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今だから言える「東日本大震災」の経験

2011年3月11日。東日本大震災。
マグニチュード9.0の大地震は、多くの人の人生を変えてしまった。その事実は変えられない。しかし、今だから語れることを忘れないうちに綴っておこうと思う。

天変地異

山形県米沢市からの帰り。友人と2人、東北本線で東京に戻る途中だった。

福島県二本松市にある杉田駅を出発し、

「次は本宮」

というアナウンスの後、車内に緊急地震速報のアラートが響いた。
緊急地震速報を受信すると、すぐに電車も減速、停車した。
何だ何だとざわめく車内。停車してすぐに大きな揺れに襲われた。レールの上を電車が転がっているのがよく分かった。窓の外を見ると電柱が大きく揺れている。外は吹雪。長い揺れだった。あまりに長すぎる揺れに、本当にこれは地震なのかと疑うほどだった。地震の揺れは一定ではない。強弱がある。強くなるときは一気に強くなって体が揺さぶられる。その度に車内の電灯がチカチカと点滅する。車内に乗客の叫び声と子供の泣き声が響いた。
車輪が揺れを抑えてくれているからか電車の中で倒れたり怪我をする人は幸いにもいなかった。

乗客はその後約3時間、明かりの灯らない車内で待機させられた。


選択

地震から3時間経って、車内から出た私達は近くの市営公民館へ移動するよう指示された。電気が無い町の暗さに驚きながら、ゆっくり移動した。
公民館に着くと、大型バスが2台停まっている。
そしてJRの職員から、

「只今地震の影響により電車は運転を見合わせております。運転再開の見込みはございません。郡山まで行かれる方はバスにお乗りください。」

10人ぐらいがバスに乗り込もうとすると、皆後に続いた。結局その市民センターに残ったのは友人と私を含めて5人しかいなかった。鰯の群れのようにバスに乗った人たちは郡山に向かって行った。


暗闇

残った僕達は中に公民館の中に入った。避難してきた地域の人たちが大勢いた。自治会の人たちが、暗闇の中ロウソクの灯りをともしておにぎりを作ってくれていた。何かできることは無いかと、米を炊く手伝いをさせてもらった。幸い水道は使えたのと、備蓄用のお米のおかげで食べるものには困らなかった。地域の人たちが野菜や魚肉ソーセージを沢山持ってきてくれた。本当に有難かった。

寝るところを確保するために、2階の体育館に市役所の職員と行った。スピーカーやら、額に収められた歴代の館長と思われる写真やら色々なものが散乱していた。それらの片付けに追われた。寝る場所は体育館以外に和室が用意されたが、電気のいらない灯油ストーブが用意されていることから、子供とお年寄りがその和室で寝ることになった。


体育館の片付けが終わる頃、毛布が届き始めた。バスケットコートほどある体育館は避難してきた人たちで一杯になった。そして日付が変わった頃、ようやく自分も毛布に包まり横になることができた。

暗闇とロウソクの揺れる炎が不安を煽った。
その夜は寒さと余震が続いたせいでほとんど眠れなかった。


「見えない」という恐さ ~視界~

朝になった。太陽が出るという当たり前のことがこんなに嬉しいことなのかと感じた。
それだけ暗闇というのは、不安をもたらすのだ。

自治会の婦人会の方がおにぎりを作ってくれていた。皆それぞれ被災してるのにも関わらず、朝から避難している人たちに食事を作っていると思うと、目頭が熱くなった。

衣食住を得られた私は、持っていたラジオで情報を集めることにした。公民館の外では、ビニール傘の骨組みを利用してテレビが映るようアンテナを作っていたが、苦戦している。

ラジオを聞いて、東京電力福島第一原子力発電所が冷却できず危険な状態になっていることが分かった。どうか収束するよう祈る思いで、ラジオからの情報を集めた。しかし原発事故は起きてしまった。
そこからが本当の不安との戦いだった。

錯綜

首相官邸から福島県の原発周辺地域に避難指示と屋内退避指示が出た。

自分たちがいる公民館から原発までは40キロメートル。隣接する浪江町は屋内退避指示が出ているが、ここもきっと危ないのでは…と感じた。家族とも連絡が取れないまま、一刻も早く避難した方が良いと思ったが何もできなかった。

そんな中、昨日のバスで郡山に向かった一人の男性が50キロの道のりを歩いて、公民館まで戻ってきた。訳を聞くと、

「郡山は人が集中して食べ物や寝る場所が足りない。ここにくれば何かあるのではないかと思った。」

と語った。


緊急時には周りと同じ行動をしているだけでは、どうにもならないことが分かった。密集しすぎても駄目だし、過疎すぎても駄目だということを学んだ。実質、国からの支援の配給はまだ何も来ていなかった。(結局配給は3日目に非常袋で炊いたおにぎり1個)自分の身は自分で守るしかないのだ。

その頃、ビニール傘骨組みアンテナテレビから、被害の状況が少しずつ分かってきた。大津波で甚大な被害があったこと。今でも見つからない人がたくさんいること。そして原発の核燃料が冷却できていないこと。

「私たちは国民の安全を最優先に考えて動いていますから、落ち着いてください。」

という発表が何度も流れた。
空には自衛隊のヘリコプターが何十基も原発の方へ向かっていった。

安全な訳がない。大変なことになっていることはそこの誰もが勘付いていた。


「見えない」という怖さ ~情報~


ラジオを聞いても聞いても、「直ちに影響はないので、落ち着いて行動してください。」ということしか言われなかった。間違いなく情報統制があることを察知した。国民がパニックにならないようそうしたのだろうが、あまりにも不自然だった。
そして夜が近づくにつれて、視界が闇に閉ざされていく。そして先の見えない不安に気分も次第に暗くなっていった。続く余震も避難者に追い打ちをかける。地震が来るとき、揺れる前に地鳴りがする。地鳴りがする度に恐怖が募る。中にはパニックになる人や吐いてしまう人もいた。
避難している人たちで声を掛け合いながら夜を過ごした。



希望の光

ぼんやりと懐中電灯の明かりだけが灯る。

横になりながら思ったのは、

いつなったら帰れるのだろうか

原発の様子はどうなっているのだろうか

どのくらい今この場所は危ないのだろうか

帰りたい…知りたい…何が起こっているかを。


隅で震えている女の子。不安な思いは伝播する。
そんなときパッと視界が広がった。
電気がついたのだ。

皆、歓声をあげた。電気がつくという今まで当たり前のことが、こんなに嬉しいことは無かった。電気という発明の偉大さに感謝した。

避難所に笑顔と会話が広がった。
その日は、明かりを付けたまま皆寝た。消してくれという人は誰もいなかった。


安否の行方

避難所生活2回目の朝が来た。

避難所にいる人たちとはだいぶ打ち解けた。
特に最初のあのバスに乗らなかった5人とは年も近かったこともあって、いろいろ話した。
そのうちの1人に仙台から来た人がいたが、自分の家族が生きているのか分からない状態で、過ごしていたのだから、今思うと本当に不安だったと想像する。しかも東京の彼女に持っていく筈の仙台牛タン塩を皆に提供してくれた。避難所で牛タンを食べたのはきっと僕たちだけだったと思う。
一緒にいた友人は、避難所生活にも関わらず来たときより太った。

朝ご飯に用意してくれたカレーと、さっきの牛タンを食べた。
精神的に結構きていた私はほとんど食べる事が出来なかった。 

そんなとき家族から連絡が入った。
ようやく携帯電話回線がつながったのだ。

家族は皆無事だったこと。東京も揺れたが、元気に暮らしていることが分かった。

家族には、それまでの経緯を話して、当分自力では帰れないことを伝えた。結局、到着できるか分からないが、こちらの避難所に向かってくれることになった。


回線が繋がったと同時に、今まで入ってこなかったメールやら留守電が一気に入ってきた。

多くは僕の安否を気にする人たちからのメールだったが、中には人に注意を促すチェーンメールもあった。

こんなのとか↓

「コスモ石油の勤務の方からです。できるだけ多くの方々に伝えてください。工場勤務の方から情報。外出に注意して、肌を露出しないようにしてください!コスモ石油の爆発により有害物質が雲などに付着し、雨などといっしょに降るので
外出の際は『傘』か『カッパ』などを持ち歩き、身体が雨に接触しないようにして下さい!!コピペなどして皆さんに知らせてください!! 多くの人に回してください!! ご協力宜しくお願い致します。」

※この件については、まとめブログなどでたくさん紹介されているので、気になる人は「コスモ石油火災で」調べてみてください。


「放射性ヨウ素は、イソジンなどのうがい薬を飲むと体に溜まらない。」

だとか

「昆布が良い」

だとか、嘘か本当か分からない情報で溢れかえっていた。

「とりあえずマスクはしておいた方がよい。」

信憑性に足る情報はそれぐらいしか無かった。


とにかく迎えの車を待つしかない。

一緒に残った5人もそれぞれ家族と連絡がつき、友達と自分以外の三人は米沢から迎えに来る車に乗っていくこととなった。


罪悪感

迎えを待ちながら。自治会の人に挨拶周りをした。見ず知らずの他人に、食事を用意してくれた。1日2回。文句一つも言わず。
自治会の人たちも避難したいに違いなかった。

挨拶をしているうちに、自分たちだけが逃げるように帰っていくことに罪悪感を感じた。

目も合わせられなかった。


別れ


米沢から迎えに来た車が到着した。

共に避難所で過ごした3人が乗って帰っていった。

「また会えるか分からないけど、またね。」

名残惜しかった。

その後の数時間は記憶がない。多分、苦しんでいたんだと思う。その人たちが、今どこで何をしているかは今も分からないままだ。


夕方迎えの車が到着した。

帰れる嬉しさと、お世話になった人を置いていくような罪悪感とが入り混じった感情。

避難所を出るとき、
「帰り気を付けてね。」と言われ、
お守りのデザインをした小袋を渡された。
その中には5000円が、入っていた。思わず涙が溢れた。ただ「ありがとうございました。」
と言うので、精一杯だった。


迷い

亀裂の入った凹凸の激しい道路をひたすら走りながら、崩れた住宅や石垣を眺める。

「なぜこんな自分にそこまでしてくれるのだろう」

「どうして福島の人たちはあんなに逞しく生きているのだろう」

「自分に何ができるのだろう」

「どうして涙が止まらないんだろう」


異変

答えは出なかった。
帰ったあとも、それからしばらくは外に出ることができなかった。
鬱だったかどうか聞かれても分からないが、食事も喉を通らなかったり震災の報道見ると、呼吸が激しくなったことからも、多分何かあったと思う。病院は行かなかった。というか行けなかった。

結局なんとか外に出られるようになるまで、1年かかった。
以前と同じように外に出られるようになったのは、本当につい最近、つまり7年かかったことになる。


「今」振り返る

現在は元気に毎日を楽しく過ごすことができている。
しかし、人はいつ何がきっかけで日常を失うか分からない。それは震災のような外からくるものかもしれないし、自分の中からくるものかもしれない。

だから僕は1日1日を楽しく大切に生きることにした。迷惑をかけないで生きるのをやめた。迷惑をかけて、かけられて、協力をもらいながら今日も生きている。
その方がよっぽど生きやすかったし、毎日が楽しかった。何より理解してくれる仲間に会えたことが嬉しかった。
今大変な人は、もっと素直に生きていい。
仕事も辞めたければ辞めてもいいし、学校だって無理に行く必要もない。「無責任だ」という人がいるが、死ぬまで働くこと、登校することに何の意味があるだろう。仕事や学校が辛くなって辞めたことによって食べ物が無い人がいたら、ご馳走しよう。
とにかく生きていれば、チャンスはたくさん回ってくる。
そんな自由で優しい世界を一緒に作ろうじゃないか。

おわり

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