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番外編 その2(写真とスケッチの帰還)

一時帰国の山形氏持参

長野県松本市での展示会を終えて間もない8月末、「谷垣雄三・静子夫妻のたくさんのアルバム写真が見つかりました」という知らせが、JICA(国際協力機構)ニジェール前支所長・山形茂生さんから舞い込んだ。
テッサワの自宅で遺品整理をしていたところ、見つけたという。「静子夫人が生前、整理したようです。10月、日本に一時帰国した際に持参します」とあった。
山形さんは連絡通りに、持参して一時帰国した2018年10月28日、長野県駒ケ根市の市立博物館で見せてくれた。ここで12月に夫妻の追悼企画展を松本市に続き開くことになっていた。
駒ヶ根市にはJICA青年海外協力隊訓練所があり、協力隊による「みなこいフェスティバル」が行われていた。世界各国に派遣され、帰国した協力隊員経験者が大勢参加するイベントだ。市民の手によって毎年、開かれている。
アルバムは計8冊(各A4版)。1冊19~37㌻あり、それぞれの片面に、L判からはがき大の写真が1枚から数枚が並べられていた。枚数は計600枚弱。
夫妻は1982年(昭和57)、ニジェールに渡り、首都ニアメで10年間、暮らした。谷垣君は国立病院の外科医、ニジェール国立大医学部教授として、診療とともに医学生の教育にあたる一方、自ら四輪駆動車のハンドルを握り、サハラ砂漠を駆け巡って地方の医療実態を探る全土医療調査を行っている。静子さんも同伴した。

山形所長持ち帰る8

持参したアルバムを見るJICA山形茂生 ニジェール支所長(当時)

 かばんを手に出勤

写真は、2人の素顔とそれら活動をストレートに伝える記録となっている。
静子さんによる写真説明と、谷垣君の短いコメントが添えられている。
9冊のうち、2冊は静子さんとの「ニアメでの生活」。「生活」では、かばんを持ち帽子、白い帽子をかぶり、白衣姿で出勤する「ニアメにきたばかりの雄ちゃん」や、ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんの訪問(1986年6月)、青年海外協力隊の隊員らとのパーティや知人らとのピクニックのスナップはほほえましい。谷垣君は当時、JICAから派遣された医療専門家でもあり、同じJICAの青年海外協力隊の隊員との交流は「JICA関係者等有志」による「故谷垣雄三先生追悼追想文集」でも見てきた。
こんな1枚もあった。別荘「マンゴーの森の家」の木陰で横になってくつろぐ谷垣君の姿。ニアメだけで見せた〝余裕〟だろう。

雄ちゃん鞄2

くつろぐ雄ちゃん1

黒柳さんと1

上:国立病院に出勤する谷垣君、中:くつろぐ谷垣君、下:黒柳徹子さんと

 浴衣姿で日本しのぶ?

浴衣姿の静子さんや、2人の日本人女性の着物姿にハッとした。アフリカと着物。静子さんはニジェールへ出発する前、デザイン研究会で絵の勉強をしていた。アルバムを見ると、こんな格好で「画友」のモデルになっていた。めずらしい姿ではなかったようだ。日本をしのんでいたかもしれない。

浴衣の静子さん24

浴衣姿の静子さん

砂漠の旅

アルバムの大半が砂漠の旅による全土医療調査活動。それによってニジェールをくまなく見せてくれる。
果てしない地平線が広がり、巨大な幾何学模様を描く砂丘=前㌻写真㊤=。ラクダの列=同㊦=。砂煙と熱風にさらされて暮らす砂漠の民の姿。その中にふたりは溶け込み、砂漠にたたずむ。人々と談笑し、交流を通して未知の生活に触れる。まるで冒険旅行だ。全土医療調査活動と旅を列記してみた。

▼ニジェールの干ばつ調査(1984年11月)▼「第一回ニジェール全土医療調査(1986年4月)▼マリ伝統的治療調査(同年11月)▼サナムの旅(87年8月)▼第二回ニジェール全土医療調査」88年8月)▼テッサワの旅(同年8月)▼アガデス・テキダンテスム▼砂漠の旅①~③同年2月。

調査活動は赴任して2年目後に始まり、1986年以降、急に増えているのは、1985年10月、横浜港北ロータリークラブを介して、トヨタから四輪駆動車「ランドクルーザー」が贈られ、足が快調になったこともあるのだろう。「2台の車が故障して困っている」という日本での新聞報道が寄贈のきっかけになったという。

砂漠11

キャラバン10


静子さん、砂漠でスケッチ

これら調査活動・旅に、病弱と聞いていた静子さんがスケッチブックを手に同伴していたことを写真が教えてくれた。砂漠で暮らす人たちの姿、衣食住が静子さんの心をつかんだようだ。谷垣君自身、スケッチができるように気遣っている。
自ら筆をとって記したコメントを拾ってみた。

スケッチする静子さん9

みんなに囲まれてスケッチする静子さん
×    ×

「もえるような暑さでの中で、冷房の弱い車で出発する。外に出れば、ただあつく、仕事のための写真以外はギンギミのマルシュを散歩したこの一枚が残っているだけである。しづ(静)ちゃんはスケッチもできなかった。ただひたすら病院・診療(所)をまわった」(第一回ニジェール全土医療調査)
「これは雨季に入りニジェールは美しかった。しずちゃんは沢山のスケッチができた。これで秋の個展の絵ができた。ぼくにとって大変な収穫の多い旅であった。決定的な旅になった」(第二回ニジェール全土医療調の旅1988年8月)(「注・秋の個展」とは先に紹介した個展「ニジェールの印象」のことだろう)
静子さんは、しゃれた服装で砂漠に立ち、さらに現地の人たちと一緒に集合写真に収まっている。なかでも幼子を抱きかかえ、浮かべる笑みに、見る人のほほが緩む。砂漠の地に溶け込こもうとする姿が印象的だ。
野宿は砂漠ではごく当たり前のことかもしれない。夜陰の砂漠の上に寝具を敷き、谷垣君がもぐり込んでいる写真も。宿泊に苦労していたことがうかがえる記述もある。
「8月だというのに緑がなかった。それでも雨を待ち、大地を耕していた。
サナムの診療所に泊まった。夜、砂嵐につつまれた。1時間息も出さず診療所の床にふしていた。 サナムに北まわりでアベラックに出てフィランゲにもどる。この道では少しミルが育っていた。丘があり美しかった」(サナムの旅)
「アヨロのホテルがしまっていたため、民家で寝た。しずちゃんは通気のないところで寝て苦しかった。食事は作ってきてくれたニワトリを食べた。(第1日おにぎりなど。イブラヒエはこれには栄養があるといった。洋なしを見てこれ何だ、何とうまいものだといった) 夕暮れのアヨロよかった。しずちゃんの体調で1日出発をのばしてアヨロにとどまったのがよかった。次にガオに向けて旅した。車がいつも砂にうまった。10時間かかった」(同)

地元の幼子と静子さん12

ニジェール川下り14

サハラの谷垣夫妻13

上:地元の幼子を抱く静子さん、
中:ニジェール川を行く夫妻、
下:サハラに立つ谷垣夫妻

初赴任地を訪問

谷垣君は、1979年の約10か月間、ウラン探査会社のIRSA(イルサ)の嘱託医として医療活動したサハラ砂漠の町、テキダンテスムを再び訪れている。手術してもだれもがまん強く、笑顔すら見せる子どもも。現代人が失った身体能力を持ち、互いに助け合う砂漠の民。すっかり魅せられ再び二ジェールを訪れる決意をさせた原点の地だった。
子どもたちと机を並べフランス語を学んだ小学校を訪れた。教師らとも再会した。住民も笑顔で迎えてくれた。夫妻は、探査活動を中止して廃墟となったIRSAの正門にも立った。
その後、パイロットセンターを建設することになったテッサワにも調査で足を踏み入れている。
これらの調査結果から、谷垣君は、悲劇的に貧しい医療体制の現状を改善するために、人口60万人あたり1か所、計12か所の外科施設を建設すべきだ――と政府に提言した。それを自ら実践するためにテッサワに同センターを建設したことは既に紹介している。

談笑するする静子さん5

小学校訪問感慨26

上:人々と談笑する静子さん、
下:子供たちとフランス語を学んだテキダンテスム小学校を訪れ感慨に浸る谷垣君

看護婦と看護夫の違い

データによるアルバムの中に「写真による業務環境報告書」があった。JICA医療専門家としてニジェールに派遣されて6年目の1987年3月に谷垣教授がJICAに提出した報告書である。
ニジェール川のほとりにあるニアメ国立病院とニアメ大医学部の医療環境や組織、医師養成のようすなどを写真で紹介している。ニアメ川のほとりに位置するニアメ国立病院は宗主国のフランスが1925年、総司令部を設けるのに先立ち、建設し、谷垣君の研究室はその中にあった。
外科医の指導・育成にもあたり、JICA青年海外協力隊顧問が、谷垣君はこう聞いてきたという。「日本の看護婦(師)が(ニジェール支援に行っても)いつかないのはなぜか」と。
谷垣君の回答は「日本の看護婦(師)は医療行為の一切を禁止する教育を受け、静脈注射することも禁止されている。この点が大きな違いとなります」。
ニジェールの看護夫は簡単な医療行為を行い、住民の尊敬を集めているという現実があることはパイロットセンターを訪問した人たちが伝えている。
さらに「ニアメ国立病院に協力隊員として外科医を送っていいか」と聞いてきた。

研究室の雄ちゃん17

論文審査18

上:研究室の谷垣教授、下:論文審査する谷垣教授

「医師派遣、8年の準備を」

「日本では外科医と整形外科医が分離している。しかし、ニジェールでは分離まであと30年かかる」と指摘。このため、ニジェールが求めるのは両方ができる「確かな外科医である」と説明し、こう結論づける。
「そのために(外科、整形外科の)トレーニングが必要となります。外科医となるために8年の修業が必要な上、フランス語の習得が必要です。このため、ニジェールに来ると決めて準備に約8年を必要とします。協力をあせらず、まず自分の技術をみがくことが大切かと思います」――谷垣君の回答は厳しい。
さらに、こうも言う。
「この病院には各国が派遣した優秀な麻酔医が8人もおり、これだけの病院はほかにないというのに、「ニジェールの若い医師は留学のことばかり考え、勉強をしない」と派遣された医師たちは怒っているそうだ。
院内の設備にも谷垣君は目を注いだ。外に長い列を作って診察を待つ患者のためにトタン屋根を造り、日陰を作った。大木になれば日陰になると、その近くに25本の苗木を植樹した。根付かず植え直したという。
入院患者のために大勢の家族が列を作って食事を届ける光景が見られる。病院の給食では患者、付き添い人の分は足りないからだ。
「外科では80%がニアメ以外の人たちで貧しく、家族のないまま来ても人々は分け合って食べるのでなんとかなります」「こうした横社会のつながりの中で、一人の患者にニアメ全体、ニジェール全体とつながっていると、心をひきしめていつも仕事をすることになります」。 

総回診19

屋根と苗木21

食事を届ける家族20

上:外国人医師の指導によるニアメ国立病院の「総回診」
中:谷垣君が作ったトタン屋根と植えた苗木(右側)
下:入院した家族に食事を届ける人たち


「砂漠の民」をスケッチ

静子さんのスケッチブックも発見された。ダンボール箱に収められ、JICAニジェール支所に保管されていた。その数はざっと25冊。
調査活動で見た砂漠や、ポツンと樹木が立つやせ衰えた大地などの風景画、そこに暮らす人々の姿のスケッチで埋まっている。いわゆる「砂漠の民」の中でも、静子さんの関心を引き寄せたのが女性のようだった。彩色した姿が何枚かのページを埋めていた。
また、余白に行動を克明に記している。走り書きで判読は難しい個所があるが「ルートを間違えてひきかえした。木陰で休息」などある。表紙に谷垣君のメモが張りつけてある。
「炎につつまれたような暑さの中、ニジェール全土の医療器材調査に向かった。車は古く、しずちゃんは旅のあと、健康を失った」「病院を訪ねている間、(静子さんは)一刻の休みもなくスケッチしている。食事のあとも休むこともなくスケッチしていた。雨季のニジェールは美しい」
サハラ砂漠で体を壊しながら、こんなに懸命にスケッチした日本人女性がいただろうか。これらスケッチや自分で撮った写真を基に制作した100点を超す静子さんの作品に企画展を通して接することができた。
谷垣君が「偉大な砂漠の外科医」なら、静子さんは「偉大な砂漠の画家」ではないだろうか。

スケッチブック27

保管されたスケッチブック

少女スケッチ01

少女スケッチ04

少女スケッチ03

少女スケッチ02


思い出の作品 母校に

「静子の展覧会を日本で開いて欲しい」という谷垣君の願いが、静子さんの母校でも実現した。松本蟻ヶ崎高同窓会館を会場に2019年6月29、30日に開かれた「谷垣静子遺作展 ~お帰り先輩!故郷・松本に~」。油彩画「本を読む少女」が寄贈され、初日にJICAニジェール前支所長の山形茂生さんから、同窓会の加藤実子会長に谷垣君の実兄、泰三さんの寄贈同意書とともに手渡された。
加藤会長は「伴侶に寄り添い、その遺志を遂げる手助けをしつつ描かれた大先輩の作品を頂戴し、同窓会の資産として、同輩・後輩に静子さまの人生を語る縁にさせていただきます」とのことばを「波里美知会」に寄せた。
静子さんが自身の作品を語るビデオが、見つかっている。青年海外協力隊調整員だった安城康平さんが静子さんの個展「ニジェールの印象」をルポしたビデオだ。(注・個展は1988年10月、首都ニアメで開催。本文【仏文化センターで個展】参照)
その中で、安城さんが「本を読む少女」を「(ほかの作品と比べ)タッチが違うようですね。力強い」と感心すると、静子さんはこう答えている。
「絵の勉強をして日本から来たばかりでスケッチしてそれを油絵に起こしました。私の思い出の作品で、お気に入りです。あとは体力が弱まり、写真から起こしたものが多くなりました。スケッチと比べて弱いですね」
「絵の勉強」とは「上田克己デザイン研究会」で多くと学んだことを指すのだろう。お互いにモデルになり、作品を批判し合って研さんを積んだようだ。写真アルバム「ニアメ時代」にある静子さんの浴衣姿のポーズは、ヘアスタイルなどから察して、モデルの体験をほうふつさせる。
また、遺作展の作品の多くが、ニアメの個展でも展示されたことに気づく。

寄贈する山形さん2

作品を語る静子さん1

静子CCFN01

上:「本を読む少女」の前で寄贈同意書を加藤会長に渡す山形氏
中:個展で作品を語る静子さん=ビデオから
下:作品の横に立つ静子さん=写真アルバムから

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