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「街とその不確かな壁」を読んで

はじめに

それはいつもの村上春樹さんの作品だったと思うが、読む側の自分の人生が変わっていることで、その味わいにも変化が感じられた。

あとがきを見て、村上春樹さんが36歳の頃に「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を出版したとあった。その頃に執筆した作品のRefine版だという。この作品も2020年に執筆を開始し、一度は筆を置いたものの満足できず、むしろその際に追加したパート(第二部・第三部)が大半を占めているボリュームだった。必ずしもその期間全体を執筆に充てたわけではないだろうが、2〜3年の執筆期間を経ているわけである。

極力ストーリーに触れず、自分の感想に徹しようと思うが、万一ネタバレが含まれていると困るので、もし筆者の名前で検索に引っかかってしまったなどがある方のうち、作品の内容を知りたくない方はここで引き返していただきたい。

31歳の作品を、71歳に再執筆することについて

自分は、この記事を書いている今(23年5月)時点で35歳であり、今年度36歳を迎える。あとがきにあった「世界の終りと(以下略)」を上梓する年齢は36歳だったというが、その執筆期間なのか推敲に入っていた時期かはわからないが、自分の年齢に重ねて照らし合わせてみたい。

見出しにあるような40年の時の洗練を経るというのは、私の人生よりも長い期間である。それだけの間、”未完成”の感覚を持ち続けてきたというのは気の遠い話である。その分、いかにその感覚が根強いものだったのかを思わせる。過去の感覚と向き合うことはこの作品の主題の一つであろう。過去のある時に想いを馳せるのは、当時の感覚を忘れられないからだろうか。それとも、その不確かさ故に、喉に小骨が引っかかるような感覚があるからだろうか。

一方で、若い時分において”理想”を叶えることは難しい。その時のベストを尽くすために日々確かに暮らしていくが、仮にうまく成長できているとするならば、その過去の時点で起こったこと・行ったことを振り返った場合に、「あぁしておけばよかった」という感覚から逃れることは実に困難ではないだろうか。

また、仮にある鮮烈な過去の記憶や成功体験の感覚が残っている場合、淡々と過ごす日々が彩りに欠けることもまたやむを得ないのではないかと思う。ここで大事なのはその感覚が悪いというわけではなく、彩りに欠けていたとしても実はさらに未来においては価値があるかもしれないということだと思う。あるいは、過去に経験したことがある時、別の何かの体験とかけ合わさって初めて輝きを持つこともあるだろう。

さて、村上春樹さんは31歳の時に古いバージョンの「本書と同タイトルの作品」を書き上げ、その経験を経て「世界の終りと(以下略)」を書き上げたわけである。また、その後も様々な作品を経て、本作の執筆に至る。自分は未来に目線を持っていこうと思う。そして、節目においてその時々の成果をアウトプットしておきたいと改めて思う。単なる作品や成果物単体としての価値よりも、それをアウトプットするプロセスや、その時点でアウトプットしたという文脈・意味と、その結果を振り返ることを楽しみたい。

脚注:昨今は生成型AIが話題になっており、作品や成果物のクオリティだけを考えれば、もはやテクノロジーのほうが上だろうと思われることを念頭に置いて。

追加されたパート(第二部・第三部)における主人公の生活について

私ごとだが、近頃は生活のルーティン化が進み、ますます規則ただしく暮らすようになったし、適度な運動、余計な遊びなども随分としなくなっており、淡々と”生活をする”ということをかつてないほどわかるようになってきたつもりである。また、そのルーティン化が仕事にも安定化と一定の実りをもたらし始めていると感じている。

この作品以外でも、村上春樹さんの作品の多くで、妙齢の男性が(一般社会では几帳面や規則正しすぎる、意識が高いなどと言われるような)日常生活を送っていくなかで、ファンタジー的なシチュエーションに直面するという一定の「型」のようなものがあると思う。(「型」については次のセクションに譲る)

後から追加したにしてはやけに、そして圧倒的に長い第二部の大半は、主人公の男性の暮らしが描写されている。今までの作品でも、こうした描写に冗長さを感じてしまう自分がどこかにあった。だからこそ、ストーリーの動きが激しい作品が印象に残りやすく、心惹かれる部分があったのは事実だと思う。この作品でも最初はそのような感覚があったのだが、どこからかそのような感覚が遠ざかっていった。それは、次に何が起こるのだろうか?という動きを待っていたからでもない。淡々と過ごす日々のありがたみが見えてきた部分があるからなのだと思うし、何もない(ように見える)日々に、徐々に共感できる部分が強くなっていったのではないかと思う。

(この作品の中核にある部分に触れることになるので具体的な言及は避けたいが、この生活の力強さというのが最終局面のストーリーに繋がりを持ってくることを思うと、もしかするとそのように表現されているのかもしれないが、文学的なところは私にはよくわからない)

大雑把な括りになるが、現実社会で暮らす私たちの暮らしも、今時は常に刺激を求めて暮らすのが当たり前になりつつあるし、それを避けるのも難しい状況(普通に仕事をしていれば、外部の情報を遮断することは難しいなど)に置かれていると言えるだろう。ますます、村上春樹さんの小説にあるような規則正しい暮らしをするのは難しくなっていると思う。

暮らしの力強さを磨き上げる(といっても特別なことをしないことでもある)ことに少し意識を割いてみようと改めて感じた。

作品の「型」の意味について

昔からよく言われているのかもしれないが、ネットニュースやSNSが活況になりつつある頃から、村上春樹さんの作品はワンパターンであるといった意見に触れることが増えてきたような気がする。

個人的には、仕事柄「フレームワーク」について考える機会が多い。フレームワークは便利なようで、使いこなそうと思うとそれを「モノにする」必要があると思う。仕事においては、そのことは読み手にとって重要である。フレームワークを使って示されている内容が、頭にスッと入ってこない状態に陥ってしまうからである。

あるいは、グローバルコミュニケーション、特に英語でのコミュニケーションにおけるロジックのライン・フレームも同様である。これを使いこなすことによって、書き手にとっても伝えたい内容が伝えやすくなると同時に、聞き手にとっても一定の型に沿って示されることで、より内容が理解しやすくなるというものである。

いずれにも共通するのは「構造(ストラクチャ)」であろう。日常生活や仕事において、いかにも日本的、日本語的なコミュニケーションをしていると「構造」が理解しづらい場面に多々直面する。

「型」は何が起こっているか、またその意味合いに関するメッセージをわかりやすくしてくれるのではないかと思う。実際、何が起こっているかわからないような小説や映画などの創作作品は、何度か見返すことでようやく意味がわかるといったケースもよくあると思う。

あまり芸術面で評価されておらず、アカデミーから嫌われた「トップガン:マーヴェリック」もわかりやすい「型」があり、一度でその作品の構造が理解しやすかった(オチが読めるともいう)ことで、観客動員数的な意味合いでは大成功を収めた。

話を戻そう。

村上春樹さんの作品は、かつては難解だと(少なくとも私は)思っていた。何が起こっているか、その意味や解釈について議論が交わされる。新しい小説が出るたびに解説本や新書が発刊されたりもする。あえて、そのことに対して批判的な視点に立ちたい。国語の授業やテストではないのだから、正しく作者の考えを理解すること以上に、読者としてどこにどのように心振るわせたり、何かを思い至ることの方がよほど重要であろう。

私にとってはこの作品の構造が”いつも通り”であるが故に、何が起こっているかを一度の通読で理解することができたような気がするし、それによって、1度目の段階で色々と思い馳せることができ、このブログも執筆しているわけである。

かつて(20代初め頃)は、海辺のカフカなどを何度も何度も読み通すことで、その度に新しい発見があることに喜びを感じていたが、そこにも変化が生じていることを感じられた。ようやく、村上春樹さんの使っているフレームワークを(他者に説明するのは難しいが)自分なりに読みやすいと感じられる程度には作品に触れてきたということだろうか。

自分の仕事においては、なんとなく「型」ができつつあるように思うが、まだ洗練されていない状態にあり、まだまだ磨く必要があるのだと思う。難解な考えや想いを、誰かにその意味や価値が伝わるようにしたい。あるいは、一定の「型」にそって作り出す成果が、それぞれが異なる意味や価値を見出してくれる方がさらに良いのかもしれない。私自身が村上春樹さんの作品で感じている想いは唯一無二であり、同じ作品を読んでいるたくさんの人とは異なる感覚を持っていることだろう。

さいごに

本作の出版においては、近年の数作品ほどはメディアに取り上げられておらず、書店に並んでいるのを手に取った。ノーベル賞の時期に取り上げられることによって、村上春樹さんの名前に対し食傷気味になっている人も多いのだろうか。

デジタルデバイスで本を読む時代だと思うので、物理的な本が売れていないからといって、この作品や書籍が読まれていないわけではないと思うが、こうした作品との出会いが多くの人に生まれていると良いなと思う。

自分の身について考えてみれば、どうしてもビジネス書を読む機会が増えていて、文学的な作品を読んでないなと思った頃に村上春樹さんの作品が発売されるので読んでいるが、たまには別の文学作品にも触れてみなければなと思う今日この頃である。

何かの記事で見たのだが、歳をとると新しい音楽(歌手)を探索せず、聴き慣れた音楽ばかり聴いてしまう傾向があるという研究結果があった(と思う)。文学作品についてもそうかもしれない。歳をとるのを楽しむために、新しい作品との出会いを意識しようと思う。

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