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第二部 信州大学時代

やすへい

信濃の国のWV(ワンダーフォーゲル)

新入生を迎える4月、松本平の西方に連なる北アルプスの連山は、春の声をよそに雪化粧して輝いている。
しかし、東方の美ケ原の王が鼻、王が頭の雪化粧は薄れ、そこを源流に信州大文理学部の南側を流れる薄川の雪溶け水は勢いを増す。
ワンダーフォーゲル(WV)部の新人歓迎山行(さんこう)がその頃、美ケ原をめざして行われる。パーティーを編成して扉温泉や三城牧場などを経由して登る。旧制松本高校生だった北杜夫さんが昆虫を追い掛け回した所だ。
美ケ原では、地元の畜産農家が暑さを避け、夏の間、飼育牛を放牧していた。
美ケ原のほかに、美ケ原の南に位置する鉢伏山へのコースもあった。どちらにしても、松本から眺めても気づかない雪があたりを覆っていた。
「わあ、雪だ」新人は目を丸くし、「遠く古里を離れて信州にやってきた」ことを実感する。
こうして新緑の季節まで、ワンゲル部員は東山(松本平の人たちは美ケ原連山を「東山」、北アルプス連山を「西山」と呼ぶ)で、足ならして夏山に備えた。
梅雨が明け、夏山が始まると舞台をアルプスに移し、梓川が流れる上高地・横尾にベースキャンプを設営して北穂高、槍ヶ岳、蝶ケ岳などをパーティーに分かれ、日替わりでピストンした。上高地に入るのも、松本電鉄島々線の終点、島々(当時)から徳本峠を越えた。年毎にこれらコースやベースキャンプにバリエーションを加えた。用具や服装も変化した。
秋になると、四国や伊豆半島などをワンデリングした。冬になると、スキー合宿で雪に興じた。1年間、松本・文理学部で過ごした他学部の部員はそれぞれの学部も進級してさらに活動を広げた。
振り返ってみると、信大時代、山国・信濃の国に、人も活動もどっぷり漬かっていたことに気づく。
その中に谷垣雄三君もいた。
マキさんこと藤巻光夫さん(2020年11月逝去)が群馬県立富岡高校の教師時代、生徒会誌に1980年(昭和55)から連載を始めた山行記「みやまおこんじ・懐旧譚」にワンゲル仲間の姿を見ることができる。

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マキさんは学年でいえば、谷垣君より3つ上のワンゲルの先輩。国文学を専攻し、卒業後、群馬県の高校の国語教師を勤めた。かたわら信大文理学部の思誠寮を舞台に安保世代の青春群像を描いた小説「星落ちて」(1999年、信濃毎日新聞社刊)を執筆、出版した。
全国の大学を席巻した60年安保闘争は、地方大学でも国会突入などに無縁ではなく、巻き込まれていく。舞台は、むさくるしくても、上高地・明神池や、美ヶ原に連なる鉢伏山の描写はみずみずしく、闘争の息苦しさから救ってくれる。
マキさんはまた、文理学部ワンゲル同好会を、オール信大ワンゲル部にまでまとめ上げた人でもある。今ように言えばレジェントの人。
谷垣君はマキさんを心底、尊敬していた。静子さんと結婚したとき、2人はそろって群馬県のマキさん宅へあいさつに訪れている。
静子さんは、髪の毛を三つ編みした丸顔で、はきはきと話す人だった、とマキさん夫妻は思い浮かべる。

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難行苦行の鍋冠山越え

「みやまおこんじ・懐旧譚」は「星落ちて」とは一変、ワンゲル時代の体験を軽妙なタッチでつづり、生徒を笑わせた。「先生、もっと書いて」とせがまれて連載は10回に及んだ。
次の赴任先の女子高でも「外道の戯言」「コギャル戦線?」などを書いている。
「おこんじ」は物もらいの意。ワンゲル部員には登山途中、落ちていた物を収集するヘキがあり、そこからタイトルが生まれたという。谷垣君には、もちろんそんなヘキはなかった。

懐旧譚の第6、7回では、谷垣君をはじめ農学部・土田幸紀、谷垣君の同期の医学部・西田正孝(故人)、工学部・中野英明(同)君ら8人が参加した第2次夏期合宿=1962年(昭和37)7月22~27日=を取り上げている。サブタイル「鍋冠の彼方に」の通り、安曇野の鍋冠山(なべかんむりやま)から上高地の奥の横尾に入り、そこから槍沢を詰め、裏銀座を縦走した山行をつづっている。
ちなみに北アルプス・燕ヶ岳―槍ヶ岳の縦走は表銀座コース。夏山でもっともにぎわう人気から、そう呼ばれる。裏銀座コースは、深い谷をはさんで表銀座と相対して岐阜県側に南北に連なる峰々を縦走する。槍ヶ岳―双六岳―三俣蓮華岳―野口五郎岳―烏帽子岳と、表銀座より長い尾根が続き、登山口も遠い。従って登山者は少なく、表銀座の〈裏〉にされてしまった。
上級生のマキさんをチーフリーダーに文理、医、農、工学部の体力十分な2年生。しかし、強行軍にみんなバテた。第1次合宿の疲れもあったようだ。
横尾へは上高地から入るのが一般的。徳本峠を越えるコースもあるが利用者は少ない。鍋冠山からはガイドブックにも出ていない。それゆえにマキさんは鍋冠山に哀れみを覚え、選んだとある。ロマンティストのマキさんらしい。
横尾には第1次合宿で使ったテントがそのまま張ってある。テントキーパーが守っている。その安心感もあったのか、途中、腹をだし、昼寝していてヘソをハチに刺された者もいた。

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右から谷垣、西田、畑の3君、筆者

2夜連続の強行軍

しかし、ゴールの横尾ベースキャンプ場は遠かった。蝶が岳への登りがますますきつくなり、紅一点で参加した女性部員が歩けなくなった。マキさんが背負う羽目に。ズシリと重みが足腰にこたえた。西田君が「我がものと思えば軽し傘の雪」と、言ってからかった。
谷垣君は、部誌「榾火(ほだび)」に記している。美しすぎるきらいがあるけれど。
「大滝との別れ道についたのはもう夕暮だった。夏のアルペンの空は明るかった。はいまつの中で槍穂高連峰にみとれた。蝶ヶ岳につくころはすっかり暗くなり(中略)懐中電灯をたよりに進んだ。なつかしい梓川の川音を聞いたのは深夜の十二時である」
このつまずきは、翌日にも尾を引き、夜の槍沢の雪渓を登る事態に追い込まれた。マキさんは滑落して雪の崖のすんでのところで止まった。
難行苦行でテント内が険悪な雰囲気になると、谷垣君は「いいさ、皆で一緒に、のーんびり行こうぜ」と声をかけ、笑いを誘い、みんなの気持ちを和らげた。「他人を傷つけまいという配慮が十分、働いていた。谷垣という男はいつもそうだった」と、マキさんは述懐する。
殺生小屋のテント場に着いたのは夜の11時だった。
そう言う谷垣君も疲れていた。別テント場の夜、胃液をはいた。なのに、「言うこともやることにも無駄がなく、この医者の卵は平然として胃液に土をかけていた」とマキさん。
西田君は、谷垣君をうつぶせにさせて背中に両手の親指を当て指圧する。 「ガキッ」「グググッ」と大きな音がして谷垣君の背骨のズレを完治させた。
裏銀の尾根に出れば、表銀の一大パノラマを楽しみながら、ゆうゆうと歩ける。別天地の雲の平も散策した。

台風接近の情報

ところが、台風の接近情報で一日繰り上げて27日に下山した。
土田君は「谷垣はいつも沈着だった。日程を繰り上げて下山すべきだと、提言したのは谷垣だった」と述懐する。
土田君はそれに逆らって筆者と居残って計画を継続した。2人は、襲ってきた台風にテントが飛ばされないよう一晩中、テントのポールに抱きついてやり過ごした。縦走を完遂したとはいえ、「蛮勇」と言われぬよう土田君は「天気図から安全を判断した」と正論を主張してリーダーを説得させた。
こんな波乱万丈な合宿がそのまま、谷垣君が小川赤十字病院勤務時代に挑んだ厳冬期の裏銀座縦走への序曲になったのだろうか。
マキさんは百瀬慎太郎の言葉を添え、この合宿を結んでいる。
「山を想えば人恋し、人を想えば山恋し」

佐渡をさまよい歩く

アルプスばかりではなく、谷垣君は平地をワンデリングもしている。
この鍋冠山越えした合宿3か月前の1962年(昭和37)4月11日から4日間、佐渡島を歩いている。谷垣雄三、西田正孝、細江志郎の3君。ともに医学部進学課程2年生。新潟港から両津港に上陸し、同島北部を反時計周りで半周している。ザックをかつぎ、3食を作りながら歩く。ねぐらはその日その日の気の向くまま、風任せ。まさしくワンダーフォーゲル〈さまよう鳥〉である。
谷垣君は部誌「榾火(ほだび)」創刊号で谷垣君が筆を執って体験記をつづっている。山と違ってそこで暮らす人たちのふれあいが深く胸に刻まれるのがワンデリングの魅力だ。
4月11日、日が暮れてからお宮の境内でテントを張っていると、おじいさんが来て「ここでは寒うてねられん。家にきて泊まれ。悪いことはいわない」と何度も奨められる。ていねいにことわる。飯を作っていると、今度はおばあさんが卵入りのみそ汁を作って持って来てくれる。
食器に洗いに行くと、「上がれ」と奨められ、こたつに入る。おかしなど、うまいものをごちそうになり、9時半ごろまで話し込んだ。そのうち、医学部生とわかると、聴診器を持ち出し、腹を出して「診てくれ」と言う。驚いた3人はなんとかごまかしてテントに帰る。聴診器は牛か馬用だったのではと推測している。
2日目。エッセン(食糧)も乏しくなる。心細さをよそに、「向こうは満州かシベリアか」島の北端に立つと、こんな感慨を漏らしている。(ちょっとばかり時代がかってはいまいか)
3日目、雨が激しくなり、バス代倹約のため歩く。それも限界となり、バスに乗車し、お寺に泊めてもらう。食べずに眠る。
最終日。清掃してお寺に米3升のお礼をする。朝飯なし。余った交通費1人20円でパン2個ずつ買い腹を満たす。
夜10時、松本駅に着く。「駅より文理までいと遠きことよ」。空腹で金もなく、
「おこんじ」状態だった。

医学部闘争の先頭に立つ

谷垣雄三君は、文理学部での2年間の医学部進学課程を終え、松本市旭の医学部専門課程に進むと、ワンゲル時代とは一転し、学生運動の先頭に立った。
1969年(昭和44)1月の東大安田講堂攻防戦に象徴される医学生を中心とした学生運動。「インターン制度撤廃」「医師国家試験ボイコット」を叫び、全国各地の医学生たちの間に闘争が広がった。信大医学部も例外ではなかった。
「あの温厚な谷垣君が」と、谷垣君の活動を耳にし、ワンゲル仲間は首をかしげ、驚いた。仲間の多くはすでに卒業していたか、あるいは長野市や伊那市のそれぞれの学部に散っていたから、詳細は知る由はなかった。
無給で働く医局員の実態を目の当たりにし、本人自身、インターンを経験していたから、持ち前の純粋な気持ちから運動に飛び込んだのだろう、とだれもが推測した。
医学部自治会の委員長だったとか、安田講堂の攻防戦に加わったとか、ロックアウトもしたとか、今になってさまざまことが、谷垣君をしのび語られている。

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1961年(同36)に医学部に入学した同期生の間でこんなことがささやかれた。同期生は計60人。
「谷垣は1番で入学し、清澤研通は1番で卒業した」。
清澤さんとは、信州大助手から教授、同病院長を務めるなど、学界で知られた肝臓病の権威者。信州大付属病院で河野洋平・外相を診察し、生体肝移植を担当した。ドナーは息子の衆院議員の太郎氏(現・防衛相)だったことから話題を集めた。しかし、このことを向けてもご本人は「移植したのは外科医」と取り合わない。
現在は相澤病院(松本市本庄)の消化器病センターの名誉センター長、肝臓病センターの顧問を務め、今も現役医師である。
アフリカに渡った谷垣君の医療活動に清澤は感銘を受け、「(手術用の)タオルを送りたい」とメールしている。

1人だけボイコット

その清澤さんが、「松医会報」(平成29年105号)に谷垣君の追悼文を寄せ、谷垣君の医学闘争について驚きの事実を掘り起こしている。
タイトルは「山を想えば人恋し、人を想えば山恋し-谷垣雄三君を追悼する-」。
松医会は松本医学専門学校に歴史をさかのぼる信大医学部卒業生で組織する。松医会報はその機関誌。
2人は、「インターン制度撤廃」「医師国家試験ボイコット」運動の核となった青医連(青年医師連合会)のメンバーだった。信大では、「信州大学42青医連」(1942年卒業生の意)と呼称し、委員長は谷垣君だった。
42青医師連はスローガン通りに1968年(昭和43)3月に行われた医師国家試験を全員がボイコットした。卒業1年後に行う旧制度による最後の試験だった。
しかし、「医師免許がないと生活できないことから新制度最初の医師国家試験は受験せざるを得なかった。これは42青医連総会で決定された」。
試験前日の同年6月22日に、委員長の谷垣君を含め、34人が試験地の新潟市へ「デラックスバス」で向かった。旅館に泊まり、試験が終わった夜、その旅館で42青医連総会を開き、「自主研修」「非入局」で活動することを確認した。この総会を取り仕切ったのは谷垣君だった。
ところが、清澤さんはこの試験を全員が受けたとばかり、つい最近まで思い込んでいた。それは違っていた。
この追悼文を書くために「信州大学医学部五十年誌」をくくったら、「1968年6月に新医師法での最初の試験が行われ、42年度卒業生中1名を除き全員が受験」という記述を発見した。1人が受験しなかったというのだ。
この1人が谷垣君とは断定していないが、谷垣君しか考えられない。谷垣君は学生運動していても6年で医学進学、専門両課程を終了し、1967年(昭和42)3月に卒業している。インターンもしている。受験資格はある。
この1人は谷垣君であるという傍証として、清澤さんは「私の医師免許証番号は198000台であるが、谷垣君のそれは205000台である」ことを挙げている。
谷垣君だとしたら、試験会場まで行きながら受験しなかったことになる。
清澤さんは「絶対に妥協は許さず一人でも徹底的にやるという彼の意思の強さを改めて知らされた」と、衝撃を受けた。

1人で医学部長説得

1967年の医学部卒業生が作る「途上」という文集がある。谷垣君はそこに短編小説やエッセイを発表している。
その中から、清澤さんは、学生会の副委員長をしていた谷垣君の、こんな話を紹介している。

「大学構内の『日韓会談反対』のプラカードを引っ込めなさい。今後、学生の提示物は学部長の許可が必要」との学部長命令が出された。1965年(昭和40)7月のこと。
谷垣君は学生会委員長から、この話を学生会室で聞いた瞬間、「体の緊張するのを覚え、大きな波の中にいる自分を感じた」
委員長が帰ったあと、学部長室へ1人で行き、3時間ほど学部長と話し合った。その2日後、学部長命令が撤回された。どんな話し合いをしたか不明だが、「学部長の気持ちを翻意させたのは確かである。彼の執念と粘り強さを示すエピソードである」と、清澤さんは記している。


安田講堂にたてこもる?

このように妥協を知らない一途な谷垣君。1969年(昭和44)1月18~19日の安田講堂攻防戦で同講堂に、たてこもろうとしていたと聞かされても、「そうか」と納得してしまう。
前年、インターン制度は廃止され、代わって研修医制度が打ち出された。しかし、全国の医学部の闘争は収束していなかった。
清澤さんが記述しているように、医師国家試験で宿泊した新潟の旅館で42青医連総会を開き、「自主研修」「非入局」で活動することを確認している。さらに「その後、42青医連と43青医連は信大研修医連合を結成し、運動を展開するようになった」と。
安田講堂は工作物で封鎖され、たてこもろうとした谷垣君に、ほかの大学の活動家が話しかけ、こう説得したとほかの医師が証言する。
「ここはわたしたちの闘い。あなたはここから離れてください。迷惑をかけたくない」
機動隊による激しい放水、催涙弾が講堂と、閉じこもっていた全共闘や新左翼の学生らに浴びせられ、2日間の攻防戦で封鎖は解除された。ヘルメット姿の多くの学生が拘束された。そこには谷垣君の姿はなかった。
その医師は「谷垣君が安田講堂にいたというのは間違いない」と信じる。

〈裏切り〉悔やむ小説

清澤さんは、安田講堂事件から3年後の1972年(昭和47)2月17日発行の「途上」に掲載された谷垣君の短編小説「バナナ」を紹介している。主人公は医学部の上級生。長文ながら、転載させていただく。
「ぼくは魂の底から自分がゆすぶられ、腹の中がわきたつようでおちついていられない日をすごしたことがあった。それは学生会の仕事に失敗したとき、どこまでも学生の利益の上に立つことができず、すべてに対してうらぎりをおかしてしまったときであった。今までの自分の行動のあいまいさをいっきょに表した。そしてうらぎりの罪は大きかった。心はあまりにも貧しく感じられた。今考えてみれば階級的うらぎりを犯すほど罪深いものはないと考える。ちょうどその頃、自分にとってはげしく価値転換を迫る女性にであった。(略)この女性にあったときほど、ぼくの価値体系を根底からゆすぶられたことはなかった」
裏切りを犯した「学生会の仕事」は不明ながら、女性は後に妻となる静子さんのことだろうか。谷垣君は、松本で「女性的な母親のような暖かい理屈抜きの愛情」を求めていることを「途上」で告白している。
「バナナ」の主人公は「アジア連帯の実践者として」インドネシアに渡る。食べたバナナからコレラに冒され、亡くなる。ニジェールで生涯を閉じた谷垣君と重なる。

元病院船院長宅に下宿

谷垣君と同期の医師、畑(旧姓・岩田)日出夫君が「谷垣君の下宿していた「松本市里山辺上金井」の金井泉さん宅の当主・金井さんは、臨床医や臨床検査技師らの間で今もベストセラーとなっている『臨床検査法提要』の著者」だと教えてくれた。
この本は信大医学部の研究陣がこぞって加筆して出版を重ね「臨床検査のバイブル」になっている。金井さんの長男の正光さんも東大医学部から信大医学部に籍を移し、教授となり、この本の加筆をしている。清澤さんも参加しており、執筆作業に詳しい。
2017年12月21日、診察で多忙な清澤さんを訪ね、谷垣君の下宿のことを尋ねたところ、「えっ、谷垣君が金井先生宅に下宿していたのか」と目を丸くして驚いた。初耳だったようだ。
さらに、横浜港に現在、係留されている氷川丸が戦時中、病院船として海軍に徴用され、傷病兵の治療・救助にあたった。金井さんは軍医大佐としてその病院船の初代院長を務め、南方海域で機雷攻撃をくぐり抜けている。
病院船院長の「金井泉」と下宿先の金井泉さんと同姓同名で別人かもしれないと、畑君は慎重だった。松本市医師会に尋ねても返事は「わかりません」。
ところが、清澤さんの回答は明快だった。
「金井先生は病院船『氷川丸』の院長でした。信州大付属病院時代、先生を往診したことがあります。お邪魔すると部屋にご夫婦で横浜港の氷川丸をバックに撮った写真が飾ってありました。単なる記念写真でなく、氷川丸を意識的に表現した写真だったことを記憶しています」
「お話をしていると『オホホホ』とよく笑顔を見せられました。軍医だったとは思えない柔和な人でした」
臨床検査法提要は海軍時代、軍医を育成する教官を務め、その講義録を基に書かれたという。

氷川丸1

横浜港の氷川丸

清澤さんは、「金井邸」へ案内してくれた。「あたりは家が点在し、道は狭いうえ複雑に交差し、タクシーでも簡単に行けない」と、自らハンドルを握ってくれた。
金井邸は「東山」の丘陵地にあった。眼下に松本平が広がり、正面に北アルプスの「西山」が広がっていた。
立派な門構えの和風の家はそれにふさわしい、たたずまいで、生い茂る庭木に包まれていた。金井さん夫妻はすでに故人となり、今はだれも住んでいないという。

下宿先1

谷垣君が下宿していた松本市里山辺上金井周辺

清澤さんは、「金井邸」へ案内してくれた。「あたりは家が点在し、道は狭いうえ複雑に交差し、タクシーでも簡単に行けない」と、自らハンドルを握ってくれた。
金井邸は「東山」の丘陵地にあった。眼下に松本平が広がり、正面に北アルプスの「西山」が広がっていた。
立派な門構えの和風の家はそれにふさわしい、たたずまいで、生い茂る庭木に包まれていた。金井さん夫妻はすでに故人となり、今はだれも住んでいないという。
金井さんは、谷垣君が優秀な医学生であることを見抜き、下宿を許し、折を見て自分が歩んだ道、体験を語りかけたのだろう、と思いをめぐらす。
ここに谷垣君の峰山高時代の同級生である東京高裁判事、京都大教授だった魚住庸夫さんも泊まっている。
畑君は「この下宿で谷垣君が、白土三平の忍者漫画『カムイ伝』12巻を貸してくれたことがあった。谷垣君が漫画を読むのかと驚いた」と話す。
被差別階級の忍者が支配階級に挑む階級闘争を描き、当時の学生らから、物語が唯物史観で貫かられているとして人気を集めた。
清澤さんは、文理学部の元キャンパス「あがたの森公園」まで送ってくれた。松本人の親切さに感激し、お礼のことばも浮かばなかった。これもアフリカの空からの谷垣君の贈り物だとして感謝し、甘受した。
同公園の前に立つ。旧制松本高旧文理学部の建物がそっくり残っていた。   
谷垣君が入学した1961年(昭和36)、松本電鉄浅間線のチンチン電車がまだ走っていた。松本駅前北側の専用プラットホームから発車し、トコトコと旧文理方向に直進し、松南高校(今は移転?)前をクルッと直角に左折して浅間温泉方向に走る。同高前で降りて数分歩くと文理学部だった。
重い実用自転車のペダルを踏んで、その通りを下宿、医学部、文理学部へと走る谷垣君の姿が目に浮かんだ。
佐渡のワンデリングから帰り、松本駅に降り立ち、「文理まで遠きことよ」と嘆息したのはこの道だった。
浅間線は1964年(昭和39)に廃線となった。


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谷垣君は「昭和42年信州大学医学部卒、信州大学医学部附属病院で研修」と医学書院の「病院」に登載した原稿に自分の経歴を付記している。いわゆる〈インターン〉を経験している。

旧文理学部正門‗あがたの森

旧制松本高時代の建物が残る旧文理学部の正門。今は「あがたの森公園」

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やすへい
サハラ砂漠で平成元年を迎えました。ニジェールでの2年間、谷垣夫妻から多くを学び、今も彼らの生きた日々が生きる力と指針になっています。モロッコは自身の最初の外国、コートジボワールとフィリピンは危ないことの連続だったのに何故か好き。折々のひらめきや疑問そして反省も交えて綴ります。