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「ちょっとの雨ならがまん」と「素晴らしき日々も狼狽える」。40年前と40年後。

「"素晴らしき日々も狼狽える"を上映中の劇場から、1日だけ「ちょっとの雨ならがまん」を上映したいとお話を頂きましたので上映しますね。」

と、配給スタッフからLINEがきた。

ということで「40年前のライブハウスのパンクシーンの映画」と
「現在の野外フェスの映画」の同時上映となりました。
12/10(土)「ちょっとの雨ならがまん」と「素晴らしき日々も狼狽える」の上映。

以前だったら、

「いいよ、そういうのは」

とか言って断ったかもしれないが、

「了解です、よろしくお願いします」

と返事をした。
当たり前だ。
デビュー作とその40年後の最新作が映画館で同時上映なんて、
とてもありがたいことなのだから断る奴は頭がおかしい。

2つの作品の間には40年経っている。
この間、ライブハウスシーンも時代も撮影技術も随分と変わった。
当たり前だ。
自分もたぶん少しは変わった。

2つの時代。
音楽シーン。
映像技術。
成人したばかりの自分と還暦の自分。
何が変わって何が変わらないのか。
2つの作品を創った視点を並べて、
俯瞰で見るのも面白いかもと思えるようになった。

撮影、編集の技術は目に見えて大きく変わった。
「ちょっとの雨ならがまん」は、8mmフィルムで撮影して、
現像して出来上がったフィルムを直接スプライサーというカッターで切ってテープで繋いだ。

一方「素晴らしき日々も狼狽える」は、カメラから仕上げまで当然フルデジタル。
撮影はデジタル一眼レフをメインに、ビデオカメラ、i-phone、Goproにドローン、編集はmacbook pro。
映画館にかけるDCPというマスターデータさえもノートパソコンで創れるのだからとんでもない時代だ。

しかしフルデジタルでも、撮影しているのも編集しているのも
アナログな人間で被写体も生身の人間。
血の通った人間が血の通った人を撮る。
そのアナログさだけは変わっていない。

随分前に、名作映画「狂い咲きサンダーロード」主演の俳優の山田辰夫さんと真・雀鬼の撮影現場でご一緒した時、脚本にある麻雀シーンの「勝負の流れ」について説明をしていたら、

「勝負ごとに流れはあるの?」

と、聞かれ、そこから色々と話をした。
目に見えるものと見えないもの。
それをどう表現するか、みたいな話を。
すると山田さんは、

「役者の気持ちはフィルムに映ると思う?」

って僕に聞き、

「もちろん映ります」

って答えた。
だって山田さんの半端ない気迫は
間違いなくフィルムに転写されていて、
その映画を見たから自分も映画を撮りたくなったのだから。

映像、絵、音、言葉、音楽、エトセトラ
何かの意志を持って発せられたエネルギーは、
それに触れたものが同じ振動数と周波数を持っていれば
面白いくらいピタリと重なり共鳴し始める。
音楽を聴いているときに
理由もなく涙が出てしまう時も同じかもしれない。
逆にいくら強いエネルギーを発していても
振動数と周波数が合わなければ
その人にとっては何も感じないかもしれないけど。

音でも映像でも
触れていても離れていても
いつもふれあい続けている。
転写し転写され続けている。
摩擦しあって熱を生む。
感じて動くから感動する。

40年前に転写された作品と
40年後に転写された作品。

自分もどこか大きなスクリーンで
どこまでも俯瞰してその40年を見てみたい。

ああ、でもそれは
人間の視座じゃないのか。

28年前32歳、「ファー・イースト・ベイビーズ」撮影時。大崎M.M.M.アトリエ。

【12月10日(土)あつぎのえいがかんkiki】
17:10~「ちょっとの雨ならがまん」(1983年 45分)
14:40~ 「素晴らしき日々も狼狽える」(2022年 111分)
WEBチケット予約
http://atsugikiki.sboticket.net

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