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第三部 病院勤務時代と山

勤務病院でウデ磨く

試験会場に行きながら、信大受験生うちただ1人、1968年6月の旧制度による医師国家試験をボイコットした谷垣雄三君。安田講堂事件のあった翌年の1970年(昭和45)、受験して医師の資格を得た。登録番号から同期生がそう断定する。通算3回、ボイコットしたことになる。ところが、そのあとの谷垣君の足跡は1970年暮れ、小川赤十字病院(埼玉県小川町)に姿を見せるまでの約1年余の足跡ははっきりしない。一緒にボイコット運動をしていた信大青医連の副委員長2人はすでに泉下の人となっているからだ。それが、順天五明堂病院(長野市)に勤めていたことが明らかになった。飯野海運の船医をしていたことも明確になってきた。「夫は、神戸港に寄港した際、谷垣先生に会いに行きました」こう話すのは無二の友、西田正孝君の妻、親子さん。その西田君もすでに故人。 医師となっても、勤務する病院はなく、谷垣君は土木作業などもして糊口をしのいでいたのだろう、と大方の人は推測する。東大青医連は、医学闘争のあと、勤務する病院もなく、浪人している谷垣君のような青年医師の救済に乗り出した。一人ひとりを見つけ出し、働く病院をあっせんした。谷垣君にも声がかかり、1971年(昭和46)1月から小川赤十字病院に勤務することになった。この病院で、信大医学部の先輩で整形外科医の東璋(ひがし・あきら)さんが迎え入れた。「空きがなかったので、しばらく待って年明けから勤めるようになりました」と当時を語る。この出会いによって東さんは谷垣君の真摯な生き方に感動し、ニジェールでの医療活動を最後まで支援するようになる。
2009年(平成21)、谷垣君は西アフリカ・ニジェールでの医療活動が評価され、読売国際協力賞を受賞する。東さんは、谷垣君について読売新聞の特集記事(2009年10月20日付)でこう語っている。「医師免許をとったばかりの若者だったが、鍛え上げた立派なからだをしていた。医学部を出てから何をしていたのかと聞くと『土木作業です』と答えた」谷垣君の正直な答えだろう。谷垣君は身長170㌢以上あった。高校時代、ウエイトリフティングをしていたと聞いたことがある。事実、がっちりした体格をしていた。ワンゲル時代、谷垣君と大相撲の話をしていたら、両脇を閉め、腰を低く落とし、両手を開いてすり足で寄ってきたとき、その迫力に圧倒され、たじろいだことを思い出す。

小川病院_谷垣さん1

小川病院_静子さん1

上:同僚医師と一緒に野外の食事を楽しむ谷垣君(右)
下:小川赤十字病院の官舎庭で谷垣君の同僚医師の  
家族らと野外の食事を楽しむ静子さん(右端)


閑話休題。谷垣君は外科を希望したが、外科にはすでに3人いて空席はなかった。外科部長の勧めがあり、同じ信大卒の東さんの下で整形外科と麻酔科から始めることになった。東さんは「松医会報」(平成29年105号)で谷垣君についてこう記している。「寡黙だが、言葉のやりとり行動の端々に並々ならぬ教養の深さと捨て身の覚悟を感じた」「彼は外科の手術、特に救急や時間外の麻酔を自ら進んで担当し重宝がられた」「臨床に腰を据えた先生方に囲まれ、彼には得がたい環境だったと思う」谷垣君は卒業時、静子さんと結婚する決意をしていた。2人がいつ、どうように結ばれたかはワンゲル仲間のだれも知らない。当時、群馬県吉井町に住んでいたワンゲルの先輩で、尊敬する藤巻光夫さん宅に、ふたりは結婚のあいさつに訪れている。1973年(昭和48)の1月頃だったという。しかし、東さんの話からすると、ふたりは、小川町ですでにスイートホームを築いていた。東さんは静子さんの印象をこう語った。「静子さんも、夫の医師仲間の家族と荒川のライン下りに参加したりして楽しんだ」「静子さんは松本市の人。とても礼儀ただしく控え目。元松本藩士の子女としか思えなかった」「谷垣君に連れ添ってアフリカに行きながら、再び日本の土を踏もうとしなかった。士族の子女でなければできないこと」東さんは、最後は新渡戸稲造の「武士道」を引き合いに出し、静子さんの耐えるアフリカでの姿に畏敬の念すら示した。

山へのあこがれ


小川町は和紙づくりの盛んな「小京都」といわれ、山と田園の広がる閑静なところ、と東さんは説明する。
2人はその環境を満喫して結婚後、初めてくつろいだ日々だったのだろう。静子さんは友人にも恵まれ、北海道に行ってからも文通していたという。
そうしたゆとりのなかで、谷垣君には、信州の山への思いが頭をもたげ、行動に移すようになった。医学紛争ですさんだ心がそうさせたのか、それとも山が呼んでいるのか、西田君に次のようなたよりをしている。
「小川赤十字病院でシコシコやっています。これで丸二年やったことになります。急に山へのあこがれが強くなり、少し金にゆとりが出て装備も少しそろいました」
こうしてこの年、登った山を次のように報告している。

▽4月 剣岳への稜線を歩く。初歩的なミスからスリップ2回
▽5月 八ケ岳全山縦走
▽6月 栂池から縦走
▽8月 裏銀座縦走
▽10月 巻機山(越後の山)
▽11月 燕岳~常念岳~蝶ケ岳縦走
途中、吹雪になる。
また、山、人への憧憬をつづっている――「菅平の根子岳にだれもいないなか、雪を食べながら登り、スキーで苦労なく降りてくる。遠い山々の残雪、美ヶ原からの清らかな流れ、桜の舞う川岸、そしてマキさんのロマン派的な思考、これらはぼくの今に影響を与えている」と。

加藤文太郎に感動


谷垣君は、山への想いもトコトン追い求める。一徹な想いは少しも変わらない。それが、厳冬期の裏銀座縦走にまで発展した。
同病院に勤務して4年目の1973年(昭和48)の年末から新年にかけて周りの制止を振り切り挑んだ。無事下山するまでのコース、装備、行動を記録した山行記を病院の医局研究会に報告している。それを西田君に「謹呈」している。行動の動機、周到さと細密さ、果敢さに驚く。
それによると、谷垣君が冬山への強い関心を抱くようになったのは加藤文太郎の『単独行』を読んでからだという。

単独行_本

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加藤は兵庫県の人。昭和初期、単独登山を好み、北アルプスの冬の槍ヶ岳、穂高連峰、常念岳、双六岳、野口五郎岳、それに後立山などを次々と登攀(とうはん)した。その紀行文、記録を収めた『単独行』が単行本、山岳名著シリーズとして発刊され、多くの人をひきつけた。加藤は新田次郎の小説『孤高の人』のモデルにもなった。
谷垣君はこう書き出している。
「この長い間の見果てぬ夢ができあがったのは、12年前に加藤文太郎という、生まれながらの単独行者がいてその不朽の名著『単独行』を読んでからです。その中にとくに感動した厳冬期裏銀単独行のことが書かれていた。雪を掘って小屋に入る話、吹雪の尾根に下る道を探す話、岩に難渋してスキーとザックを別々に運んで進んでいく話など、当時のぼくには天才としか思えぬすばらしいものとして残った」
12年前と言えば、信州大医学部に入学した年だ。読んだからワンゲルに入部したのか、入部したから読んだか、それはどうでもよい。
同病院に赴任してから、谷垣君が山の道具をそろえ始めたことは西田君への手紙でもふれた。
この紀行文でも、「ピッケル、アイゼンをそろえ」と報告し、「(同僚の医師と)2年前から山を始めて山になれ、昨年春、裏銀座単独行をしてある程度(山への)自信がつき、はじめて小川日赤スキー山岳同好会ができた」と、冬山への準備を始めたことを説明している。
しかし、遭難を考えた場合、同好会では対応ができないし、病院に迷惑をかけると、退職の形で冬山に入りたいと申し出ている。谷垣君らしい。
病院も「いくら言ってもあきらめない」と判断したのだろう「手続きも大変だし、だまっていったことにすればいい」と、了承せざるを得なかった。
しかし、友人たちは「行けば死ぬ」と制止した。静子さんの元にも「あきらめさせて」という電話が何本もあった。
風の便りで知った「昔、山をしていた男2人」も断念を迫ってきた、という。
この2人はワンゲル仲間の西田、土田両君だろうか。2人は夏の合宿のあと、そのまま営林署の腕章を巻いて高山植物を守るために監視パトロールのアルバイトをしていた。土木作業や蚕の選定もした。
医学部の試験はハードだ。西田君は試験を終えると、土田君のいた林間にある農学部の中原寮へ息抜きに出掛けた。先輩で寮にいたモンちゃんこと大野晃さん(「限界集落」の概念を初めて明らかにした社会学者)は「あそこは息抜きする所ではなく、学問する所だ」と、皮肉りながら西田君を回想する。
さて、谷垣君は10月に食料品、燃料を三俣蓮華(みつまたれんげ)小屋にデポ(荷揚げ)も済ませ、保険もかけていた。「谷やんよう、お前さんはなあ」「谷垣!」2人の説得は、周到な準備と固い決意の前に及ばなかった、と想像する。土田君は説得したかどうか黙して語らず、「谷垣はすごい男よ」と、何かにつけて畏敬の念を表する。

西田と土田1

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山男に触発される


説得に応じないはず。ある山男のアドバイスを受け、決行の意志をすでに固めていた。山男は当時、だれも考えられなかった厳冬期の一の倉(谷川岳)の登攀を成し遂げた人だという。
谷垣君は「冬山はまったく初めてだが、裏銀をやっていいだろうか」と尋ねた。すると、山男はこう答えた。
「大丈夫だ。冬山というものは一にも二にも体力であって、あとはがんばればいける。人のあとにくっついているだけでは自分の進歩はない。独創的なことをするのには自由な発想ができなければならない。画一化した考えにとらわれていたのではいけない。たとえば、今の右にならえのヒマラヤ行きは、右向け右のサラリーマン根性の延長に過ぎない。若さも自由人としてのおもむきもなくなっている。夢がないといおうか、山の会にさえ自由の気風がうすれている。悲しいことである」と。
この言葉に谷垣君は触発され、生来の頑迷さと純粋さで、山への想いが一挙に挑戦的となった。
「人間はあらゆるもの手許に置き、いのちをながらえたいと願うものである。山もその延長で――」
「初めて雪山にテントを張りにでかけた時には特大のザックがもちあがらなかった位(ぐらい)だった。そうした定着の思想にズブズブにひたりきったぼくにとって、それからいかに脱却するかが一番の問題だった」
「定着の思想からさすらいへの転化がいかに困難か――」
そして「寝袋がなくても、行動している服のまま寝るという山行をきいたときに決定的な影響を受けた。こうしたことが冬山単独行を可能にした」

のちのニジェールへ行く決断は「さすらい」だったのか。この冬山への燃えるような想いにそれを発見する。
医師・谷垣君とは筋を外れると知りながら、縦走記録を再録したい。ワンゲル仲間には45年ぶりに触れる裏銀冬季縦走の〝真相〟である。

裏銀座冬季縦走記録

山男を精神的な支えに1973年(昭和48)年12月28日、小川町からザックを背負い出発した。谷垣君32歳。
実はもう1人の仲間と一緒だった。朝のランニング、12月15、16日の偵察行を共にした仲間である。
1人と2人では計画がまったく異なってくる。ラッセルで進む距離も2人
だと1人の倍になる。「1人なら1人、2人なら2人で行きたい」と考えていた。結局、仲間は烏帽子岳で下山するということで同行を受け入れた。
コースは、「懐旧譚」で紹介した裏銀縦走とはとは逆。ゴールインした大町駅で下車して入山し、野口五郎岳→鷲羽岳→三俣蓮華→双六岳→西鎌尾根→槍ヶ岳→上高地。冬季だからバスは走っていない。上高地からさらに沢渡(さわんど)まで歩くことになる。以上がコースの概略。
報告文のうち「縦走記録」(要旨)を紹介しよう。
▽12月28日 午後3時52小川町を出発、午後11大町着。午前0時30温泉。
▽12月29日 正月休みで誰もいないと思って入った濁の東電ダム作業小屋に人がいて追い出される。積雪1~1.5ぐらい。ラッセルして「ぶなたて尾根」に取り付く。午後7時、ビバーグ中の2人に出会う。星空。
午後9時20分~午前0時たき火して休む。雪が降り出す。氷点下7度。午前3時、雪がさらに積もる。ビバーグ。雪を掘るスコップの先がなくなる。ツェルトを木に張り、そのまま寝る。寒い。
▽12月30日 午前6時起きる。雪はさらに積もる。昨日、食べたものを吐(は)き出す。同8時出発。正午までに高度100㍍しか進めない。食べられるようになり、ラッセルを仲間と交代できるようになる。270㍍詰め、稜線に立つ。烏帽子小屋に入る。2人連れが来た。チーズやコーヒーなどをもらう。マキが用意してあり、火をたき、濡れたものを乾かす。夜10時寝る。暖かかった。
<ラジオ故障 予報聞けず>
▽12月31日 午前4時起床。昨日食べたものをまた吐いた。食べ過ぎたらしい。同5時の気象通報を聞こうとしたが、ラジオが鳴らなくなった。同6時20分出発。晴れ。烏帽子小屋から約1時間、仲間のあとを追うだけだったが、ラッセルに苦しんだ。同10時20分、野口吾郎小屋に着く(仲間とは烏帽子まで一緒の予定だったが、野口五郎までとなった)。
ビスケットをかじり、雪を溶かし、水を作る。同11時、出発。仲間が途中まで送ってくれた(仲間はその日、野口五郎小屋に泊まり翌日、下山した)。
午後1時30分、狭い切り立った尾根に入る。一方は東沢谷、一方はワリモ沢。立山あたりから曇ってくる。生暖かい風がふいたと思うと、雪が降りだし、吹雪となった。
こうなると、がけの上にある雪っぴと雪の舞っているのと、見分けがつかなくなる。谷から吹きつける風は強く、岩から不用意に体を乗り出すと、吹き飛ばされそうになる。
視界がなくなってくる。岩だけが目標となる。2㍍、3㍍と進んでいく。雪はめがねにあたり、ますます方向がわからなくなる。めがねを取ると、まゆげが凍りついてきた。
口もとのヤッケに、吐く息が凍りついてゴワゴワした。風で息ができなくなる。心の中にはほとんど不安も寒さも感じなかった。
日暮れ直前の午後4時30分、水晶小屋(2900㍍)を見出した。石を積上げた小さな小屋。雪が半分ぐらい入っていた。
扉は、ベニヤ板に1寸角材を張り、立てかけてあるだけだった。扉に15㌢×30㌢の穴がていねいにも開けてあった。中からピッケルでつつくと、10㌢のすき間ができた。到着時の気温は氷点下12度。
寝る用意をした。インスタントの味つけ飯はまずくて食べられなかった。
風はネズミが走るような音をたてていたが、だんだん小屋が吹き飛ばされるような強さになった。飛ばされたら、それまでのこと、そこまでは心配することはあるまいと考えて寝た。
ラジオはどうしてもつかなかった。今夜はおおみそかだ。風はますます強くなった。雪がすき間から入ってきた。
それでも夜はなんとかすぎていった。
<元旦 残してきた妻に涙>
▽1974年1月1日 朝7時に目がさめた。風は相変わらず強い。こんなに強い風がふき、雪風の入る小屋で11時間も寝られたことを感謝する。すぐに朝メシのことを考え、赤ん坊のにぎりこぶし大のインスタントおしる粉をあたためて朝食とした。
ソラ豆大のモチを口に入れたとたん、そうだ、今日は元旦なのだと気づいた。すると、家に残してきた妻のことを思い出した。今ごろどう元旦の朝を過ごしているだろうか。ぼくが山に入っている間、どこにも楽しんでいく気にならないと言っていた。一人で元旦の朝を迎えさせてしまったと思うと、急に悲しみがこみあげてきた。それに雪と風の舞いくる小屋と明日からの天気もわからないことが手伝ってか、悲しみがほほを伝わった。しかし、おしる粉がさめないうちにと、また食べはじめた。それで朝はすべてだった。
天気予報が聞けないので、外に出てみた。強風で視界はなかった。
午前11時頃、少しよくなってくる。正午、昨日、越えてきた方向から晴れてきた。もう出発だ。あわててカンパンを食べて出発の用意。午後1時、出発。雪は強風にあおられて少なかった。アイゼンをきかして進む。ワリモ岳にきたとき、夏道通りと喜んでかけ出してしまった。
<ザックもろとも転落>
地図通り(今から思うと地図の道が間違っていたとのだと、思うが、その日の朝、見た印象があまりにもつよく)道なき岩をおりていくと、ますます急になった。1.5㍍ぐらいの溝(深く切れ込んで下に続いていたる)を飛び越えた。するとザックの重みに引かれて、岩から手が離れ、転落した。うまいことにザックから岩かどに落ちた。勢いはますますついて宙返りしてさらに岩かどにザックから落ちた。今度は止まるかなと思ったが、やはり勢いがついて落ちた。落ちながら、転落とはこんなものかと思うだけでとくに絶望的な気持ちはなかった。3度とも、不思議なことにザックから落ちて岩かどに止まった。手足は動く。骨折はない。頭も打たなかった。助かったと思った。
ふと山々を見ると、黒部最奥の山々が真っ白に浮かんで見える。今日は正月だなとまた思った。
ワリモ岳を越え、鷲羽岳の下りで槍ヶ岳が見えた。天気は完全に回復している。明日の昼までは持つだろうと思った。
三俣蓮華小屋はガスの中でなかなか見えなかった。中は角砂糖のように雪が積もっていた。とても入れそうにない。
この小屋には昨年10月、荷揚げ(デポ)しておいた1週間分の食糧とガソリン10日分(2㍑)がある。夜になった。あきらめようと、10㍍ぐらい行ったところで、待てよ、三俣の小屋には必ず寄ると言ったではないか、このままでは素通りにはできないと、思い直し、ここに泊まることにした。
(扉から中に入ろうと)雪を掘った。いくら掘っても雪があることに気づき、次の部屋の扉を目指して掘った。3㍍ぐらいの雪穴をあけ、扉にたどり着いたが、扉はびくともしない。日は落ち、風は地吹雪となって吹き寄せる。今夜は雪の中と、あきめらた。
それでもと思い、小屋のまわりを回ってトイレの高窓の丈夫なトタンの雨戸をピッケルであけた。なんとか雨戸はあき、カギがかかっていなかったので、入ることができた。
そして雪に埋もれていた荷揚げ用のカンカラを取り出すことができた。
その夜はガソリンをがんがんたいてローソクは2本つけ、ラーメンを食べた。荷揚げしておいた1枚板の越後モチは、がちがちに凍って割れなかったので、そのままにした。
羽毛服を着てザックに足を入れて寝た。9時を過ぎていた。あまり食べていないうえに、穴掘りなどをしたためか疲れていた。
<輝く黒部源流の山々>
▽1月2日 朝3時に起きた。トイレから星が見えた。寒かった。凍ったロングスパッツ(靴の上にかぶせる防寒用具)のチャックが壊れて手の爪を少しはがした。外に出た。地吹雪でなにも見えない。星も見えなかった。同6時まで(天候の回復を)待った。(その気配がないので)また寝た。
 同8時。真っ暗な部屋のふし穴から外を見たが、それほどいい天気と思われず、また寝た。
 同9時。おや光が差し込んでいる。ふし穴をのぞくと青空が見えるではないか。失敗した。なにするのももどかしく出発の準備をした。荷揚げした分の食料、ガソリンは置いておくことにした。
ラジオが故障したばっかりに、絶好のアタックチャンスを逃してしまったあせりが駆け巡った。
外に出ると、真っ白な三俣蓮華岳、鷲羽岳、祖父岳などの黒部源流の山々、雲ひとつない青空に輝いていた。
三俣蓮華岳、双六岳のピークを踏み、双六小屋に着いたのは午後零時半を回っていた。
ここで初めて10人ぐらいのパーティーと出会った。テントを張って山をながめていた。3日かけて新穂高温泉から弓折岳を通ってきたという。明日は下山の予定だそうだ。
まず、天気のことを聞いた。明日も持ちそうだとのこと。安心した。
1人だけの女の子がお茶の残りを持ってきてくれた。おいしかった。たとえがたい。カマボコも食べさせてくれた。これがまたうまかった。お礼にガソリン1㍑とビスケット1袋を渡した。ここまでくれば何もいらないと思った。
槍ヶ岳を目指して出発。槍に続く西鎌尾根には、踏み跡もなく、これから幾時間かかるともしれなかった。明日やればいい、最後にきて無理することはない。どうにもならないときには、この屈強な10人衆のうしろについて下山しようと思い、また元の道を下って双六の小屋にもどった。
双六小屋には2階から雪を掘って入った。小屋の中には雪はわりと少なかった。
うす暗い小屋から飛び出して夕暮れの山々を見た。双六の池は雪に埋まっており、その向こうに真っ白な弓折岳、笠岳が続き今日、越えてきた三俣蓮華岳、双六岳は夕暮れに一段と白さを増し、静まり返っていた。10人のパーティーもテントの前でいつまでも暮れゆく山をながめていた。
夕飯にアルファ米を炊いたが、ほとんど食べられなかった。ベーコンをあぶって食べた。この世のものと思われぬほどおいしかった。
お茶を沸かしていると、3人のがっちりした男が息をきらして入ってきた。お茶をわけて話を聞けば、新穂高温泉から弓折岳を越えてきたという。ベースキャンプ、キャンプ№1、№2をつくって3日がかりだったという。残してきた仲間とトランシーバーで交信していた。
明日は下山だぞ、あるもの全部を処分しようと、パクパク食べていた。そのうち、紅茶を飲ませてくれた。本当のモチの入ったおしる粉を食べさせてくれた。おいしかった。
<尾根にカモシカの足跡>
▽1月3日 朝4時50分、ゆっくり起きて支度する。西鎌尾根にそなえてアイゼンをとくに工夫して緩まないようにした。夜明けとともに小屋を出た。3人もすぐあとから出たが、戸を閉めないで行ってしまった。ザックを降ろして扉を閉めて出発する。10人のパーティーも出発の準備をしていた。
西鎌尾根には誰の踏み跡もなかった。空は晴れていたが、尾根筋には強い風が吹き、地吹雪となり前が見えなくなった。四つんばいで歩くことが多くなった。膝上まで新雪が積もり歩きにくかった。カモシカの歩いた跡を見つけた。少し怖い所もあったが、難なく通過する。夏なら3時間のところを8時間もかかった。槍には中崎尾根から登ったラッセルがあり夏のコースタイムでいけた。
槍ヶ岳の登りも少しになると、これで安心だという気持ちが強くなった。
槍ヶ岳肩の小屋に着いたのは午後4時30分だった。
槍ヶ岳の夕暮れにうす緑の影ができるのを初めてみた。遠い富士はじめ、中央・南アルプス、八ヶ岳、乗鞍、御岳、立山いたるまで、一望のもとに見え、とりわけ真っ白な黒部最奥の山々の美しさにみとれた。
小屋には誰もいなかった。一人で過ごすのはやりきれなくなり、午後6時、雪が凍り始めた頃、槍沢を下った。後から雪が落ちてきそうで一目散で駆け下りた。午後11時、横尾避難小屋に着。泊。
▽1月4日 朝5時に起き、上高地を経て沢渡まで、雪の道を歩き午後4時着く。          (了)


山男に「無償の心」学ぶ


「了」にあたり、「この山行を認め、アドバイスをしてくれた」山男に、次のような感謝の言葉をつづっている。これを削除したら谷垣君の想いが伝わらない。原文のまま添える。
「山を求める自由さと未知への探究心を何らそこなわないで生かしてくれた偉大さにはじめて岳人の心をかいま見た気がした。
出発前の日にどんなところでも必ず助けに行く。雪洞を掘って生きていてくれといってくれ、そしてその心は私(山男)にかえすのではなく、いつでもその心を用いなければならないときに無償で開くことを教えてくれた」
谷垣君は北海道に渡ってからも山を楽しんでいる。しかし、山への想いが、こんなに燃えたのはこれがピークだったと思う。その中で、山男から「無償で必要な人のために尽くす」ことを学んでいる。ニジェールに渡る決意をした「原点」をここに発見できたような気がした。
×     ×
東さんはこの縦走について「松医会会報」(105号)に書いている。この一文をもってして縦走劇の幕を下ろそう。
「1週間の休みをいただけませんか」の申し出があった。郷里の峰山に帰るのかと聞くと、『野口五郎からの北アルプス単独縦走』という応答には度肝を抜かれた。幸いその年の正月は天候に恵まれ、下山予定日のまだ明るい時間に右足を少し引きずっていましたが、病院内の官舎に報告にきてくれた。院内の『山の仲間』から聞いたところ、2年前からしっかり準備していたようで、こうした身の処し方はその後も変わらなかったように思う」
×    ×
この小川赤十字病院で、整形外科、麻酔科医として4年間として勤務した。続いて東京都東村山市の保生園病院(現・新山手病院)で3年間勤め、さらに津軽海峡を渡り、北海道帯広市の帯広協会病院整形外科に1977年から2年間、勤めた。ここでも職員らと山登りを楽しんだ。

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