る」 

〈テッサワの桜〉「峰山にテッサワの桜あり/テッサワに峰山の門あり/共に時を越えてあれ」

そして、静子さんへの〈祈りの桜〉。

「医に生きる夫を支えし静子夫人/安らかなれと祈りの桜」

 谷垣君の訃報が舞い込むと、同級生たちはすぐに碑に献花し、冥福を祈った。日本海から吹き付ける風がまだ冷たい3月9日だった。

写真:峰山町 テッサワの丘にある「友情の記念碑」

友情の記念碑

お別れの「偲ぶ会」

2017年(平成29)4月2日には、峰山町の峰山地域公民館で「谷垣雄三君を偲(しの)ぶ会」が催された。会場には、谷垣君の在りし日の写真を掲示したパネルが展示された。開催を知らせるパンフレットには、現地の人と交流する姿や一時帰国したとき、静子さんの〈祈りの桜〉の脇に立つ姿の写真を紹介していた。

「毎日新聞地域版(4月3日付)」は、そのときの参加者の偲ぶ声を取り上げている。

「(一時帰国したときの表情は)厳しい環境で生活しているとは思えないくらいキラキラ輝いていた」

「谷垣さんは小学生のとき、野口英世の伝記を読んで感銘を受けたと興奮して語りかけたことがあった。あの感動が医療を目指し、高貴な信念をもつようになったのでは」

あれから5か月。桜はすでに散り、青々と葉が茂り、夏草がテッサワの丘を覆っている。真っ青な空に夏の雲が浮かんでいる。

「谷垣君のような人と机をならべて勉強ができたのは幸せだった」とTさんはしみじみと語る。

Hさんは「谷垣さんと誕生日が同じだと知ったのは、小学校のとき。谷垣さんから『誕生日が同じだね』と声をかけられ、初めて知った」と言う。「驚きました。でも、そのうちに谷垣さんは総代になって壇上に上がったりするようになり、同じ誕生日なのにずいぶん違うなあと思ったものです」と苦笑した。

通信簿知らずに育つ

谷垣君は学校の成績は群を抜いていたと、だれでも口をそろえるが、通信簿を見ないで育ち、通信簿ないと思っていたほどだった。後年、功績をたたえる大賞を受けたことへの感謝状の中で、それを明かしている。父親が大切に保管していて2010年2月、まとめてテッサワに届いたという。
 「自分の成績に溺れるな」という戒めだったのか、父親の意図は不明だが、初めて通信簿を見て、教師が一生懸命に書いてくれた美しい、しっかりした文字に感激している。

「もっと生きていてほしかった。あとわずかで、桜はグリーン、黄色、ピンクの花を咲かせる。その香をテッサワに届けたたかった」。

テッサワの丘に集まった同級生9人は、こんな同じ思いに浸った。

募金箱が結ぶ支援の輪

さて、谷垣君への支援活動が起こったのは、本当に偶然だった。偶然の上に「機屋(はたや)の町」という地縁のぬくもりで、育くまれた友情がそれに火を付けた。

テッサワの丘を案内してくれた一人がこんな話してくれた。

「峰山町の出身で鎌倉市に住む女性が、都内の医院で受診したところ、『アフリカ・ニジェールで医療活動をしている福知山市出身の谷垣雄三医師への支援をお願いします』と書かれた募金箱に気づいた。谷垣医師なら峰山町出身のはず」と首をかしげた。

それが同町の肉親に伝わり、さらに肉親、近所の人へと広がり、Hさんら同級生の耳に入った。「峰山町出身の谷垣雄三医師」と確認すると、幼稚園~高校の同級生約20人が「谷垣雄三医師を支援する会」(代表・Sさん)を結成し、支援活動に乗り出した。2002年(平成14)8月のことだ。

女性が谷垣ボックスを見たのは、NPO「アジア・アフリカにおける医学教育支援機構」の理事長である医師Kさんの医院だった。当時、谷垣君はJICA(国際協力機構)からの派遣期間が過ぎ、これまでのように更新されず、資金的に苦しい事態に追い込まれていた。NPOは早くから谷垣君を支援し、「ニジェール、谷垣先生を支える会」を設ける一方、銀行口座を設けて寄付を募っていた。

また、横浜港北ロータリークラブ(横浜市)は2001年(平成13)、クラブの創立40周年を記念し、募金箱「谷垣ボックス」を首都圏各地の病院に置いた。千葉県柏市のN病院にも置かれた。

この募金箱の設置を提唱したのは横浜市で開業していた整形外科医・Hさんで「100か所ぐらいに置かせていただいた」と話す。

Hさんは、信州大医学部を卒業した谷垣君の先輩。学生運動のあと、浪人していた谷垣君を自分が勤務する埼玉県の小川赤十字病院に迎え入れ、指導した人である。

Kさんは谷垣君のアフリカ行きのきっかけを作り、アフリカの谷垣君の指導・支援を続け、谷垣君の恩師ともいえる人である。亡くなる直前まで谷垣君の病状を日本から見守った。

とにかく、峰山町出身者の見た「谷垣ボックス」がKさん・Hさん・横浜港北ロータリークラブ・峰山町の人々を固い支援の輪で結び付けた。

タオル、古新聞送る

「支援する会」は、谷垣君がガーゼの代わりに手術で使うタオルや古新聞を求めていると知ると、「家庭で眠っているタオルをぜひアフリカに」と広く呼びかけた。

地元の小中高生をはじめ、全国から続々と寄せられ、支援する会のメンバーは公民館などに年に数回、集まってそれらを1枚、1枚を使えるかどうか点検した。合格した品は梱包し、テッサワの谷垣君の元に送った。

こうして送ったタオルはダンボール箱14.5(1箱30㌔)、古新聞(手術に使う手袋、縫合糸含む)37.5箱(1箱同)に上った。タオル、古新聞は「在庫十分」という連絡で2011年(平成24)、輸送を取り止めた。

寄金は、谷垣君の活動に共鳴した全国の個人、団体から寄せられ、NPOを通じて一括送金された。

谷垣君の死去に伴い、偲ぶ会を契機に事実上の活動にピリオドを打った。支援する会は、この総決算を支援者に報告するとともに、活動を指導してくれたKさんに感謝の言葉を添えた。

盛大なタオル引き渡し式

谷垣君は支援してくれた子どもたちや学校にきちんと礼状を書き、感謝の気持ちとともに、それをどのように使っているかを報告している。さらにタオルに現地の人たちがいかに喜んでいるか、タオルの引き渡し式の様子をDVDに収め、送っている。

それが「支援する会」に残る。会場は、谷垣君が働く病院、テッサワのパイロットセンターの庭。何百人という住民が集まり、タオルをこん包した段ボール箱を囲み、太鼓を打ち、踊り、お祈りをする。まるで祭りだ。

谷垣君もネクタイ、背広姿が参加し、フランス語と日本語であいさつし、式のようすを説明している。

この盛大さに谷垣君自身も驚いている。真っ白なタオルはテッサワでどこを探してもないし、手にした人々にとっては初めて見るものだから、盛大さにつながったと、谷垣君は、学校への礼状の中で述べている。

ちりめんとキリスト教

さらに教師あてへの別の礼状の中で、ニジェールの医療活動に取り組むようなになった動機や心情を、次ぎのように語っている。

「丹後はちりめんの産地として創業の困難な時期を助け合って乗り越え、新しい文化が創りだされました。その中で神戸とか大都市では、ふれることが出来ても、一般の地方の町にはないキリスト教会が、成功された有力者の支援により、峰山に地に導入されています。その峰山キリスト教会での教えにふれたことが大きいと思います。

このように私は丹後の文化と共にあり、決して特殊なものではありません」

自分の行っていることは、助け合う古里のちりめん産業の文化と、キリストの教えに触れ、身についた、ごく自然な行為だという。

支援物資

畏友

支援を続けたメンバーと話をしているなかで、谷垣君と同級生のUさんの名前が挙がった。

京都大法学部に進み、卒業後は東京地裁などの裁判官を務めて東京高裁の調査官を経て金沢地裁所長、東京高裁判事を最後に退官、その後は京都大大学院法学部教授となった。

東京地裁裁判長だった1996年(平成8)、東京HIV訴訟を和解に導いたことで知られる。

2004年(平成16)3月、急性肝炎のため62歳で死去した。

Uさんは亡くなる1年前に谷垣君を「畏友」と冠し、ニジェールで献身的な医療を続ける谷垣君をたたえる一文を地元紙に寄せている。

中学時代は谷垣君と一緒に通学し、「毎日何を話していたか忘れてしまったが、口数が少ないけれども、謙虚で思慮深い彼に尊敬の念を抱いていたのは間違いない」と記している。

その畏友の活躍・支援に気に留め、「故郷の丹後では、支援活動は知られなかったが、支援の会が発足すると、活動の輪が急速に広がった。わずか1か月半で400万円の寄付金が集まった。地元紙の報道で、峰山中生徒会は手術用タオルを集め、峰山小、高校にまで広がった」と記している。

大学時代は2人で槍ヶ岳に登っている。1963年(昭和38)11月のこと。谷垣君は医学部の専門課程の1年生。Uさんは京大法学部の3年生。

11月の槍ヶ岳はもう冬だ。下山すると谷垣君の下宿に泊まった。その夜、2人はジョン・F・ケネディー米大統領(当時)が米ダラスで暗殺されるという衝撃的なニュースをラジオで聞いている。

「信州大学松本ワンダーフォーゲル部員名簿」(38年度)の資料によると、当時の谷垣君の下宿は「松本市里山辺上金井、金井泉方」。松本平の美ヶ原山系の「東山」が広がる丘陵地にあり、常念岳をはじめ、横通岳、大天井岳などの北アルプスの一大パノラマが臨める。その下に松本の市街地が遠くに広がっているのが見える。

Uさんは古里・丹後とは違う山容に感動したに違いない。

この下宿先については「第二部」で、さらに触れたい。

北アルプス


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