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観光と近代化。観光する、される。見る、見られること

日本統治時代、さまざまな近代科学や文化が台湾に持ち込まれました。レジャーや観光業もその中の一つです。

黎明期の観光文化は、どのように日本で発展し台湾に持ち込まれたのか。また、それに関係する帝国日本の政治的側面に焦点を当て、日本と植民地台湾における観光と近代化について調べてみました。

「観光のまなざし」と観光の歴史的発展

ジョン・アーリは「観光のまなざし」で、フーコーの「まなざし」の概念を手がかりに、歴史的・経済的・文化的・視覚的レベルにおいてさまざまな角度から観光文化を読み解いている。

観光による消費は、日常生活における消費とは異なる体験を作り出す。この
「体験」とはつまり、日常から離れた異なる景色や文化に対して、「他者としてのまなざし」を投げかけることでもある。

そして、そのまなざしは社会的に構造化され組織化されている。社会的背景や社会的記号のシステムによって、観光地に向けるまなざしが形成されるのだ。

よって、そのまなざしがどのようなものであるかは、歴史的背景と観光の発展を理解することが非常に重要となる。

ヨーロッパでの旅行文化は、11~13世紀の信仰と巡礼の旅から始まり、17世紀にはグランドツアーが確立、1830年には、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が蒸気機関車のみを使用した最初の公共鉄道として開業し、旅客鉄道の時代が幕開けした。1840年代には、近代ツーリズムの祖として知られるトーマス・クックが、旅行ガイドブックを発行。彼はパッケージツアーという画期的な旅行形態を考案し、旅行をより多くの人々にとって身近なものにした。

この鉄道の開通とガイドブックの発行は、旅行を民衆にとってより身近なものとするのに大きな役割を果たした。

一方、日本の旅の歴史は、当時ヨーロッパとの関わりが比較的少ないながらも、同様に発展してきた。伊勢参りのように宗教的な目的が強かった旅は、西洋化の流れの中で、民衆が自ら好んで行う旅行へと変化していく。

白幡洋三郎は『旅行のススメ』において日本における旅行が大衆文化へと変貌していく過程について説明している。「日本新八景」制定投票や政府による外国人誘致などのこれらの取り組みは、国内の観光地を広く国民に認知させ、旅行への関心を高める効果があった。

植民地政府による観光地の整備

  • 鉄道

ヨーロッパの植民地政策にならい、植民地政府は積極的に鉄道の整備を進めた。1985年の台湾割譲以降、清国時代の鉄道政策を引き継ぎ、1908年には台湾を縦に結ぶ縦貫線が全線開通した。

これらの鉄道は、商業的役割を重視し開通が進められた。砂糖や樟脳などの主要産物を内地へ効率的に輸送する役割を果たした。例えば砂糖で言うと、鉄道の貢献は非常に大きく、1897-8年の内地日本の砂糖消費量のうち台湾産砂糖が占める割合は12%ほどであったが、1924-5年には67%にまで達した。

  • 旅行パンフレット

呂紹理氏は、植民地政府が台湾において旅行を「制度化」した過程について考察している。特に興味深いのは、年代ごとの旅行パンフレットから見る観光地のルート化である。前提として、当時旅行に関する資料は多くなく、旅行パンフレットは当時の旅行について知るための重要な資料の一つとなっている。

1923年、摂政宮皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の台湾を訪問を契機に、観光パンフレットの内容に変化が現れ始めた。当時の親王が回ったルートが観光ルート化した。そこから徐々に旅行ルートは詳細な日程を提案するようになった。一つの地点としての観光地が、ルートとしてつながりパッケージ化されていった。

山岳地帯へのツーリズム空間の拡張

  • 国立公園の選定

国立公園選定の過程から、当時の植民地政府が植民地経営において何を見せたかったのかが見えてくるかもしれない。

荒山正彦「文化のオーセンシティと国立公園の成立」では、日本の国立公園の成立と観光というシステムが果たした役割について考察している。彼は、単に「観光資源」に潜在的に観光に寄与する価値が蓄積してきたのではなく、歴史的・社会的文脈の中で作り出されたものであると指摘している。

さらに、インドネシアを例に、ナショナリズムと観光地の関係に注目している。インドネシアは、数千の島々からなり、多様な国土や民族を持つため、国家意識の形成は比較的困難と考えられていた。

国家意識の形成に寄与したのは画家たちであった。画家による風景画における風景の抽出や、国家による観光年の設定は、国民がこれらの島々をインドネシアという一つの国土として想像することに貢献した。

日本の国立公園制度、そして植民地政府が主導した台湾における国家公園の成立も、単に自然保護の目的で成立したのではなく、ナショナリズムの高揚と国家の観光政策という文脈の中で理解する必要がある。

1937年、台湾統治も後期に差し掛かる頃、台湾では大屯山、新高阿里山、次高タロコの3つの地域が国立公園に指定された。

神田孝治「日本統治期台湾における国立公園の風景地選定と心象地理」によれば、台湾における国立公園候補地の選定は、基本的には内地日本の国立公園選定基準を踏襲していた。

選定過程全体を通して植民地政府が主導的な役割を果たし、植民地政府は山岳景観をナショナリズムと親和的な風景として重視した。つまり、選定された景観は国民投票があったにせよ、必ずしも台湾住民が考える風景地とは一致する訳ではなかったのだ。

選定において、台湾の熱帯的な風景や原住民文化などが、内地とは異なるエキゾチックな要素として注目されたことも記録に残っている。

例えば、国立公園の父と呼ばれ、日本と台湾の国立公園指定に大きく関与した田村剛氏は、当時の日誌「観光地としての台湾」の中で、台湾の観光地としての最も重要な要素として、ハワイと類似した常夏の島であることを挙げ、「内地人に対して全くエキゾチックな島」と形象している。

  • 植民地政府の林野政策

上記の国家公園の指定と観光地化には、原住民の居住する土地への介入と整備化が不可欠であった。

陳元陽「台湾の原住民と国家公園」では、各占領政権が台湾の森林と原住民に対して行った対策についてまとめられている。日本の統治時代、植民地政府によって新たな土地制度が導入された。この土地調査の結果、平地における台湾の土地の所有がはっきりと民有・官有に分けられた。

一方、山岳地帯の原住民は、漢化した平地の原住民とは対照的に、オランダ人支配、鄭氏政権、清国統治の各時代を通じて服従したことはなく、各支配権力も徹底的に鎮圧してまで服従させることはなかった。

植民地政府は「五カ年計画理藩事業」実施し、森林資源を確実に把握するため、山岳の原住民に対し武力を用いて征服を目指した。

この際、「隘勇線」と呼ばれる防御ラインが引かれ、勧告に従わない場合には防御ラインを徐々に追い上げ、追い詰める作戦を実行した。このような抑圧が、「霧社事件」のような悲劇を生み出した一因であった。

その後1925年には全台湾島をカバーする「森林計画事業」を開始し、1935年には「蕃地」と称される原住民地域は台湾全島面積の45%を占めるまでとなった。

この時代には、山岳地帯のほぼ全てが官有地に囲い込まれ、原住民は所有する土地が無くなった。というのも、生活上必要な土地は「蕃人所用地」として官の制度に組み込まれたからである。

実質、原住民との対立が落ち着くのは1923年以降とされている。この時期は山岳道路が盛に建設され、1927年には台湾八景が選定された。日月潭や阿里山は観光地となり、原住民がエキゾチックな観光対象とされ、観光空間が原住民の生活空間へも拡大されたのだ。このような異民族を他社として観察する態度は、当時の万国博覧会での展示にも表れている。


結び

産業輸送目的で建設された鉄道は、民間人の移動手段にもなり、旅行目的で多くの人々に利用された。

そして鉄道網の発達と同時に、日本の旅行機関は官主導へと変化していった。当時の旅行文化の興隆はは、帝国主義の高まりと国家による観光政策の推進を反映している。

植民地主義・帝国主義において、鉄道の敷設、交通網の整備、そして人の移動の促進は、観光事業の国策化という点で非常に大きな役割を果たしていた。

観光地開発の過程では、さまざまな権力関係が露呈した。特に、国家公園の制定過程においては、原住民居住地への暴力的な介入があったことは無視できない。

日本は台湾占領時代に、原住民に対する大規模な征服活動を行い、入植者がもたらした「土地所有」の概念を原住民に押し付けた。これは、原住民が古くから持ち合わせてきた土地に対する認識と大きく異なるものであったとされる。

現在、原住民の土地は法律によって守られているが、日本統治時代に国有化された台湾製糖の土地などは未だ国有のままであり、その土地の境界線に関する問題も未解決のまま残っている。

現在もなお、大規模な投資を伴う観光開発が世界各地で進められている。過去の植民地支配の歴史を振り返ると、「観光開発」は利益をもたらす一方で、地元住民にとっては犠牲を伴うものであるという指摘も少なくない。

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今は夏休みで、フィリピンの南に位置する島、Siargaoに来ています。まだまだ開発されていない、のんびりとした島の雰囲気が気に入って、去年に続き二回目の来訪です。

サーフリゾートは、のんびりとした南国の雰囲気がありながらも、ローカルサーファーのぴりっとした空気もあって良い。そして世界各国のオーナーが経営するホテルやレストランは、インテリア・味・音楽と、どこをとっても非常に洗練されていて、特に観光客向けの料理は本当にハズレがないのでびっくりします。

ここの島で唯一、日本人が経営するラーメン屋の店長は、近々国際線も飛んで、10年後にはこの島もバリ島のような一大観光地になってるだろうと言います。今のところ、ローカルと観光客のエリアはきっちり分けられているように見えますが、去年来た時よりはるかに建設ラッシュで、ローカルの居住地にもホテルがどんどん侵食しているように見えます。

現代の観光地はどうやってローカルの生活と開発の均衡を保つのか。日本もまさにその問題に直面してるところと思うので、非常に興味深いテーマだなと思います。

現地の自然や生活を分けてもらっている感謝の気持ちとともに、残りの余暇も楽しんで二年次に備えたいと思います。


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